第45話 遣唐11 青龍寺開門


陽が沈んで、夏の花がむせるような芳香を放つ夜、ある高僧が青龍寺の恵果を訪ねた。

「体の具合はどうかね?」


と高僧は見舞いの品を恵果の愛弟子である義操ぎそうに渡すと恵果の前に腰を下ろし、被っていた帽子もうすを外すと、灯火の中に艶々とした褐色の肌に生気溢れる目つきをした天竺僧の顔が現れた。


高僧の名は般若はんにゃ。天竺の北の地方出身で若い頃に那爛陀寺ならんだじ(ナーランダー僧院)で仏教を学びさらに天竺の南で密教を学んで梵語を教えにここ長安に入ったのは25年前の事。


唐王朝から僧の最高称号である「三蔵法師」号を賜り般若三蔵、と呼ばれる梵語から漢語への経典翻訳の第一人者である。


般若を見るにつけ恵果は相変わらずご壮健そうだ。お年は確か自分より10以上も上のはずなのに。と彼の急な見舞いを喜ぶと同時に天竺の人特有の壮健さを心底羨ましく思った。


「暖かくなったので調子はいいですね、また急な来訪で驚きましたよ」


と小さく微笑んで恵果は傍らの義操に目配せをした。これは人払いの合図、と心得ている義操は一礼するとすぐに部屋から辞した。


「早くあの義操を後継者にして寺の者を安堵させればいいのに…」

と般若は常に物腰柔らかく礼儀正しい義操を目で追ってからため息を付き、それから恵果に向き直って


「やはり『待っている』のかな?」と彫りの深い顔を歪めてぐすり、と笑った。


「はい、一目会ってこれだ。という人物に密の教えを授けよ。というのがわが師不空様の遺言ですので」


ときっぱり答えた恵果に般若は「頑固だねえ」と呆れた顔で言い、

それから「皇帝陛下謁見の折に宮中の医官から診てもらったそうだね?」と話を肝心なところに持って行った。


「医官からは『今年の冬は越せそうにない』と言われてしまいました」


軽く笑いながら恵果は同じ密教の先輩である般若にだけ秘事を打ち明けた。


一瞬、目を瞠った般若はそれからきつく目を閉じてかぶりを振った。

「せっかく7代続いた密の教えを途絶えさせる気か!?と叱りに来たつもりだったんだがな…やはり不空様もお前も正しいのかもしれない。と思い直すことがわしにもあってな」


あった、というよりわしがやらかしてしまったのだ、と般若は自虐的な笑いを浮かべた。


ほう、と恵果は面白そうだと白い両眉を広げると

「倭国から二人の遣唐使僧が醴泉寺れいせんじに学びに来ている。

お前も知っているだろうがあの国からの留学生たちは外海を越えて大陸に来る。


一度海に命を棄てる覚悟をしている彼らの学習意欲は、他の国の学生たちの何倍も、高い。


彼らはたちまち寺の先輩僧たちを飛び越えて梵語の習得も終わろうとしている…わしはその内一人の僧から相談を受けた。

『実は国から二年で学びを修めて帰るよう命令されましたが、私は佛の教えは最低でも十年以上かけて学ぶべきものだ、と思っています。私はもっとここで学びたい…しかし現実問題として金子が足りません。どうすればいいですか?』と」


