第6話

 酒に酔って女に体を擦られた次の日は、会社を遅刻してしまった。そんなオレを「安河内さぁ、今契約社員の足きりとかあってるから気を付けてね」と、頭を禿げ散らかしている上司が優しく恫喝してきてくれた。昨日の牧野よりも格段に怖い。

「舛添さんは?見ないけど」

 その昼休み、いつも飯を一緒に食べてる先輩がいなかったので、バイトの古川に尋ねると、舛添さんは「履歴書買いに行ってる」とのことだった。この古川は学生のバイトだけれど、長期でウチに入っている奴で、ことあるごとに大学のことをとうとうと話してうざいところもあるが、基本的にはいい奴なのでたまに舛添さんと一緒に三人で昼飯を食べている。

「履歴書?あの人、転職でもすんの?」

 俺は手製の日の丸弁当を、コンビニのDX幕の内弁当を食ってる古川から少し隠すようにして飯を食う。

「みたいっすよ」

「なんでさ」

「やっぱこんな仕事ずっとやってても仕方ないじゃないですか。ほら、戸根木さんとかストレスで顔面の半分麻痺ってんじゃないすか。やばいっすよ」

 さっきはオレの説教を、入社したときはオレ達の研修をやってくれた戸根木さん。「クレジットカードが怖いものなんて幻想です。君たちはその日本人の幻想を打ち破るべく選ばれた闘士なんです!」そういってオレ達に偽善を吹き込んでくれたんだ。その頃はまだ顔面が麻痺ってなかったんだけど、どっちにしろバランスの悪い顔だったので、取り立てて問題はない様な気がする。

「まぁ、ずっとやる仕事じゃないなって感じはするよな。で、舛添さんは今の仕事やめて何するのよ?」

「SEらしいですよ、聞いた話では」

 ため息混じりに古川がいう。俺も同じ気分だ。

「システムエンジニアかよ……、IT奴隷って奴だろ、変わんなくない?」

「やばいっすよね。ブラック企業じゃなきゃ良いんですけど」

 オレも古川も鼻で笑ってしまった。改めてこういうところから、オレ達はやっぱりお互いのことを本気で心配などしてはいないのだということを思い知らされる。ふと、オフィスの上に張られている横断幕を一瞥した。『目指せ!縁の上下の力持ち!今期契約○○件! お前がやらずに誰がやる!』

 確かに長くやる仕事じゃないなこりゃ。

「舛添さんて大学出なんですよね……。今時マーチ出ても運悪くブラックに引っかかっちゃうって世の中ですからね。大学なんてのも補償にはならないっすよ」

 それを大学も出ていないオレの前で話すのか。こういう若ぇやつの「他意はないですよ」的なものの話し方もいい加減考え物だよな。コイツと始めてオレと会ったときは、「安河内さんてこの仕事3年やってんすか?やばくないっすか?」とか無邪気に聞いてきやがったことがあって、そん時にこれが世間一般に言う「ゆとり」教育の賜物というやつかってシミジミ感じたもんだ。まぁ計算機使って算数やらせてどこでどうこうなるか分からないけれども。

「そうそう、松本さん寄せ書き喜んでたみたいですよ」と、DX幕の内のハンバーグソースで滑った箸で、微妙に俺を指しながら古川が言う。

「そいつぁ良かった」

 同僚の松本さんは、結婚詐欺じゃねぇかと言われていたが、先日とりあえずの寿退社を成し遂げた。たまたまオレが絵をかけると言うことを知ってた舛添さんが、オレに松本さんの似顔絵を寄せ書きの真ん中に描くように依頼してきたので、彼女の顔をデフォルメしたものを色紙に納めたのだ。そうか、あんなオレの絵でも人に喜んでもらえるものなのか。噛み締めた日の丸弁当の米が必要以上に弾力を持っていたように感じたが、その弾力も不意に昨日のばあちゃんの件を思い出すと、とたんに気持ちの悪いものになった。今頃お袋は病院に行ってるんだろうか、介護はどうすんのか、老人ホームには入れるのか、今のオレで家計の助けになるだろうか、明日のオレ自身の保証もないというのに。口の中ですり潰された米粒が、妙に酸味を帯びてきたのが分かった。見ないようにしていたオレの目の前にある下り坂、見ないから暗闇なのかと思っていたが、よくよく見てもその先が暗闇のような気がしてきた。給料手取りで16万、社会保険その他諸々なし……。自分の立ち位置を改めて考えようとするその瞬間、いつも背後から、誰かに裸締めをされるような感覚に見舞われるようになったのはいつ頃からだろうか。覚えのない誰かが決して強すぎず、けれども絶対に優しくは無くオレの首を締め付けるのだ。うんざりしながら弁当に詰め込んだ塩鮭を眺めるていると、

