第5話

 「マザーファッカー」ってのはアメリカで言うところの悪口らしいんだけど、要するに母親とヤッてるって奴はマジありえない奴で、相手に向かって「お前ありえない奴だよ」っ言うのはまぁ悪口なわけなんだけど、じゃあ「アイウォントトゥファックユアマザー」つまり「お前の母親とヤりたい」っていうのはどういうことになるんだろうって疑問が最近あって、ていうのもこの間ヤッスンが俺んちに遊びに来てウチの母親に挨拶したとき、人んちの母親と会って緊張してモジモジすんのは分かんだけど、何でか母親がいなくなった後もモジモジしてっから「お前どうしたんだよ」て聞いたら、すげえキラキラした目で「梅原、お前のお母さん犯していい?」って少しはにかみながら耳元で囁いてきて、そん時もう流石に呆れるを通り越して、いったいどこのブンカケンのどの時代の息子がその申し出に対して「プリーズ!」って応えるっツーんだよ、よくわかんねーけど中世貴族だったら決闘もんだぞこれ、とか思いながら当たり前に「いいわけねぇだろ」って言ったら、またはにかみながら「へへへ」って鼻の頭を指でこすりながら笑うもんだから、改めて「そういや、コイツ馬鹿だったっけ」って感心しちまったんだけど、念のため「いや、マジそんなことやったらお前殺すかんな」って釘刺すと、何かそれがヤッスンには気に障ったみたいで、「大丈夫だよ、心配すんな」って顔を真っ赤っかにしてほっぺたを膨らませて、おちょぼ口でいじけるもんだから、「あ、何か可愛い」って不覚にも思っちまって、いやここら辺はどうでもいいや、まあつまりだ、友人の母親とやりたいって感覚がどうやったら出てくるわけ、とか思ってたらチキショウめ、実際ダチの母親と結婚した野球選手が居やがって、そん時に「ああ、世界って俺を置いてけぼりにしてんだなぁ」って気持ちになったんだけど、ここんところが重要で、つまりは俺たちはもうちょっとこのブンカケンだの思い込みだのを捨てられたらもっと自由に生きられるんじゃないのかってことなんだけど、とはいえやっぱりヤッスンが俺の母親を犯しやがったら、俺は「プリーズ!」なんて言う事は出来ずにぶっ殺すわけで、ヤッスンみたく何事も気にせずには生きてないわけで、つまりはおれはこのブンカケンだの思い込みだのともうちょっとやりくりしなきゃいけないってことだよ。だろう、ヤッスン。あ、もしかしてお前「『おか』あさん」と「『おか』していい」で韻を踏んだのか?



「そういや、梅原ってさ」

「うん」

 牧野は冷めたホッケをほじりながら聞いている。

「夏のプールの時にはいっつも学校休んでたよな」

「ああ」

「一度それでさ、そのことおちょくった同じクラスの奴と殴り合いの喧嘩になってさ。それ以来かな、なんか梅原って地雷のあるやつだよなって、少し敬遠するところがあったんだよな。いや、もちろんそれでもダチだったけど」

「まぁ、俺は気にしてなかったけどな」

 カスの様なホッケの身を口に運びながら牧野が言う。

「うん、それで一時期俺と梅原、話さない時期が続いたんだよなぁ」

 牧野はビールでのどを鳴らして、間を置いてオレを見た。

「その梅原と喧嘩した奴、誰か覚えてる?」

「いや?」

「……お前だよ」

「まじで?」

 牧野はしょうがねぇな、というため息を、ゲップとともに吐き出して言う。

「アイツな、お前のことが好きだったんだよ」

「……ゲィ」

「そうじゃなくて、なんていうのかな。お前がいなきゃだめだったんだよ、梅原は」

 牧野は意外なほどまじめにオレを見て言うので、少し酔いの回り方がおかしくなってきた。

「なにそれ」

「なんだろうな」

 いや、そこはお前が仕切ってくれよ牧野。

「だからさ、喧嘩しても、お前がどっちかっつーと悪くても、あいつは関係を切りたくなかったんだろ。結構あの時ひどい事いったはずだぜ、お前。それでも梅原はお前との関係を切りたくなかったんだよ」

