居酒屋論
「お飲み物、お決まりでしょうか」
お通しを持ってきた店員がそのまま威勢よく尋ねる。
「ビールで」
「僕はレモンサワーで。部長、勝手に頼んじゃってもいいですか?」
「ああ。お前の気が済むようにな」
「じゃあ、塩だれキャベツと唐揚げ、あと牛すじ煮込みと卵焼きお願いします。他に何かどうですか?」
部下の淀みない注文に感心して、俺は自分の注文を失念してしまった。
「ん? ああ、じゃあ……、茄子の一本漬け。以上で」
「はい、かしこまりました。注文繰り返します」
大学生かそこらに見える若い店員の張りのある声は聞くだけで活力が出る。運動部に入っているのだろうか、たくましい腕と広い肩幅は、俺を軽く持ち上げてしまいそうだ。
「お前のそういう即決力はすごいものがあるな」
俺は店員が去ってからそう切り出した。
「僕だって悩むときは悩みますけどね」
「例えばどんなときだ?」
「悩むには相応の理由が必要なんです。例えば人間関係を大きく左右するようなときですよ」
「ほう」
意地の悪い質問をしたかと思ったが、そんなことは杞憂だったようで部下は間をおかずに返した。質問に答えたというよりはぐらかしたという方が良いかもしれないが、他人の悩みというのはそうそう迂闊に触れてはいけないものである。
今日も部下は通常運転だ。
「たいていの状況では自分行動パターンなんて決まっていますでしょう? 居酒屋に入ったらまず何を飲むか、とか」
「俺はいつもビールだな」
「僕はあんまり好きじゃないですね」
確かに、飲み会の席で部下がビールを飲んでいた記憶がない。
「お待たせしました、ビールとレモンサワーです」
先ほどの店員が持ってきたが、その太い腕のせいでグラスが小さく見える。
適当に乾杯をして話を続けた。
「若い奴は多いな。そういう奴。まあ、しばらく飲んでたら苦みも気にならなくなるし好きになることもあるぞ。俺も初めて飲んだ時はとてもうまいとは思えなかった」
「いえ、僕は味が嫌いなわけじゃありません。いや、まあそんなに好きな方ではないですが。一番の理由は泡ですね」
そういってジョッキの上の方を指さした。
「泡?」
「上の白い層です」
頓狂な答えが返ってくる。
「いやわかるさ。でも、泡があってこそのビールだろう。茶色の液体部分だけでは見栄えも悪いし、風味を逃さない蓋にもなっている。泡のキレが、単調になりかねないビールの味のアクセントにもなっているんだぞ」
「泡が唇の上に付くのが気持ち悪いんです」
「……そんな奴いるのか?」
「いるんです。ここに。鼻の下を舐められてるような気がして不快なんです」
考えたこともなかった。
試しに飲んでみると、確かに泡は唇の上側に付く。しかし、これは舐められているのだろうか。
「うむむ、人によっては、不快……かもしれん? しかし、飲み方次第だろう」
こうやって、と俺はジョッキの傾きを抑えて飲んで見せる。
「そうです。でも、ビールはのどごしを楽しむものでしょう? ちびちび飲んでもおいしくないですよ。泡が消えるのを待つともう、炭酸の入ったウーロン茶みたいになってますし美しくない。ビール自体ぬるくなってますし、それになんというか、一緒に飲んでる人との時間差でさめちゃうんですよね」
「はは、ビールはぬるくなってるのにお前はさめるってか」
部下があまりに細かいことを言うので面白くなってしまった。
「酔ってます?」
「馬鹿言え、ビール一杯で酔うかよ」
「でもほら、僕に泡のこと言われたら泡が気になってきたでしょう?」
「んん、まあ多少な」
俺は上唇に付いた泡を左手で拭った。
簡単に喉へ流れてきてはくれない。そういう面から捉えると、ビールの泡は短所ともいえるものなのかもしれない。
「拭った手をどうするんですか? 自然乾燥ですか?」
にやにやと部下が挑発してくる。
「やめろ、美味く飲めなくなる」
「これは失礼しました」
「こちら、唐揚げになります」
まだ高温の油が、黄金色の衣の表面で音を立てている。添えられたレモンとレタスとの色味のバランスもまさに黄金比だ。
やはり居酒屋では唐揚げに限る。
俺は部下に尋ねた。
「レモンかけていいか?」
「それはもう一戦交える、ということでしょうか?」
部下は全く躊躇なく噛みついてくる。
だが、ここで悩まれる方が俺と部下との関係が変わってしまいそうだ。
居酒屋に、争いの種は絶えない。
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