「ああ、何かもう紅鮭になりてぇな」とか何とか、思わず隣に古川がいるにもかかわらず独り言を吐いてしまった。

「どうしたんすか急に?」

 何の冗談か分からずに、少し困ったような顔をして古川がオレを見る。

「なんかさ、鮭ってよくない?生まれて川下って、また戻ってきたら交尾して後は死ぬだけだぜ」

「……はぁ」

「すっごいシンプルだよね。んでそんなシンプルな人生を俺も送りてぇって思っちゃってさ」

「まぁ確かに、生きる目的なんかもはっきりしてますよね。やることも行って帰ってくるだけですし」

「だろ?それに熊だとか人間だとかさ、適度な障害もあるわけよ」

「……でも安河内さん、正確に言うと鮭って一生童貞ですよ」

「マジで?」

「だってあいつ等、厳密には挿入してないですからね。ぶっかけてるだけじゃないですか?」

 なるほどねぇ~。うん、こういう時はやっぱり学歴がものをいうわけだ。

「さすが、大学行ってるやつは違うね」

「いえ、別にそんなこと勉強してるわけじゃないですけど。……どうして急に鮭になりたいとかいう気になってんすか?」

「ああ、この歳になるとな……、いろいろ見たくないもんが見えてきちまうんだよ、古川」

「え、それは老いとかですか?」

「まぁ、それもあるわな。もうダイエーで売れ残った揚げモンとか食うと絶対むなやけとかするし。ホント、それ以外にもな、年男を二回過ぎるといろいろ来んだよ。財布が軽くなると自分の体重も軽くなったきがしつまうし、マジよくできてるわ、シホンシュギ」

 そうだ、財布が軽くなると体が軽くなってどっかに吹き飛ばされそうな気分、そんなだからオレは重石がほしいんだろうな。んでも今のオレの想像力じゃあ、重石が社員になるくらいしか思い浮かばないのがなんだかなぁ。

「なるほど……安河内さんって確か今26歳、82年生まれなんですよね?」

「うん?」

「ということはアレ、一昨年秋葉原で人殺しまくった奴いたじゃないっ……ですか。あいつと同い年ってことになるんですか?」

「歳はね。なんで?」

 妙にかしこまるじゃないか、古川?口調も「っすか」じゃなくて「ですか」になってるぞ。

「ええ、実は今大学のレポート書いてて、ほらその世代って神戸の少年Aとも同い年じゃないですか」

「そうだっけ?ああ、そうだねそんなこともあったな」

「そうなんですよ。で、その同年代としてどう思うかってことを聞きたくって。レポートの参考にしたいんですよ」

「うん、そうだな。どう思うか……、もっと明るいニュースが聞きてぇな」

 オレは梅干の端をかじりながら、きめ台詞のように答えてみた。

「え……と、そうじゃなくて」

「レッサーパンダが……立ったとかさ。」

「はぁ、」

 古川の言いたいことは分かったが、実際にそれとしかもう言いようがない。呆けた古川を見て、鼻で笑ってしまった。そりゃあ世代が同じならさ、同じドラえもんの映画とかタイムリーに観てんだろうけど、ドラえもんが共通するだけで、結局は「そうそうアレアレ」とか言い合ううぐらいにしか話は発展しないんじゃないの。


 友人の葬式ということで、遅刻した昨日の今日にもかかわらず次の日は堂々と会社を休ませてもらってしまった。お袋に頼んでタンスの奥の喪服を発掘してもらっている間、一昨日渡されたCDをまだ聞いてないことを思い出し、ウォークマンでそれを聴いてみることにした。流れてきた音楽は物悲しく、悲痛な外人の声で耳の鼓膜が揺らされた。多分、人生で失ったものや取り戻せないものを後悔する、そんな歌なのだろうと勝手に解釈をして、そしてそれに自分を重ね合わせて涙で視界を濁らせた。「ホテルカルフォーニアッッ!」とかいうサビの部分の男の叫びが、それを激しくオレに訴えてくるように思える。そういう解釈で終わらせていると、お袋が喪服を部屋に持ってきてくれた。たった1日でお袋は数年歳をとったように見えてしまうくらい青白い顔をしている。

