はなよりほかに しるひともなし


 両親が死んでから、あたしには今日しかなかった。

 明日のことなんて考えなかった。今日を生きるのに必死で、独立した一日をゲームのミッションのようにただただクリアしていく。

 一日一日がぷつん、ぷつんと切れて途切れて、昨日と今日がつながらない。


 だから、夏尾とのやり取りも、ぜんぶぜんぶ明日になればぷつんと途切れて、明日には何にもなかったみたいに会って話せて、また新しい一日が孤立して存在するのではないかと、そんな気がしていた。


 自宅のマンションについたのは午後十時半を回る頃だった。

 白い室内には、自分の趣味で買った淡いグリーンのソファとデスク、パソコン、冷蔵庫など生活家電と家具が不愛想に並べられているだけで、娯楽品と呼べるものは一切ない。

 この部屋を見るたびに殺風景すぎて寒々しいと怒る夏尾は、ここへ来ると20代の女に贈るようなものではない、ぬいぐるみやら無駄にでかいクッションやらを置いて帰ったが、結局それは寝室に詰め込まれている。

 もう一室ある部屋は、疑似的に作った両親の部屋だった。


 実家は両親が死んだときに売った。もう一人暮らしをしていたし、三人で暮らしてきた一戸建てを一人で管理できるとも思えなかった。

 その代わりに、いままで住んでいたアパートより、もっと大きくて長く住めそうなマンションの部屋を買った。そのときも、部屋探しに付き合ってくれたのは夏尾だった。


 なんとはなしに開けた冷蔵庫の中にはビールと豆腐が一丁。あと、ネギ。でも茶色くしなびて異臭を放っているので問答無用でゴミ箱に突っ込んだ。南無三。

食パンもないし、豆腐を食べてしまうと明日の朝食べるものが本格的になくなってしまう。でも明日も日曜日だし、寝坊して、お昼に食料を買いに行けばいいか。

 頭の中でたてた公式の答えは「居酒屋のキャベツと冷たい焼き鳥、それから梅酒じゃ飲み足りないし食べたりない」。

 結局豆腐を切ることもせずに皿の上にあけて、しょうがのチューブと醤油を適当にかけた。そして、ビールの缶をもってベランダへ向かう。


 このマンションを選んだ決め手はベランダがマンションの裏庭に面していて、その裏庭に一本だけ、それはそれは立派な桜の木が植えてあることだった。

 ここは昔公園だったらしい。マンションを建てる際に、出資者が「せっかくこんなに綺麗なんだから残しておきましょう」と、部屋数を少し減らしてまで裏庭を作って桜を残したのだと聞いた。この桜が気に入って、あたしはこのマンションの一階の部屋に決めた。

 夏尾は「裏庭から誰か侵入できそうだ」だとか、「女の一人暮らしでこんな一階に」とかいろいろ言っていたけれど、盗られて困るものなんて両親の位牌くらいしかない。


 豆腐は窓際の床において、ベランダの柵にもたれて桜を見ながら、ビールを煽った。昔は嫌いだったビールを飲むようになったのは、夏尾が「ビールを飲めないなんてお前は子供だ」とか馬鹿なからかいをしたからだ。

 そんなことを思い出していると、ただでさえ苦い炭酸がさらに苦くなって顔をしかめた。

 目の前にある大きな桜の木はちらほらと花を咲かせ始めているけれど、まだまだ満開には届かない。


「もろともに、あはれとおもへ……」


 唇に乗せた和歌は、生ぬるい春の風とは裏腹にずっと寒々しい温度をまとっている。


 昔、ひとりぼっちの修行僧がいた。山で見かけたひとりぼっちの桜に、仲間だねと語りかけた。たったそれだけの歌が、千年もあとになってこうして呟かれている。

 それだけ、きっと孤独なんてものはこの世にありふれている。一人ぼっちの人なんかたくさんいる。だからこの歌は共感されたのだろう。


 あたしは、あたしはもう、ひとりだった。あたしには夏尾しかいなかった、たぶんずっと、夏尾だけだった。

 競争意識の激しい会社ではなかなか友達なんてできなくて、足の引っ張り合いが続く。少しでも気を抜けばミスが自分のところへ回ってくる。仕事が忙しくて、大学の友達とは交流も絶たれ、結局連絡のやり取りが続いたのは幼馴染の夏尾だけだった。それも夏尾がこまめにあたしの様子を見来てくれたから成り立っていた関係で、あたしからは何もしていない。でも、その関係すらも、たぶんあたしが今日、切ってしまった。


 両親が死んだ日、胸の奥にぽかんと穴が開いた。寒々しくて、どこかすっきりとしてしまったその胸の穴を、あたしは孤独と呼ぶのだと知った。

 通夜、葬式、四十九日、ずっとあたしの手を握っていてくれたのは夏尾だ。でもあたしの胸の穴はふさがらなくて、あたしはずっと一人ぼっちで、何も失っていない夏尾とあたしじゃ、つないだ手から何かを生み出したり埋め合わせたりすることはできないのではないかと思った。

 そんなことを考えているうちに、夏尾も心の支えにしていた父親を亡くして、孤独感を味わうことになった。それでも、孤独感に包まれた夏尾と手をつないでも、あたしの手は冷たいままで、胸の奥はスカスカのままで、むしろ穴が広がっていくみたいで。