「あいつのほうが気を使ってたっていうこと?」

「多分」

「『多分』ね……」

 いやいや牧野、そんなこと言ったらオレが成人式であんな態度取ったのにすげぇ罪悪感持っちゃうじゃん。あんな良い大学行ったアイツが、今は実質フリーターのオレなんか気にするはずないし。

「ほら、アイツ読んでる漫画だとか聴いてる音楽だとか、観てるテレビも俺らと違ったじゃん?」

「ああ、何か小難しい奴とか好んでたな」

 そしてその一部が、オレの部屋にまだあんだよね。

「あれさ、親が見せなかったんだよ。俺たちが普通見てるような、漫画とかアニメとか。だから親が許したり、よく分かんないような外国の奴を見たりしてたわけ」

……突然とんでもないことをばらしやがる。そういやコイツ、人んちのドアを「お邪魔します」もなく開ける様なやつだったよな。ひどい時にはオレんちの鍵の隠し場所を探り当てて、勝手に上がりこんでスーファミやってて、俺が帰ってきたら「よう」とか平然と言ってたっけ。

「それは……、プールと関係あんの?」

 牧野がわずかに頷いた。

「アイツんち親がすげぇ厳しくてさ。今思うと厳しいをいき過ぎて虐待ってことなんだろうけど、体にさ、色々傷だとかが残っててさ、それを見せたくなかったんだろ」

「詳しいな」

「梅原とは小学校から一緒だったからな」

 なるほどねぇ。何か、頼んでもいないのに手品の種を明かされた子供みたいな気分になってきた。

「あいつさ、小学校まであんまり友達いなくってさ」

「……へぇ」

「暗いとかじゃなくてな、クラスの皆が知ってたりやってたりする事に付いていけなかったわけ。ドラゴンボールわかんねぇのにドラゴンボールごっことかできないじゃん?」

「じゃあ、ドラえもんとかサザエさんとかも駄目だったわけ?」

「ああ」

「まじか、サザエさん観てないってグレートだなオイ」

「……。」

「冗談だよ」

 そうだったのか、多分俺も小学校の頃一緒だったらあいつを省ってたんだろうな……。確かに思いかえしてみると、うちに遊びに来たときなんか、梅原は結構熱心にオレの本棚の漫画を読んでたな。オレより漫画の内容に詳しかったんで、あいつが元々オレらが読んでるような漫画を知ってたような錯覚をしてたんだけど、そこそこ勉強できるやつだったから暗記しちゃったってやつか。

「中学になってからだろ、あいつが周囲と話すようになったの、って言うかその頃には俺たちもテレビの話題ばっかじゃなくなってきたからな」

「まぁ、オレはそっからからしか知らないんだけどさ」

「ああ。で、中学に入ってからとりわけ仲が良かったのがお前ってわけだ。あいつ、小学校の頃はあんなに笑うやつじゃなかったんだけどな」

 大体のことを無難にこなすし話も上手いんで、てっきり梅原は小学校の頃から梅原なのだと思ってたら、そうでもなかったわけだ。よりによってオレが一番最初にできた友人だったとは。確かにオレとなんか本当は気が合わないようなやつだったのは確かだけど……。

