第46話 遣唐12 大日の幻

密教とは何か?


それは「秘密の教え」の略語で

金剛頂経と大日経(大日経を取り入れたのは恵果)を教本とする、


「実は大日如来が釈迦に教えを授けたのであって、釈迦の悟りも元からあった宇宙の摂理に気づいたからだ」という内容の天竺生まれの仏教である。


その伝え方は師が教えを受ける準備が出来た弟子を選んで秘伝を授けるため、秘密の教えと言われた。


何故秘密にするのか?

それは、真言や手印、加持祈祷の修法一つ一つが強い効力を持つが故にきちんと修行をしていない者がそれを受けとるのは、非常に危うい。とされたからである。


しかし秘密主義の一方で在家の信者たちには加持祈祷という形で行者が仏に向かって祈り、信者の願いを叶えてきた側面もあるため、


神秘性が強いが、現世利益をもたらすなんだか妖しい呪術を使う宗派。と


密教は長年誤解されてきた。


「今より、この空海をわが後継者とし、密の教えを授ける」


と青龍寺の門をくぐった時からにこにこ笑って空海の手を握って離さない恵果は、本堂に集まった弟子たち全てにそう告げるとすぐに


伝授のための道場の支度、

画家を集めて金剛界、胎蔵界両曼荼羅の書写、

仏師を集めて仏像の設計図の複写、

法具職人を集めて新たな密教法具の作成、を弟子に命じて使いに出させると、


最後に書の達人柳宗元にできるだけ書学生を集めて経典の書写に当たらせたい。これは恵果の一命をかけた頼みである。という内容の文を送った。


たった一言で、都じゅうの職人と芸術家を動かせるこの恵果さまとは…一体何者なのか!?


と初めて密教の寺を訪れたばかりの空海は自分の手を握って楽しそうに青龍寺の内を案内して回る老僧の権力行使を目の当たりにして戸惑いながら、やがて一つの像の前で急に立ち止まった。


「なんて激しい仏なんや…!」


両目を見開き、上唇で下唇を噛む憤怒の形相。右手に剣、左手に羂索けんさく(悪人を縛る縄)を持ち燃え盛る炎を背負う異形の像に空海はすっかり吸い寄せられるように一歩近づき、手を伸ばした。


「そのお方は仏ではなくて明王だよ。不動明王。梵語でヴァチャラナータ、人々の悪心を調服する役割を持つ」


と説明しながら恵果が不動明王像を見上げると突如、美しい紅い焔が明王像の全身から発せられ、空海を包む蒼い焔も伸ばした手の辺りから明王像に向かって二色の焔は中空で溶け合った。


それはまるで空海と不動明王が互いに探していた己が半身とめぐり逢い、歓喜の握手をしているような光景のように恵果には見えた。

「なんや…自分の心の姿に出会ったような気がします」と言って空海は涙ぐみさえした。


不動明王と呼応し合っている…!つくづく面白い子だよ。と恵果はほくそ笑み、早速自室に招待してから

「今日から道場に入って伝授の行に入るから今のうちに食べておきなさい」と一緒に食事を摂りながら


「25年前に一人の遣唐使僧がこの青龍寺を訪ねた。

そのお方は体力も気力も知識も我が密を受けるに相応しい器を持っておいでだった…が、私は『あなたではないのです』と追い返してしまい、きょう貴方に会うまでそのことを後悔しつづけた、その僧、名を戒明という」


と戒明和尚とのことを打ち明けた。


「なんと!戒明さまはわしを仏道へ導いてくれた師です。が、青龍寺でのことはいっこもお話にならずに逝かれました」


と口中の飯を呑み込んでから空海は驚き、大学寮を出奔して山中をさすらっていた時の出会いから唐語、漢詩、あらゆる経典を読ませてもらったこと、さらに自分を遣唐使に押し上げるために力を尽くし、


空海の受戒と遣唐使決定を見届けたその日に世を去った戒明和尚のその後の人生を恵果に伝えると、恵果は


「そうであったか」と溢れて来る涙を巾で押さえた。


帰国後はさぞご出世なさっているだろうと思っていたが、


まさか、持ち帰った経典が原因で失脚なされて山中に籠っていらっしゃったとは…!