「どう答えましたか?」


「それなら国家事業としてのわしの経典翻訳の跡を継いでほしい。受けてくれたら朝廷がお前を食わせるから、と…


わしは朝廷の命ひとつでいつ天竺に帰るかわからない身の上。


実は焦っていたのだ。霊仙りょうせんというその僧は『ありがたい!居場所を与えて下さった般若様に感謝します』と引き受けてくれたのだが、なあ恵果」


「何です?」


「わしがやってしまった事はいわば外国僧の引き抜き。霊仙には故国に食わせるべき弟妹もいるのに。わしは、人の道に外れた事をしてしまったのかなあ?」


「愚問ですな」と恵果は般若の悩みを一笑に付した。


「全ては プラティーティヤ・サムトパーダ(縁起)によるもの。あなた様は霊仙なるその僧を見て彼だ。とお思いになって声を掛け、彼が話を受けた。誰も何も悪くはない」


ここで恵果が言った縁起、とは全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなる。という意味を持つ。


はは…確かに愚問だったよ。と苦笑いする般若を見て


「ところでもう一人の留学僧はどうですか?」と恵果が話題を変えると般若はおお、そうそう!とはた、と手を打ち

「お前にそいつの話をしに来たのだ。その者年は30過ぎでもう梵語で経典を暗唱できるに至ったのでつい…翻訳したばかりの経典をいくつかあげてしまったのだ」


ほう!と恵果は座り直して「大事な経典を渡す程優秀な僧なら、なぜ彼に話を持ち掛けなかったのですか?」と身を乗り出して問うた。


「その、なんというか…あいつは現世に居ながら目線は全く別の世界を見ているような男で迂闊に声を掛けられなかった、わしよりもむしろお前の弟子にどうか?と思ってな」


「その者の名は?」


「空海という」


とくん!と胸の鼓動が波打つのを恵果は感じた。


不空様。あなたと同じ「空」を名にする者の話を聞きましたぞ!この恵果ひさかたぶりに心が満ちていく気がします…



さて、その三日後の昼おそく、西明寺の僧、談勝と志明は西市で菓子や日用品を買い、西明寺に帰る途中で、


跡をつけられているな。


という事に気づき、わざと他愛もない世間話をしながら外れの路地に入った。


尾行者も民家の壁伝いに路地に入り、物陰から覗くとそこには談勝一人が民家の主と会話している光景があり、もう一人を見失った?と困惑した瞬間、背後から何者かに後手を取られ口を塞がれて、


「わざわざ僧侶たちを尾行するとは何か悩みでもあるのかね?それとも疚しさ?」

ともう一人の僧、志明に耳元で囁きかけられた。


なんてことはない。志明は路地に入ってすぐの民家に入って裏口から抜け、尾行者の背後を取っただけである。


「一時ほど家を貸してくれるそうだ」と笑って談勝は家主に銭を渡してから志明と一緒に尾行者を家に押し込んで旅人に扮した彼の顔を改めると、その正体に一瞬わが目を疑った。


「せ、青龍寺の?」とまず志明が、

「け、恵日阿闍梨けいじつあじゃり!?」とその顔を良く見知っている談勝が年の頃30過ぎの色白の僧侶、恵実阿闍梨が観念してうなだれているのを見下ろして、驚きの声を上げた。


「お互い夕べの勤めに間に合うように話を済ませたい」

と卓の上に茶の入った椀を3つ置くと志明は


「ひと月前から西明寺に住む留学僧のことを嗅ぎまわっている奴らが居る、という情報は俺の耳に入ってるんだ…もしや、空海に探りを入れているのは阿闍梨、貴方ですか?」とつとめて優しい口調で恵日に質問した。


お、お前らには関係の無いことだ、と小声で恵日がしらばくれると、


「あ?」


と声に凄みをきかせた志明の、雷光のように凄まじいひと睨みで恵日はたちまち竦み上がった。


「阿闍梨よ…この志明は実は長安の裏社会を取り仕切る顔役の子だ。ここで全てを話した方が無事に寺に帰れると思うのだが」


と談勝が恵日の恐怖を解きほぐすように白い歯を見せて笑った。談勝の眼が笑っていないのを確認した恵日は諦めて全身の力を抜き、


「実は、わが師恵果阿闍梨がなかなか後継者をお決めにならないので寺全体が不安に陥っているのだ」という事情を話し始めた。


「恵果阿闍梨には阿闍梨号を授けられた高弟が五人居ます。

義明ぎみょうさま、惟上いじょうさま、義円ぎえんさま、訶陵かりょう(インドネシア)僧の辨弘べんこうさま。そして、新羅僧しらぎそうの私恵日。しかし、最も後継者に相応しいとされている義明ぎみょうさまが生来ご病弱であることはあなた方もご存知でしょう?」


「確か、灌頂の師をつとめておいでだったな。それでも選ばれないのは何か訳があると思っていたが」

と談勝は茶を啜ってからそれで納得がいった。というように両腕を組んで口を引き結んだ。


「師、恵果さまは他の四人の阿闍梨の内から後継者をお決めになるだろうと思っていたのですがここに来て、俄かに倭国からの留学僧である空海の名が長安じゅうの噂になっているのです!だから…」