「……そういや一昨日さ、梅原から着信あったわ」

 黙って、しかし細く鋭い目を少し大きくして牧野はオレを見た。

「話さなかったのかよ」

「……コールバックしたけど、出なかった。40秒差でさ」

 牧野はそれ以上何を言っていいか分からないようだった。流石に責めるとかじゃないけれど、少ししょうがねぇなって顔をしている。

「……他の中学の同級生には連絡入ってんのかな?」

「ないんじゃない?」

「そう?」

「基本はやっぱ大学の関係者だろ?お前はやっぱり、ほら、一番仲が良かったわけだから。家にも遊びに行ってたろ」

「うん、まぁアイツのお袋さん美人だったしな」

「お前……」

「いやいや、やましい気持ちなんか無かったさ。大丈夫だって」

 牧野は「どうだか」とオレを横目で見ながら、残り少ないビールを飲み干した。そのジョッキを持つ右手薬指には、ごついシルバーのリングが鈍く光っている。

「そういや牧野っていま彼女居んの?」

「いるよ……」

 聞いちゃまずかったのだろうか、一瞬牧野の顔が翳った。

「お前は?」

「女日照りが続いてるよ。おれ、去年の下半期童貞だったもん」

「下半期童貞……」

 牧野はこのフレーズが気に入ったようだ。

「最後にしたのはどんなよ?」

「……、出会い系」

 中学の同級生に、しかも今はホストをやっている奴にこんなことを言うのは屈辱のきわみだ。しかし、嘘で彼女といってしまうほうが余計惨めだろう。

「まじで?俺出会い系やってる奴なんて初めて見たんだけど」

 これだから言いたくなかった。

「で、どんなよ?あれだろ、常盤貴子似だとかいって、いざ会ってみたら頬骨が張ってただだけだったりするんでしょ」

「そこまで酷くねぇよ。……オレが会ったのは、『猿の惑星』にでてた優しい猿に似てる女だったな」

「ああ、悪くはねぇな。俺結構好きだよ、……ヘレナ・ボナム=カーターだっけ?『ファイトクラブ』の時のアバスレビッチっぽい演技とか良かったじゃん」

「……それに特殊メイクが施されてんだよ。元の女優の顔なんかわかりゃしねぇだろ」

「そりゃそうだ」

 オレや梅原と違って、牧野はかっこよく笑う。グラスを片手に、小粋なジョークを聞いてるように。とはいえ、それが不快にならないところがこいつの良いところか。

「で?そいつとはどれくらい続いたの?」

「一回やっただけ。一回だけでも酷いもんだったぜ。やった後は当て付けにそっぽ向いてテレビ見てたんだけどさ、後ろから抱き着いてきて肩を甘がみしてくんだよ、「アムアム」だとか言いながら。猿がだよ?マジうぜぇ。ムカついちゃってさ、『ここ割り勘ね』ってラブホ代割り勘にしたら、ようやく不機嫌になってくれたよ」

 ニヤニヤしながら牧野が聞いている。時間と疲れ、その他諸々で埋もれていた昔の表情が、時間の経過と共に、少しづつ発掘されてきたように見える。

「あのさ……」

 何かを必死に抑えるように牧野は説明しだす。

「エイズってな、元々人間じゃなくて猿の病気らしいんだ」

「……うん」

「アフリカとかでさ、見世物かなんかで人間と猿でやらせてさ、そっから人間に広まったらしいんだ」

「……」

「……」

「気を付けねぇとな」

「大丈夫だって、意外とエイズって死なねんだよ、心配すんな」

 オレは笑う、牧野も笑う。少しずつあのころに近づいた笑い方で、ただ梅原が足りない。

「ああ、そうそう」

 何かを思い出した牧野はそういうと、バッグからCDを取り出した。

「なにこれ」

「CD」

「分かるよ」

 軽く牧野を小突くと、牧野は笑いながら「昔梅原に借りたんだよ、借りっぱなしになってた。」と説明してくれた。

「何でオレに渡すわけ?お前持ってろよ」

「いや、何か自分だけで持っててもな。ほら、葬式までにお前も聴いとけよ」

 ジャケットを見るとみたことも聴いたこともないようなグループのものだった。そもそも何て書いてあるか分からない。まぁ、家に帰ったら聴いてみよう。

『下駄を鳴らして奴が来る 腰に手拭ぶら下げて』

 オレと牧野の頭上を店内のBGMが流れる。誰が歌っているか分からないけど、たぶん昔の歌なんだろう。下駄なんて履いたこともないし、履いている奴も見たことないけど、なんとなくその情景が具体的に俺の中に浮かぶ。何か胸がムカムカしだした。

「牧野さ、なんで高校中退したわけ?」

「……何となくだよ。じゃあヤッスンは何で真面目に卒業したわけ?」

「まぁ、何となくかな」

「だろ」

 いや、何となく中退と何となく卒業じゃあ違いがあり過ぎないか?