さぞかしご無念だったことでしょう、しかし、あなた様はご自分の全てを注ぎ込んで育てた弟子をこうして私の元に送って下さった…感謝します。


「実はあの時、足りなかったのは戒明和尚ではなく私の方だった。


私の大日経の解釈を絵画に表した胎蔵界曼荼羅…まだそれが完成していなかったのだ。

与えるものを持っていなかったのは、私だ。


金剛界と胎蔵界の両部曼荼羅が完成し、時が満ちて空海、貴方が来た。そういうことだ」


食事が終わると恵果は道場を担当する僧たちに空海を託して着替えさせて伝授の支度をさせるよう命じると、


「さて…いい加減聞き耳を立ててないで出ておいで。我が優秀な弟子たちよ」


とぽんと手を打つと扉の外側から両部灌頂を授けた義明ぎみょうをはじめとする5人の阿闍梨たちが皆、何か言いたげな顔つきをしながら入室してきた。


「言いたい事は解っている。青龍寺の僧ならともかく、なぜわざわざ異国に帰る予定の僧を後継者に選んだのか?であろう」


畏れながら、と前に進み出て合掌した義明は


「私は病身ゆえ、選ばれないであろうことは解っておりました…恵日けいじつに命じて留学僧空海を探らせたのは私です。どうかお許しを」


と血の気の薄い顔で詫びた。合間合間で空咳をする義明に恵果は


「秘法伝授は与える方も授かる方も命懸け。義明よ、私はお前が可愛いから無理をさせたくないのだ」と慈しむ口調で説いて聞かせた。


はい、はい…と大きな目からはらはらと涙をこぼす義明のうしろで特に不服そうな表情を浮かべているのは金剛一界を伝授した義円と胎蔵一界を伝授した辨弘べんこう


どちらも今日いきなり寺に来た異国の僧に追い抜かれるなんて、努力して阿闍梨にまで上り詰めたその矜持が挫かれているだろうな。と恵果は苦笑いしながら5人の阿闍梨たちとそれぞれ目を合わせると、


「先程の話を聞いていたお前たちなら解ってくれるだろうが、私と空海とは並々ならぬ縁を感じるし、わが師不空様の遺言どおり一目会って不空様の生まれ変わり、と判断して後継者に選んだのだ。

しかし、この国での密の教えの行く末を心配するお前たちの気持ちもわかる。故に、もう一人ここで後継者を指名する。私の従者、義操を空海と共に両部灌頂させる!」


五人の阿闍梨たちは一斉に恵果の後ろに控えている褐色の肌をした青年僧に注目した。彼の名は義操ぎそう


天竺人と唐人の混血で4才の頃、「この子、醴泉寺に捨てられていたんだがお前の弟子にどうか?」と牟尼室利三蔵むにしりさんぞうによって連れて来られ、青龍寺で仏門に入って25年恵果の従者を務めて来た若者である。


ことし29才になる義操は尊敬する師にいきなり後継者にに選ばれて顔中に脂汗を浮かべて、とととととんでもないっ!とぶんぶん首を振り、


「尊敬する阿闍梨様がたをいきなり追い越すなんて…拙僧はまだまだ修行が足らぬ身ゆえ」と固辞しようとしたが、


「25年私の傍に仕えていつもそばに居て、私の説く教えを肌から吸収するように聞いてきたお前こそ今後の青龍寺を背負うに相応しい、と私は思うのだが、どうかね?」と恵果は5人の阿闍梨たちに問うた。