「だから、あなたは弟子を使ってここ長安の西側まで空海に探りを入れていると?ははーん解った。

阿闍梨たちは一人の弟子だけ選んで相伝する密の教えが倭国に掠め取られるのではないか、と戦々恐々としているのですね?」


と志明が問い詰めると


「情けない話ですが、そうです…」と恵日は唇を噛んで認めた。


「大病なさっている恵果さまがこのまま誰も後継者を決めずに儚くなってしまうと、密の伝授は途絶えてしまいます!青龍寺の僧たちはこの先どうすればいいのでしょうか!?」

と恵日が卓を叩くとわずかに椀が飛び上がり、中の茶が卓上にぶちまけられた。あ、失礼!と恵日は慌てて手持ちのきれで卓を拭いた。


「解りますか?青龍寺は今、焦れている。

せめて恵果さまが寺に残る僧を一人指名してくれれば…」

と最後に愚痴をこぼしてから恵実は非礼を謝して青龍寺に帰って行った。


「いやあしかし、あの睨みは怖かったねえ」と談勝が志明をからかうと、志明は

「侠客である父の罪を濯ぐ為に仏門に入ったのだがな」と言い、恭しく数珠を取り出して合掌した。


民家を後にし、夕べの勤めに間に合うように足早になる談勝に、不意に志明が問うた。

「密教の密は秘密の密、じゃなかったかな?談勝」

「ああ、恵日阿闍梨はお喋りだったねえ」と質問の意味が解った談勝はそこで意地悪そうに笑った。


「人間焦れるとどんなことでもするから」


と侠客の子に生まれ、幼い頃から人間の底を見て来た志明は時々、悟りきったことを言う男だった。


その夜、西明寺の僧たちは話し合って空海を呼び出し、かわるがわる華厳経の解釈に関する質問を浴びせかけた。どれも難題だったが、空海はよどみなく質問者の納得いく答えを出してくれた。


「よし、空海。華厳の教えは合格だ。次は大日経の解釈の質問にいちいち梵語で応えよ。試験官はこいつだ!」と言われて進み出た僧は、なんと霊仙だった。


「同期の学友だからこそ厳しく致しますよ。お覚悟はいかがかな?」

と霊仙は目をすっと細めて厳しい顔つきになった。

「望むところで!」


こうして、約二時(四時間)以上に及ぶ空海の留学成果試験は霊仙の「ご、合格や…」という一言で終了したのである。


「見事なり、空海。俺たちが荷物持ちをしてやるから明日は青龍寺に行け!」


翌朝、西明寺から出発した空海一行は長安の南郊にある青龍寺の門の前に立っていた。


志明が取り次ぎを頼むとすぐに門番から修行僧、高弟へと話が上がりほどなく看病役の僧、義操を従えた恵果が門の前に現れた。


空海の恵果への第一印象は、

ずいぶん小柄で穏やかそうな老僧だな。

というものだった。


「あなた、名前は?」

「空海といいます」

「俗名はなんと言いなさる?」

「真魚、佐伯真魚といいます」

「ま、お、…意味は?」

「自由な魚という意味です」


戒明どの…!


と恵果は心の深いところから感動が沸き上がるのを感じ、彼にしか見えない景色、


空海の体ぜんたいを纏う清浄たる炎と、彼の胸の奥にある強い光を見ながら…


「あなたでしたか」


と目の前の若者に恭しく頭を下げて、門扉全体を開けさせるよう門番に命じた。


果たして門の向こうの広場には実に千を超える密教僧たちが左右に整列し、目礼をして恵果が選んだ後継者を迎えた。


お、おれたちはとんでもない現場に居合わせてしまったようだぞ?

と談勝が志明に目を向けると志明も、興奮を抑えて頷いた。


日の本から来た学僧、空海。美しい炎を纏い、体内に明星を宿した若者よ。


戒明どの、あなたが我が懐にねじ込んだ魚。


私がこの手で龍に育て上げてみせますぞ!
















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