 そういやぁ高校も残り少なくなって、みんなが進路だ何だと言い始めたとき、同じクラスの奴が「今キツイ思いをして将来楽になるのと、今楽をして将来キツイ思いをするのとどっちがいいんだろう」って悩んでいたな。でもどうだかな、将来ってどこからどこまでを指して言うんだろう。頑張って頑張ってその先には?いい会社入るために大学にいって、いい嫁さんもらうために仕事頑張って、いい家庭作るために収入増やして、子供をいい大学に入れるために体削って、いい老後を過ごすために寿命を縮めていく、どこからどこまでが将来だ?どうせ人間なんてみんな遅かれ早かれドロップアウトしちまうんだ、この世から。そう考えたら、結局その段階が牧野とオレとは少し違うだけかもしれない。

「……ヤッスンってさ」

「何?」

「将来絵を描く仕事をするとか言ってなかったっけ?」

 ほうらおいでなすった。まったくこちらが忘れたころに……。

「ああ、諦めた」

 オレは小鉢の中の、ほとんど皮だけになっている枝豆をまさぐった。

「何で?」

「……才能がなかった」

 それだけだ、本当にそれだけ。

「お前美術5だっただろ?才能無いってことはなくない?」

「そんな奴世の中にごまんといるだろ。それだけじゃあ才能の保障にはなんないよ……。そういうお前こそどうよ?高校のころバンド組んでたんじゃなかったの?」

「ああ、あれ遊びだし」

 ズルイなぁ、こいつは相変わらず。

「好きなことを仕事にできたら、それが一番だと思うけどな」

「好きなことっつってもな、……仕事にできるほど好きかどうかってのはまた違うだろ」

「……そうだな」

 そういうと二人して、ほんのしばらくもう何も残っていない小鉢を眺めた。

「そういうお前こどどうよ?好きでやってんの、今の仕事?」

「んなことねぇよ」

「じゃあいったい何やりたかったわけ?」

 めんどくさい物を思い出すように少し唇を歪めて思案して、牧野は目だけでこちらを見た。

「何も、ない。なりたくないものはあったけど」

 「取りあえずビッグになりたい」、馬鹿そうな白人がそう話す、昔予告でだけ見たドキュメンタリー映画のワンシーンが、何でか牧野のその一言で思い出された。どうやらオレ達はもう何もこれ以上出てこないみたいだな。 

 『麦藁帽子はもう消えた あんなに大事にしてたのに』

 意図的なのか分からないが、いやなBGMが先から流れるもんだ。オレらの人生ってのも、いつの間にかいろいろ消えてくもんなんだろうな、大事にしてるつもりのものでも。オレは26にしてもうそれを痛感し始めている。


 牧野がもう仕事だというので店を出ることにして、帰りに二人で当日の待ち合わせや、一応梅原のお袋さんにどういう言葉をかけるか、香典はいくらくらい包むのかを打ち合わせして別れた。

 牧野と別れたのは良いが、オレの胸の中では、触手だけの蛸みたいなものがさっきから暴れている。食欲ではないことは確かなんだけど、とにかくムカムカするので何とかそれを解消しないと気持ち悪くて仕方がない。しつこいキャバクラの勧誘を肩で切りながら夜の街をさまよっていたが、雑居ビルの風俗店「LOVE TOGETHER」を見つけると、自分のこのムカムカが性欲なのだと結論付けて早速入店を決めてしまった。きちんと雑誌で紹介してある店なのかどうかもわからないが、今の気持ちにはこの場末な感じがぴったりだ。

「当店のご利用は初めてでしょうか?」

 店に入ると、裏で一体どんな奴と関わっているのか分かりゃしないような胡散臭いおっさんがオレを出迎えてくれた。取りあえずオレはこの胸に絡みついた触手のような奴を取り除いて欲しかったんで、パッと見の写真でよく考えずに女を選んでしまった。こういうことをすると、大概ろくでもないことが起きるんだと思ってたら案の定、出てきた女は水中で大活躍しそうなモビルスーツによく似た女だった。肝臓がフォアグラになってんじゃねぇのか。

「いらっしゃいませぇ、真李亜です」

 狙っているのかどうなのか分からないような舌足らずな喋り方、つーかお前絶対マリアって名乗っちゃだめだろってくらい不憫な奴だ。最近の写真の技術の進歩は全く驚くばかりだとしか言いようがない。

