こどくのはる
鮎
もろともに あはれとおもへ やまざくら
「もろともに、あはれとおもへやまざくらってか」
「なんやそれ」
今の気持ちを聞いたら、夏尾はそういって笑った。三月の中旬、夏尾の父親の一周忌の翌日のことだ。
小学生のころからおじさんにはよくしてもらった。
大学を卒業してすぐ、あたしの両親が死んだときも、身の回りの世話を手伝ってくれたのは夏尾のおばさんと、おじさん、それから夏尾自身だった。
あれから三年もたたないうちにおじさんも脳溢血で亡くなった。でも、してもらったことに対してあたしが提供できることはあまりに少なかった。
今回も一周忌の準備やらなにやらを手伝おうとしたが、思ったよりもずっと夏尾はてきぱきと準備を進めていて、結局全部終わった後飲みに付き合ってくれるほうが嬉しいと言われる始末だった。
平然とした「今度飲みに行こうぜ」という声や、夏尾との先日のやり取りを思い出していると、その直後におばさんから言われた言葉も思い出してつい苦いものをかみ下したような顔になる。
あの時、おばさんは洗濯物をたたんでいて、夏尾は一周忌の夜の親戚一同の食事の段取りに追われていて、あたしはと言えば食事の時にテーブルに置いておきたいというおばさんたっての希望で「おじさんの写真ベストセレクションアルバムpart2」(part1は葬式と通夜の時に思い出ブースに飾った)を製作中だった。
そんな時、夏尾がトイレに席を立ったすきに、おばさんはこんなことを言ったのだ。
「お父さんも、桜ちゃんがお嫁さんに来てくれるのを心待ちにしていたのにねぇ」
天と地がひっくり返ったような心境だった。
「……夏尾くんと、あたしがですか」
「幸路と、桜ちゃんがよ」
「夏尾くん……、じゃないわ、幸路くんとあたしが結婚なんて、そんな。だってあのこ、彼女ずっといたじゃないですか」
「大学卒業するまでの話でしょ。あら、桜ちゃんまだ幸路と付き合ってないの」
「幼馴染だし、大事な存在ではありますけど」
「そうなの、私てっきり幸路と桜ちゃんが付き合っているから彼女がいないんだとばっかり。桜ちゃん、彼氏は?」
「仕事が恋人ってやつです」
「じゃあもう幸路とくっついちゃえばいいじゃない。それでお嫁に来てよ。私が死ぬ前に」
いやはや、おばさんの「あまりもの同士くっつけてしまえ」思考は恐ろしい。冷蔵庫に残ってた茄子ときゅうりを炒めてしまえという思考に大差がない。そのあとそんなにその料理がおいしくなかったとしても、「ま、しかたないわね」とけろっとしているものなのだ。おいしくないおいしくないと文句を言われる茄子ときゅうりの気持ちにもなってみればいいのだ。
そう思った瞬間、きゅうりと塩昆布の和え物が出てきて思わずイラっとしながら夏尾のほうにその皿を追いやった。
夏尾は羨まし気に私の手元にある焼き鳥の皿を見ていたが、その視線には気が付かないふりをする。
おばさんの言いたいこともわからないわけじゃなかった。幼馴染なんてもはや家族みたいなものだし、今更結婚したって、あたしと夏尾は何にも変わらないのかもしれない。むしろ、あたしは夏尾と付き合いたくはなかったけれど、結婚ならできるかもしれないとはずっと思っていた。そう思わなくなったのは、あたしの両親が死んでからだ。
両親が死んだときのどうしようもない孤独感は、今も胸の奥にもやもやとうずくまったままでいる。こんなものを抱えた女とどうにかなって、夏尾が幸せになれるのかと考えた時、急に不安が込み上げた。
あたしの孤独が、いつか夏尾を食いつぶしてしまうのではないかと。
居酒屋で無限に出てくるキャベツを齧りながら目の前の男をにらむ。ここまであたしの思考が別のところに飛んでいることなんて知らない夏尾は、悠々とさっきの和歌の話を続けていた。
「これやから理系は教養がない」
「うっさいわ文系。就職浪人の癖に」
「浪人したけどもう決めたわ」
「中小企業やけどな」
「そんでも俺が好きで働いてるからええんや」
夏尾が片手でネクタイを緩める。その動作に、少しだけ胸の奥がざらつく。
夏尾との付き合いはもう二十年近くに及ぶ。たぶんお互いのことならなんだって知ってたと思う。
知ってた、と過去形になってしまうのは、今のあたしが卑屈だからだろうか。
夏尾とあたしがまだ中学生だった時、こいつはあたしよりもずっと背が低かった。あたしよりもずっと子供っぽくて、危ないから近寄るなと言われていた、台風で増水した地元の川でサーフィンしようとして両親まで呼び出しされるような、そんな奴だった。
それなのに、今はどうだろう。
