第44話 遣唐10 玄象

昔、異国の市場の中でつかの間の自由を満喫している若者がいた。



「それと、それをくれ」


と拙い唐語で棗飴なつめあめあがなうとそれを直ぐに口に入れてかろかろと溶かし、やがて口中に広がる甘味と酸味を楽しみながら店の呼び込みの韻を踏んだ軽快な唐語の歌や、大道芸人たちの二胡の演奏など様々な音が響き渡る西市の賑わいの中を歩いていると、人ごみの中に学友の姿を発見したので


「おーい、くーかーい!」

と叫ぶと橘逸勢たちばなのはやなりは仔犬のように走り出し、二、三歩もいかぬうちに足元の小石につまずいて仰向けに体勢を崩し、

同時に隙を窺っていた盗人から銭入れをかすめ取られ、

さらには突き飛ばされた衝撃で背負っていた楽器の布包みが宙を飛ぶ。


という一度に三重の災難に見舞われた友を救ったのは常人とは思えぬ俊敏さで駆け出してまずは追いついた盗人の手首をねじって銭入れを奪い返し、取って返して逸勢の肩を掴んで起こし、そして、落ちて来た布包みを空いた左手ですとん、と受け止めた空海であった。


片手に逸勢、片手に楽器を持って地面に片膝を付く小柄な僧侶の姿に市場の人びとは最初呆気に取られ、しばらく黙って見ていたがやがて、大きな歓声と溢れんばかりの拍手で空海の活躍を称えた。


「…ここじゃ悪目立ち過ぎます、帰りましょう」

と羞恥で顔を真っ赤にした空海は逸勢を連れて逃げるように西明寺へ帰って行った。


「ですから、異国の貴人の若様が伴も付けずに楽器を担いだままふらふら西市をほっつき歩くからそうなったんです!

この国ではどうぞ盗んで下さい、って言ってるようなもんなんですからねっ!あなたの故国とは常識が違うのです!解ってますか!?」


と西明寺に寄宿する遣唐使の世話役である唐僧、談勝だんしょうが滑らかな日の本の言葉で逸勢に危機管理の甘さを指摘して説教すると、最初は頭を垂れて神妙にしていた逸勢だが、説教が途切れるのを待ってから顔を上げると、


「いやあしかし長安はこわい所だねえ」


という実にのんびりとした口調でぼりぼり頭を掻いているのを見て談勝は


あ、解ってらっしゃらないな。


とこれで同じよう内容で4度目の説教になることを思いだして深く嘆息した。


逸勢の隣で空海が


「もっとちゃんと頭を下げて謝らないと失礼ですよ逸勢さま!すんまへん、このお方は高貴の血筋でかなり浮世離れしたところがあるのです…」


と代わりに謝るのは空海。


この寺に入った時から「言葉が解らず学舎で何を学んだらいいか解らない!」と泣きじゃくる逸勢に

(じゃあなんで故国で唐語を習わなかったのか?と談勝は思うのだが)


「ならば、話さなくとも師に通じる書や楽を学ばれては?得意な楽器は何ですか?」

「私は琴が好きだ…そうか、なら書と琴を学ぶ!」と空海がいちいち相談に乗って世話を焼いていた経緯を思い出して


「おまえ本当に大変だな…」と空海に心からの労りの言葉を掛けた。そして話題を変えようと、


「これが楽の師匠から成績優秀のご褒美として頂いた琵琶ですか?大層美しい…」

と逸勢が師の家から持ち帰って来た黒塗りの琵琶に見惚れた。うん、と逸勢は肯くと


「なんでも師匠の家の家宝で西方渡りのとても珍しい文様らしい」


と二体の白い象が四弦の糸の間で鼻と片脚を持ち上げている螺鈿細工の琵琶を抱いて久しぶりに得意げな笑顔を見せた。


「しかし、貰ったのは嬉しいが私の修行しているのは琴だし、琵琶を弾くのは坊さんと相場が決まっている。それでだ空海」


「へえ」

「この玄象げんじょうと呼ばれる琵琶をお前にやる」


へえ?と今度は語尾をはね上げて明らかに空海は狼狽えた。

「あの、楽って貴族の方々たしなみやないですか…経を読んで山中をほっつき歩いて来ただけのわしには楽は」


とやんわり断ろうとする空海に

「弾き方は私が直接教えるから」と半ば無理やり玄象を抱かせてから逸勢は談勝に向き直り、


「…という訳で夕べのお勤めが終わってから一時ひとときはこの者の拙き琵琶の音でうるさくしても構いませんでしょうか?」

と、許可を取るための一礼がなんとも優美な仕草なので、


ああ、このお方はやはり育ちが良いのだな。と心の深いところで感心した談勝は

「いいでしょう。楽はこの寺の住む者たちの慰めになりますから」

と破顔一笑して許可したのだった。


それから二十日に及ぶ逸勢の空海への特訓は最初は琵琶の構造や撥の持ち方、音階など童に教えるような手取り足取りのものだったが、十日目に簡単な曲をさらえるようになると急に厳しくなり、