「システムを説明しますね……」

 んでもって、この時ばかりは口調がしっかりするところが生々しい。

 服を脱いでマットの上で全裸で寝そべるオレに湯をぶっ掛け、本当にぶっかけという表現が似合うようにぞんざいにぶっかけ、ある程度体をきれいにしたら、そのモビルスーツは今度はよく泡立てたソープをオレの体に塗りたくってきた。オレはそのまま、まな板の上の魚みたく身を任せる。普段はもっと主体的に動くこともあるんだけど、今日はこの胸の何かを取り除くことに専念したいので、本当に捌かれる魚の気分だった。早くオレの胸をかっさばいてこの何かを掴み出してくれ。頭上でプロペラが回って、ファンの音が微妙に室内の空気を揺らしている。オレはこいつの思い出に残りたくないし、オレも残したくないんで、そのプロベラと薄いピンク色の天井にこびりついた染みを凝視した。……点が三つあってまるで人の顔みたいだな。こまごまと動くモビルスーツを尻目に、オレの意識はさっき加藤といた居酒屋にあった。頭の中では昔のBGMが、店にいたときよりも大きく流れ、だけども歌詞を覚えていないから、断片的な歌詞が同じところをグルグル回っていた。

「あと40秒早かったら……」 

 突然オレの頭の中で、ジョッキを片手にした牧野がつぶやいた。 

「じゃあ次は、タワシで」

 そう言うとモビルスーツはオレの泡だらけの腕をまたいで、きちんと剃り揃えられた陰毛でゴシゴシ擦りだした。しかしその言葉も、オレの中で流れるBGMと牧野の言葉で打ち消される。

「あと40秒早かったら……、梅原はまだこの世にいたんだろうか」

 陰毛で擦られて俺の垢がボロボロ削られるたびに、オレの大人としての体面もボロボロ削られていく。知らない間にボロボロ涙が出てきて、俺はようやくつかえてた触手の正体がわかった。

「どうしたんですか?そんなに気持ちよかったんですか?」

 うるせえよ売女、黙っててくれ。

 しまいには俺は嗚咽を呻きながら泣く始末で、モビルスーツの真李亜ちゃんはドン引きしていた。ごめんね真李亜ちゃん、アトピー持ちで間接の節々に赤褐色が沈着している真李亜ちゃん。怖がらせるつもりはなかったんだ.

 わざとらしい舌足らずな口調を思わず忘れて、人の腕に股間を擦り付けている水中戦用の奴がオレを心配した。

「大丈夫ですよ、気にしないでくださいね」 

 最後まで起たないままで、オレがEDで情けなくて泣いていると思ったのか、アトピーっ子のせいで体が所々ほんのり赤くなって、三倍速で動けそうになった真李亜ちゃんは慰めの言葉をかけてきてくれた。自分の口癖だけに悲しさが倍増する。「これが本当の僕じゃないんです!」だとかフォローを入れたところで一体何になるのだろうか。結局言い訳の許されぬ敗残兵のような気分でオレは家路につく羽目になった。

 泡姫相手に心配されて慰められ、仕事の疲れに加えて酒と情けなさが相まって、ほとほとな感じで家に着く。ヌクどころか一回も起たずに2万円以上払うなんて、まったく情けなさ過ぎてオレも梅原の後を追いてぇよ。でも、風俗いった後に死んじまうってのもかっこ悪すぎるので後数日は生きとかないと、ってなんだかこんな下らないことが自分の生きてくモチベーションてのもかなり考え物だ。

 家に帰ると、家全体の空気が死んだようになっていて、なにより部屋に入るといつもばあちゃんがちゃぶ台の上に置いているチラシの類が無い。もうこの時点で嫌な予感しかしないんだけど、居間に行って暗い部屋で一人酒を飲んでるお袋を見たとき、これ以上時間が動いてくれるなと切に願ってしまった。

「……敬介」

 こちらを見ずに気配でオレを察したお袋は、頭を抱えたままその言って欲しくない先を喋りだした。

「お婆ちゃんがね……、ボケちゃってるらしいのよ、本格的に。それで病院に行ってね……、アルツハイマーだからもう止まらないんだって」

 何だ、ボケかよと安心するのも束の間、何か自分がとんでもない泥濘に足を取られていることを理解した。

「……遅くまでどこ行ってたの?」

「……明後日の通夜の話、牧野と」

 死んでもソープ行ってたなんて言えねぇ。俺は自分から石鹸の匂いがしているかもと、恐る恐る鼻を啜った。

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