あたしは、言えない。夏尾よりもずっと給料も条件もいい会社に勤めているはずなのに、この会社が好きだなんて純粋にそんなきらきらとした目で働くことなんかできない。両親が死んだときも、夏尾みたいにてきぱきと動くことなんかできなかった。そんなあたしが言えないことを恥ずかしげもなく口にしながら、父親の死を背負いながら、まじめに働いている夏尾は、現時点のあたしよりずっと大人であることは違いなかった。
今の夏尾のことをなんでも知ってるなんて、あたしには少しだって口にできない。
「……そんで、そのもろともにってなんね」
「お前百人一首くらい知っとけや。日本の文化やぞ」
話を切り替えると、夏尾は不満げな顔をしながら、また日本酒を一口煽ってぼそりぼそりと話し始めた。
「もろともにあはれとおもへやまざくら、はなよりほかにしるひともなし。坊さんが修行中に山ん中で見つけた桜に、『俺もお前も一人ぼっちやな』って泣きながら語り掛ける歌」
「……なあ、それほんまにそんな訳なん」
「だいたいこんな感じ」
だいたいってなんやねん、と突っ込むと、だいたいはだいたいじゃともっと雑な返事が返ってくる。
けれど、それが今の夏尾の気持ちだという意味が、どうしても分からなかった。
度数の低い梅酒を口に含んで、あたしは夏尾にさらに突っ込んだ。
「だいたいってなぁ……、それに泣いてたかもわからんやろ」
「いやぁ、泣いてたと思うよ」
それに返す酒の入った夏尾は、いつもよりずっと饒舌だ。いつもよりずっと饒舌に、言葉を連ねていく。
「桜にしかすがれへんほどひとりなんや。修行中で。桜に俺のことをいとおしいと思ってくれっていうほど、ひとりで、さみしくて。まっすぐに一本だけ咲いてる桜がいとおしくて」
そんなことを言う夏尾の白い顔に、なんだか嫌な予感が胸をよぎった。と、同時にすごく変な気持ちになって、頭を軽く振る。
「……桜桜って連呼しないで」
「自分の名前やからか、伊勢」
いせさくら。あたしの名前を口の中で転がして、夏尾が笑う。
「俺、お前のこと名前で呼んだことなんかいっぺんもないのにな」
「せやね。あたしも夏尾の名前、よんだことないね」
「桜」
その桜は、どっちや。
思わず顔を上げると、思いのほかずっと真剣な視線に射抜かれた。
「桜」
「……やめて」
「桜」
「やめぇいうてるやろ」
さくら。
三度目のその言葉に、あたしはようやく夏尾の言いたかったことが分かった。わかったっていうより、感じた。感じたっていうよりも、悟った。
多分本当に直感的な何かだった。
「なあ、もろともにってそれ、自分とあたしに重ねてるん」
「は?」
「それ、あたしに告白してるん」
コップの中の液体を飲み干した、その腕をつかんだ。
桜に好きだと思ってほしかった孤独な坊主。
山の中に一人で咲いてた山桜。
それをあたしと夏尾に重ねていたとしたら、そのロマンチストぶりに吐き気もしたし、十五年以上続けてきた友人関係が急速に崩れてしまうような恐怖心にも襲われた。でも、聞かなかったことにするにはそれはあまりにも中途半端な告白だった。
「自惚れやったらあたしが痛いだけやけどな。重ねてるん、それ。自分とあたしに。あんたも父親なくしてお母さんと二人で孤独かも知らんね。あたしも両親三年前に亡くしとるもん。まあ、孤独よね。そんで、あんた、あたしのこと好きなん。
あたしに縋るしかない、あたしに好きって思ってほしいって、あんた、そう思ってるの。一周忌を終えて、今の気持ちはって聞いたらこの和歌を言うた。それってそういう意味やろ。自分は孤独やから、あたしにそばにいてくれってそれ、そういうことやろう」
「……は、ははは」
あたしの手が夏尾の手首を放した。途端、コップはテーブルの上に転がって、手の付けられていなかった焼き鳥の上に氷がごろんと飛び出した。
それで、その氷を見つめて、夏尾が絞り出した言葉がこうだった。
「……そうやったらどうするん、伊勢」
どうするって、なに。
冷めた焼き鳥を口の中に押し込んだ。氷がのっかったせいで、冷たい鶏肉は最低な味がする。
「すっげぇ、ダサいと思う」
口火を切ったらもう止まらなかった。
「あんたが自分を一人やと思い込んでることにも腹が立つし、和歌に隠して告白なんてそんなのに『わーロマンチックー』って言えるようなお年頃でもなければ情緒もないし」
財布から一万円札を出して、机の上に置いた。ハンガーにひっかっけていた紺色のスプリングコートを適当に羽織る。
「お釣りはとっといて。あんたもあたしも冷静じゃないよ、頭冷やそう。一周忌、お疲れさん」
言いたいことを詰め込んだ三文の別れの言葉だけで店を出た。
たばこ臭い店の入り口付近を抜けて、重い引き戸を閉めてから、もしかして今、あたしは夏尾を振ったことになるのだろうかとはたと気が付いた。
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