「琵琶の音調は楽団の基礎でその音が駄目なら他の全ての奏者の音も台無しにしてしまうのだぞ!そんなことでどうする!?」と激しい叱声が飛ぶほどであった。


これは、昼間梵語の勉強で禮泉寺に通い、疲れて帰ってくる空海に酷なのではないか?と一つ屋根の下に住まう西明寺の僧や遣唐使たちは思ったが、次第に空海の腕が確かなものになってくると、

暗くなるとその音色を楽しみに酒と肴を持って空海と逸勢を取り囲み、


「練習の邪魔はしないから、ただ聴かせてくれるだけでよいのだ。なんというか…聴いている間ここでの生活の不安や焦りを忘れられるのだ」

と言って聴いている間じっと目を瞑って遣唐使たちはそれぞれの物思いに浸り、時には故郷を思い出して涙ぐむ者までいた。


練習が終わると逸勢は盃を二つ出して、

「この酒ならお前は抵抗ないんじゃないか、と思って」と市場で買った葡萄酒を少し注いでから空海の掌の上に乗せると空海は

「花のような香りですね」と言って一舐めして「甘い…!このお酒なら大丈夫な気がします」と杯の酒を一気に飲み干した。

はは…そんなに急ぐと酔うぞ。と笑って逸勢は杯を重ね、やがて酔いが回ると


ここから先は異国でしか言えない話なんだがな、と念を押してから


「私みたいな貴族の息子がどうして危険を冒してこの唐国で学んでいるのか、と不思議に思ってたんじゃないか?はは…解ってる」


貴族や役人は出世の為、僧侶は最新の仏教を学ぶため、と理由は決まっている。


私はひいじいさんが皇族葛城王こうぞくかつらぎおうこと橘諸兄たちばなのもろえだが、じい様の代に冤罪を着せられて今や橘の家は落ちぶれだ、父の入居いりいは5年前に死んだ。


周りの者たちは私が橘氏再興の野望を持って遣唐使を志願したのだろう、と思っているだろう。

でも違う本当は…故国から、貴族政治の醜さから逃げているのだ。


空海、私は幼い頃から表に出ない侮蔑と嘲笑を受けて育ってきた。

賜姓皇族というのは血筋がいいから表面上は丁重に扱われるが、いざ政争の負け組となったらその命は紙よりも軽い。


私のじい様、奈良麻呂は謀反の罪を着せられ

藤原仲麻呂に逆らえなかった藤原永手ふじわらのながて百済王敬福くだらのこにしききょうふく船王ふなのおうに寄ってたかって殴り殺された。もちろん冤罪でだ。


父上もそんな奴らに媚びへつらって生きていくのは辛かったであろうと今では思う。


私は生来人一倍他人の気持ちに敏感な性質で、人の多い所から帰ると決まって吐いて寝込んだ。


父上に相談された陰陽師は、逸勢さまは人の悪意を吸い取りやすい体質なのでしょう、このままでは業の深い貴族たちの中で長くは生きられません。と答えた。


ではどうすればいいのか?と父上が問うと


「楽を、特に糸ものの楽器は体の邪気を祓います。そしてできるだけ美しいものに触れさせてお育てするのです」と陰陽師が勧めた通り父上は最高の師を付け私に楽を習わせた。腕が上がるにつれて私は人並みの健康を取り戻した。


しかし、長ずるにつれ自分の立場が血筋がいいだけの落ちぶれ、というのが解って来て私はもう生きているのも嫌なくらいの気鬱に襲われるようになった。


私はますます人を避けて書や絵画など美しいものの探求にのめり込み、人付き合いの悪い若様、と呼ばれるようになった。


ああ、人の本音が作り出すこの世とはなんと汚いものか。

 

このまま諦めて生きて死ぬのを待つしかないのか…と思いながら生きていた18の時、人生に光が差した。


それは亡き叔父、橘清友たちばなのきよともの邸に食糧を届けに行った時だった。ちょうど雪解けの陽が邸のある一画の廊下を照らし、中から一人の少女が出てきた。


私はあんなに美しい姫は初めて見たよ…雪のような白い肌に涼やかな目鼻立ち。


清冽、と表現していいくらいの美貌だった。程なく姫は廊下に出たことを母親の田村媛に叱責されて部屋に閉じ込められてしまった。


その姫が4つ年下の従妹、嘉智子かちこであると後で父に知らされ、


「あの姫はいずれ親王様に差し上げるお方だ。決して寝所に忍ぶなど軽はずみな真似をしてはいけない!」 


と念入りに注意されたよ。

一年後、嘉智子は親王様の元に召され格別な御寵愛を受けていると聞く。

ふふ…大それた話だろう?空海。


確かに、親王様の寵姫に恋しているという打ち明け話はこの唐国の空の下、皆が寝静まった夜中にしか聞けない。と空海は思った。


「では、逸勢さまが海を渡ったのは…その姫の為に」


こくり、と肯いた逸勢は


「嘉智子の夫君である親王様が皇嗣に決まった時、あの姫を外戚として守ろう。と初めて人生に目標が出来たのだ。そのためになら出世だってなんでもしてやる。遣唐使の話が上がった時真っ先に志願して、いまはこうしてお前と酒を飲んでいる…人生とは不思議だな」