確かに、自分たちよりも長い期間恵果和尚に仕え、若く健康な義操なら。


と阿闍梨たちはそれぞれの顔を見合わせ目顔でうなずき合った。それでも、と声を上げて己が疑念を口にする僧が居た。

阿闍梨たちの中でも一番若く、探りを入れている内に嫉心に近い感情で空海を意識するようになった恵日である。


「それでもあの空海に教えを授けるつもりになられたのは、何か特別な意図がおありではないのですか?」


叱責を覚悟で口に出さずにはいられないのは若さゆえだろう。


「私はもう長くは生きられない。生き物は死ぬし、建物も朽ちる。そして、国だっていつかは滅ぶ。この青龍寺も100年先まで安泰と思うか?」


いきなりの恵果の不穏な発言に、阿闍梨たちは一斉にどよめいた。


お聞きなさい、私の優秀な弟子たち。


この長安での密教は戦乱と壊滅状態の都の灰塵の中から生まれたようなものなのだ。


50年前、一人の密教僧が子連れで長安入りした。


密教僧は褐色の肌に緑色の瞳。彫りの深い顔に顎ひげをたくわえた異相の50男で煤けた僧衣を纏ったその姿は、どこぞの荒くれ坊主そのものだった。


そのお方は安録山あんろくさんの乱によって廃墟だらけとなった都の風景を眺めるなりこう仰ったものだよ。


「まあったく、朝廷軍も惰弱で敗北し、玄宗皇帝にも逃げられた都なんて都じゃねえよ。

神も仏も自殺しちまいたくなる位の酷い世の中だよなあ?恵果。お前、この光景忘れんじゃねえぞ」


そう、その密教僧こそ不空三蔵様。バラモン階級の王子に生まれながら早くにご両親を亡くし、母方の叔父に引き取られてバラモンの呪法を授かり、14の時出家して金剛智三蔵さまより密教を継承された私の師だ。


父玄宗皇帝を退位に追いやった粛宗皇帝の命を受けてまだ10才だった私を連れて大興善寺に戒壇を設けて調伏の修法を行ったのだよ。

「なあに一年すれば戦はおさまるでしょう」と不空様は皇帝にそう断言して連日連夜命懸けの修法を行い、そして本当に戦はおさまったのだ。


皇帝は不空様に大層感謝し、国師(皇帝の師)の諡号をお与えになった。


勝手に皇帝陛下がお逃げになり

勝手に安録山が死んで

勝手に皇帝陛下がお戻りになった

そう言う事だよ


だが恵果、忘れんじゃねえぞ。人間ってのは5、60年で安閑な世に飽きて自ら暴れ出して戦乱を起こす獣よりも酷い生き物だ。

忘れた頃に戦と滅びは必ずやって来る。

だからお前たち若い世代がよほどしっかりしてなきゃ駄目なんだよ。年寄りは愚痴だけ垂れて世を呪って死んでいくからなあ。


「私は不空様のお言葉を胸に弟子たちに教えを説いてきたつもりなんだがな、この前皇帝陛下に謁見した際、

ああこの国はもう駄目になったのだ。とつくづく思った。

順宗皇帝は病でお倒れになり言語不明瞭。

すべての勅命は宦官を通して下されている。

あれは一服盛られたね…皇帝が宦官の操り人形にされてはもう朝廷は終わりだ。専横が始まり、国政は乱れて不満を持った民がまた暴れ出す」


滅びの足音が聞こえる。


それは、心ある者は既に肌身に感じている大唐帝国の腐敗と衰退。何十年後か、あるいは数年後か。国の滅びは気が付いた時にはもう始まっているのだ。


ここまで師の話を聞いた阿闍梨たちは恵果の意図を十分に理解した。


「つまり恵果さまがなさろうとしている事は…密の教えを空海に株分けし、異国の地で根付かせようと?」


それは将来、青龍寺が廃墟と化しこの国での密の教えが途切れた時の保持手段ということか!



「その通りだ恵日。お前はあわて者だが、聡いな。西明寺の談勝と志明には私からも謝罪した故」

と悪戯っぽく笑う師の前で恵日は、何もかもお見通しであられたか…と耳まで赤くした。


「というわけでお前たちの灌頂は義操によって行われるであろう。異論はないか?」


恵果の言葉に皆頭を垂れて沈黙し、諾とした。


その後恵果は道場に籠り空海に付きっ切りで秘法の伝授を行い、空海も師の教えを砂が水を吸うように身に付けて行った。


「それはまるで、恵果さまが己が血も肉も精神も全て空海どのに注ぎ込むような光景であったよ」


と道場で伝授を見守っていた義操は、その様子を後々まで弟子たちに語り継いだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

嵯峨野の月 白浜維詠 @iyo-sirahama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