 ひとりぼっちとひとりぼっちが一緒にいたって、ひとりぼっちがふたりいるだけでふたりぼっちにはならない。

 あたしはあたしの孤独が夏尾を食いつぶすことを恐れた。


 それなのに、夏尾の中途半端な告白は、「孤独を埋めるために一緒にいよう」とでも言っているみたいに聞こえて、夏尾の孤独を埋めてあげられないあたしは、その告白を受け入れられなかった。

 あたしには夏尾しかいなくて、夏尾が大切で、だからこんな何にも持ってない孤独な女なんかじゃなくて、もっといろんなものをたくさん持ってる、幸せでキラキラと輝いているような女と一緒になるのが正解なんじゃないのかって、ふと思ってしまった。そしたらもう、夏尾とどうにかなることなんて、考えられなくなったのだ。


「あー……、からっぽだ」


 缶のビールはすぐに無くなった。二本目を開けたけれど、きっとこれもすぐなくなる。三本目は買いに行かなくちゃいけないし、さすがにそこまで飲んだら明日は昼を過ぎても起きられない。


 あの和歌を詠んだ坊主は、孤独を何だと思っていたんだろう。あの人は、一生孤独だったんだろうか。


「めんどくさいなぁ」

「……なにが」


 目を見張った。


「あんた、なにしてるん」

「お前がさっき振った痛いロマンチストの男が、諦めきれずに会いに来ただけですわ。情緒のない女にな」



 ベランダ、裏庭、桜の木と挟んで柵の向こうから男の顔が見えていた。居酒屋においてきた、夏尾だった。



「おまえ、ええかげんにせぇよ。あのあと居酒屋で俺がどんな扱い受けたと思うねん。プロポーズ失敗して振られたか、別れ話のもつれの挙句に彼女に一喝されたかのどっちかで店員がひそひそ声で予想対決しとったわ」

「あながち間違ってないやんおめでとう」

「うるさいな」

「なに、話あるんやったらはいっといでぇな。表から。鍵、あけたるわ」

「いや、ここでええ」



 近所迷惑やし、入って来い、裏庭の柵の向こうから話しかけんなとさらに言い募ろうとした瞬間、夏尾は先手必勝とばかりにあたしにたたきつけるように言った。




「好きや」




 ――ほんまに、なんでこいつはこういきなりなんかな。



 好きや、好きや、好きや。



 その言葉を頭で何度も反響させている合間に、夏尾は矢継ぎ早に言い募った。



「小学校の時は六年間ずっと好きで、中学の時は一年の時と三年の時だけ好きで」

「おい、それ二年の時は別に好きちゃうやんか」

「高校の時は三年の時は好きで、一年と二年は」

「一年と二年は彼女おったやん、あんた。三組の美香ちゃんにうちのクラスの渡辺さんにも手ぇだしとったな」

「大学の時は」

「そこはとばせ。あんたが何人と付き合ってたんか思い出すだけでしんどい」

「そんで、そんで」

「いいか、この流れであんたの告白はすでにグダグダや」

「わかっとるわ、そんくらい」


 ぐしゃぐしゃと夏尾が頭をかきむしる。


「好きとか、もうそういう次元でもなくなって、伊勢の側におらなあかんって思ったのが、伊勢の両親が死んだとき」


 ふっと息をつめた。


「ひとりって言葉でがんじがらめになって、俺がいくらそばにおってもお前、どんどん自分で一人になってって。孤独にどっぷり浸って、俺のことを見なくなったから。このままお前を放っといたら、ほんまに、ほんまに、ほんまもんのひとりになるって思った」

「……なにいうてるか、わからへん」

「おれもわからへん」


 夏尾が泣き笑いみたいな、くしゃくしゃの顔で笑った。


「そばにいてほしいって思ったのは、おれの親父が死んだとき。お前、初めて俺のこと見たんや。おれが孤独を知って初めて、おまえは俺がそばにいることを許したみたいやった」

「そんなつもり――」

「なくても、たぶんそうやった」


 がしゃんと、柵をつかんだ思いのほか大きな手が、金属音を春の暗闇に響かせた。


「おれも、おまえも、ひとりや。誰かを失って、ひとりになった。俺にはまだ母親はおるけど、それでも、孤独を初めて知った」


 かしゃん、かしゃん。


「あの和歌を詠んだ坊さんは、桜に自分をいとおしいと思ってくれって言うただけで、自分の孤独を埋めてくれなんて一言も言うてない。お前の孤独はお前のもんや、俺の孤独は俺のもんや。埋めてほしいわけじゃない、共感がほしい」


 夏尾の言葉が柵の表面を滑り落ちて、あたしの足元まで転がってくる。そんな、景色を想像した。



「お前の寂しいも全部まとめて好きになるから、全部まとめていとおしいって思うから。全部抱えて、生きるから」



 だから、だから。


 ――そのあとの夏尾が何を言ったのかは覚えていない。

 あたしは泣きじゃくって、隣の住人のおじいちゃんがプロポーズは中でやんなさいとやんわりお声をかけてきて、平謝りしながら夏尾を家に入れた。

 あした、隣のおじいちゃんにお詫びのお菓子買いに行くからついてきて、というと、夏尾はしゃーないなと目を細めて笑った。



 その笑い方が好きで、すごく、好きで、孤独だなんだと泣き喚きながらあたしはずっと夏尾に恋をしていたのだと、その時初めて気が付いた。




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こどくのはる @kotonohasarara

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