「ほんまそう思います」


そろそろ酔いが回って眠くなってきた逸勢は杯をしまうと


「なあ空海、人間とは今日一日さえ生きていたくない位の絶望を胸に抱えていても、現世にひとかけらの美を見いだせていればなんとか生きていけるものなのだな…」


と言って自分の部屋に帰って行った。


二十日目の夜は満月の美しい夜だった。逸勢は自分の琴を寺の広場に置いて空海の琵琶と楽合わせをやることにした。

この急ごしらえの月見の宴に遣唐使や寺の僧だけでなく近所の住人まで珍しがって見に来ている。


「やあ、月が清らかで美しいな」とたどたどしい唐語で挨拶すると逸勢はすっと腰を落として琵琶を構えた空海に目で合図すると呼吸を合わせて、


夜の帳を白く照らして落ちる月の光よりも澄んだ音色と音と音の合間にかき鳴らす甘い音声の琵琶との完璧な調和による調べに、皆、息をするのも忘れたように聴き入った。


ああ逸勢さま。こうやって音を合わせて初めて分かるものがあります。


楽を鳴らす者や歌を歌う者

和歌や詞を作る者

絵を描く者や花を飾る者…


およそこの世に美しさを体現しようとする者は


虚心であらねばならぬ。


美を飾ろうとするものその心に一片の野心でもあれば、心の月に曇りが差して、


やがてそれはたやすく他者にも伝わるのだ。


逸勢さまの音はまさしく虚心の音色、よくぞここまで!


およそ四半時(30分)かけての演奏が終わり、息を付いて逸勢が顔を上げた時、


「空海、なぜ泣いているのだ?」

と怪訝そうに声を掛けた。空海だけではない、周りの聴衆の全てが或いは目頭を押さえ或いは嗚咽さえ漏らして、泣いているのだ。


はて、私何かしたかな?というように首をひねってから逸勢は改まって空海に向き直り、諭すように言った。


「私はもうひとりで大丈夫だから…心配いらないからお前も人生の大事は一人で行け。青龍寺に無理に霊仙どのを誘おうとするから不仲になるんだ」


と胸の内の悩みをずばりと言い当てられた空海は玄象をしまってから涙を拭き、


「今から霊仙はんに謝って来ます」と言って広場を後にした。


果たして、楽の音で一番慟哭している僧、霊仙が裏口の地面に額と両手を打ち付けている姿を見つけた空海だが、


済まない…空海、済まない。二年で帰るだなんて私には無理だ!私にはお前ほどの若さも覇気も無い。この国で生き甲斐を見つけてしまったのだ…。


という呟きを聞いて思わず物陰に隠れてしまった。


「どうやら霊仙は二人の三蔵法師に籠絡ろうらくされたようだ」と背後から空海に囁いたのは西明寺の唐僧、志明しめいである。


「かいつまんで言うとこうだ…

般若三蔵はんにゃさんぞうさまはご自分の事業である大乗本生心地観経だいじょうほんじょうしんちかんぎょうの翻訳の後継者を禮泉寺に通う優秀な僧から選ぼうとお考えになった。空海と霊仙、おまえらが候補に上がったのだよ。

しかし、牟尼室利三蔵むにしりさんぞうさまはそれは外国の留学僧の引き抜きになるから倭国を怒らせはしないか?誘うなら一人にした方が、と年上の方の霊仙を選んで口説いた。結果、霊仙は落ちた」


そうか、ここひと月ほどの霊仙はんのどこかよそよそしい態度は、自分が青龍寺に一緒に行こうと誘ったからではなく…


帰国せず般若三蔵さまのもとに留まろうと心に決めていらっしゃったからや。


「なあ空海、お前はまだ若いが霊仙は四十半ば。帰国して出世したところであと何年生きられる?経典翻訳の第一人者に認められ、輝かしい方の途を見せられたら帰国するより…」


とそこで言葉を切って空海の肩をぽん、と叩いて、


「ま、頭のいいお前にも、年を取らなきゃ解らん人の気持ちもあるんだよ」

と言ってから志明はその場を去った。


月光の下で哭き続ける霊仙の影に空海は、


霊仙はん、貴方のお気持ちも知らずにほんますんまへんでした…と心から謝した。


わし、ひとりで青龍寺に行きます。


















































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