犬猫論

「なんですか? それ」

 部下が俺の手帳を指さした。その革の装丁には似つかわしくないものが張り付いている。犬のイラストシールだ。


「ん、娘がシールにハマっててな。貼られてしまったんだ」

「娘さんいらっしゃったんですね。今いくつなんです?」

「小学三年生だ。一人娘だからな。お父さんお父さんって、可愛くてなあ」

 娘もそろそろ思春期に入って、俺のことを無視したり邪険に扱ったりし出すのだろう。そう考えると今、娘と仲良くできるのが只々嬉しいのだ。


「それで、手帳に貼られたシールを剥がさずにいる、と」

 部下は合点がいかぬように首を傾げた。

「お前も子供ができたらわかるさ。子供の前では俺のつまらない美的感覚なんて紙切れみたいなもんだ」

「いえ、子供の可愛さはわかっています。言いたいのは犬についてです」

 部下は険しい表情で犬のイラストシールを指さした。


 また始まった。些細な事をあげつらうのが使命だとでも思っているのか、何かしら気になることがあれば容赦なく追及してくるのだ。しかし、それでいて営業成績はトップクラスのエリートというのだから人は分からない。


「犬の何が悪いんだ」

「犬よりも猫ですよ。ペットとして飼うなら絶対そうです」

「待て待て、別にペットの話はしていないじゃないか」

 これも部下によくあることだ。こいつの頭の中では関連があるのかもしれないが、論理を飛躍させてまで文句を言ってくる。


「でも今後、娘さん、犬を飼いたいなんて言い出すかもしれませんよ」

「ん? そう言われれば、俺の書斎に入ってきて犬のシールばかりペタペタと貼っていたな」

「でしょう! これはまずい。一刻の猶予もありませんよ」

 部下が大袈裟に煽り立てる。


「おいおい、落ち着け」

「落ち着いてなんていられませんよ。犬ですよ、犬」

「別にいいじゃないか、犬を飼っても。お前が犬が嫌いなのはわかったが、それは俺の家の勝手だ」

「いえ、僕は犬が嫌いじゃないです。むしろ好きな部類です。ペットショップに行けばまず犬を見に行きますし、可愛い犬に出会ったら挨拶して撫でさせてもらいますよ」


「お前、そんなに社交的な人間だったのか。でも、それじゃあなんで犬は駄目なんて言うんだ」

 途端に部下は満面の笑顔を浮かべた。


「よくぞ聞いてくれました。兎にも角にも散歩ですよ。犬には散歩が付きものなんです」

「犬と散歩なんていい趣味じゃないか」

 部下はちっちっち、と指を振る。


「わかっていませんね。犬の散歩は趣味じゃありませんよ。義務です。毎日ですよ。日に二遍でもいい」

「そんなにか」

「そうです。でも部長、残業も多いでしょう? それに今のご時世、小さい娘さんを一人で外を歩かせるなんて危険です。そうなれば必然的に奥さんの負担になってしまうんですよ」


「うむむ、言われれば確かにそうかもしれない」

 俺は不本意ながらも部下の意見に納得してしまった。娘が犬を飼いたいと言って、俺まで娘の後押しをすれば妻に無理を強いることになりかねない。


「まさに、犬も歩けば女房に当たる、ですよ」

「それはちょっと無理があるんじゃねえか?」

 



――――――――

 帰宅は今日も遅くなり、娘はとうに自分の部屋で寝ているようだった。夕飯を温め直している妻に話しかける。

「なあ」

「なに?」

「あいつ、犬を飼いたいなんて言ってたりするのか?」

 俺は娘の部屋を指さして尋ねた。


「犬? あの子は犬よりも猫の方が飼いたいと思うわ」

「なんだって? そんなまさか……」

 俺は妻のエプロンに張り付いた大きな猫のシールに気付いた。


「それはなんだ?」

「あの子がママとおそろい、って言って張ったのよ。ほら」

 妻が指さした先には、同様の猫のシールが貼りつけられたランドセルがあった。


「オマケで付いてた犬のシールはあんまり気に入らなかったみたいで、あの子は捨てるって言ってたわね」

 俺の書斎は、ごみ箱なのか。


 この家で俺の居場所が猫の額ほどになる日も、近いかもしれない。

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