「啓介、今日ね、病院に行ってきたのね」

「……そう」

 正直あまり聞きたくないけれど、二十代も大台を乗った大人がこういった家族の問題に無関心を装うわけにもいかない。喪服を着ながら一応真剣にお袋を見遣った。

「それでねぇ、ボケがどれくらい進んでるかを図るために、お医者さんが空間図形を描かせたわけよ、四角形のね。そしたらお祖母ちゃんそれが描けなくってね」

「……。」

「それを診たお医者さんが、『ああ、やっぱり認知症進んでますね』って深刻な顔したから……、お母さん『いえ、元から描けなかったんだと思います。』って突っ込んじゃった。もう可笑しくって……」

 それ面白いわお袋。不謹慎だけど。

 喪服を着込むと、オレは昨日からちゃぶ台の上に置きっぱなしになっていた修学旅行の写真をしばらく眺め、そしてそれを上着の胸ポケットにしまった。

 身支度を済まして洗面所で髪を整え、いざ家を出ようとすると

「啓介ちゃん、啓介ちゃん」と、ばあちゃんに呼び止められてしまった。

「ほら、櫛。寝癖がたったままじゃないの」

 いつもだったらお節介なばあちゃんの勘違いだけれども、もうこれからはそういう風にには流せない。

「ばあちゃん、これ、そういう髪型だから……」

 呆れだとかうんざりだとかとは、また違う嫌な感じだ。以前は俺の髪型を見るなりいきなり手櫛を入れてきてオレをうんざりさせたものだけど、ばあちゃんのおとぼけはもう笑いのソースとかじゃなくて、死のメタファーになっちまってるんだ。お袋もさっきは笑い話にしてたけれど、どっちかっつーとそうしなけりゃオレ達はやってられないんだろうな。

 葬儀場に向かったが、途中で香典を持ってきていないことを思い出し、慌てて梅原の実家近く、牧野と合流することになっているコンビニで金を工面した。先日ソープに行っちゃったからもう持ち合わせがないのでクレジットカードで1万円のキャッシング。うへぇ、来月の支払い大丈夫かよ。

 コンビニで漫画を立ち読みしながら待つこと十分、時間通りに来た牧野を見ると少しげんなりした。分かりやすいくらいにホストが喪服を着ているだけだったからだ。そのまま「ドンペリ入りまーす」とか言って参列者をもてなしそうな勢いだな。

「おーす、牧野。香典持ってきた?」

「ああ、でも袋がない」

 牧野、それは持ってきたとはいわないぞ。持ち合わせで足りてるだけだろう。

 牧野にちょうど買ったばかりの香典袋の余りを渡して梅原の近所の葬儀場に向かう。そういえば昔もこうしてオレと牧野でここのコンビニで待ち合わせて、それから梅原の家に行ったっけな。周りの景色は多少駐車場が増えたけれど、相変わらずだった。コンビニ横のテニスコート、その向こうに見えるのは国道線だ。けれどもその頃オレらが口にくわえてたのはタバコじゃなくチューペットにうまい棒、喪服なんてオレ達にとって世界で一番無関係だった。


 ***


 大学の友人と久しぶりに食事をすることになった。同じゼミで研究をやっていた彼は、サブカルだの何だの学生時代には騒いでいた割には、持ち前のフットワークを活かしてそこそこの外資企業に滑り込むことに成功した。あれほど無頼ぶって、大学にはチンピラのようなアロハや無精ひげを伸ばしたヒッピースタイルで登校していた彼は、今じゃあ肌触りの良さそうなブランド物のスーツを着こなすようになっている。もう左翼運動家の講演会なんかに誘っても興味すら示さないのだろう。

 「一年近く働いただけで、100万は貯まったよ」

 学生の頃は見ることのなかった可愛い笑顔で彼は言う。そうか、それが君の本当の笑顔か。今までずいぶんと無理をさせてしまったね。対する僕の笑顔はどれほど歪んでいるのかい。そこに行けば僕もそんな笑顔になれますか?

 「なぁ、もうすぐ僕は神の憲兵に殺されてしまうんだ」

 彼との別れ際、そういってせめてもの繋がりを確認しようとしたけれど、自意識過剰にも程があるなと自嘲的にその言葉を引っ込めた。


***

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