第43話 遣唐9 紅い雨


「一つの網の目では鳥をとることができないように、一つ、二つの宗派では、普く人々を救うことはできない。

という最澄の言葉はもっともだ。従って仏教の宗派は多ければ多いほど良い」と


一時病から持ち直した桓武帝は

延暦25年(806年1月26日)最澄に天台宗開宗の勅許を下した。


こうして天台宗は華厳宗、律宗、法相宗、三論宗、倶舎宗くしゃしゅう成実宗じょうじつしゅうからなる南都六宗に準ずる新たな国家公認の宗派となったのである。


「よくぞここまで努力してきたな…最澄。早う比叡の山に帰って弟子たちを安堵させてやるがよい」


「まことにありがたき幸せ…」


と感謝を述べる最澄は溢れる思いで声を詰まらせながら帝の御前を辞した。


その様子を見届けると桓武帝はぐったりと御椅子の背にもたれ、深く目を閉じて息を付くと、

尚侍明信と宮女の藤原平子ふじわらのひらこを呼び出し、彼女たちの手を借りて椅子から立ち上がって冠と朝服を脱がせてもらい、寝所へと移動して床に躰を横たえた。


水で絞った布で化粧を落としてもらうとその下には、すっかり黒ずんだ顔が現れた。


最澄、もう私の為に無理して祈る必要は無いのだ。私は祈祷を受ける資格の無い大罪人なのだから。


「最澄の祈祷のお蔭で徐々に体が良くなった」と無理をして起き上がり出して三か月。もう体力も気力も限界を越えていた。


「明信」

「はい」

「朕はこれで最澄を救ってやれたのだろうか…?」と掠れた声で言う帝の耳元に

「勿論でございますとも!」と明信が囁きかけた時はもう帝は疲労からくる眠りに落ちていた。


その日から桓武帝は枕から頭も上がらぬようになった。


もう長くはないだろう。

と自覚した桓武帝は意識が清明な時は臣下を枕元に呼び寄せて朝議の内容を聞いて可能な裁断をし、今後の政の方針や自分の死後の妃や子供たちの処遇やどこの領地与えるなどの「遺言」を書きつけさせた。


話し疲れると意識が遠のくままに眠り、その間に早良親王を始めとする死に追いやった皇族貴族たちが夢に出てきて自分を苦しめた。


早良親王、井上内親王いがみないしんのう他戸親王おさべしんのう、そして、早良の子を宿したまま刺客の槍にかかった大伴娘おおとものいらつめ

その者たちは襲いかかって責めたてる事はなく、ただ穴の開いたような目で自分を見下ろしているだけ。その無言の圧力が一層桓武帝を戦慄させた。

あれは舅の藤原百川に強要されてやったことだが、最初の殺人、継母井上内親王を絞殺した時のことを桓武帝は思いだした。


あの酔っ払いのろくでなしの夫(光仁帝)が命じたのであろう?我も息子もここで殺すがよい。さあやれ、藤原の飼い犬山部王っ!


犬と呼ばれて私は激昂して継母の首に手を掛け、締め上げていた。絶命するまでの間、継母は目を見開いてじっと私の顔を見ていた。やがて黒目の中の瞳が異様に大きくなり、あっけなく継母は死んだ。


人は死ぬと目の中に暗黒を宿す。


なら自分を取り囲んでいるのは本当に死人なのだろう。


「もうすぐ地獄に堕ちてやる故、安心するがいい」と話しかけるとその者たちは消え、目覚めた時には脂汗で衣を濡らしている自分を床の中で発見するのである。


時折、幸せな夢を見ることもあった。


春の陽射しがきらきら降り注ぐ中、自分は赤子を抱き締めて、頬ずりしている。

賀美能かみの、賀美能…ああ、これは夢で私は赤子だった神野をあやしているのだ。

傍らでは皇后の乙牟漏おとむろがにこにこしながら自分たち親子を見守ってくれている。

乙牟漏。お前は式家の姫でありながらいつも慎ましく、美しく心優しい后だった。


思えばこの頃が人生で一番幸せなひと時であっただろうか。


死んだ早良の代わりに立太子した安殿が癇気の病を発病し、今更廃太子には出来ない。どうしたものか…と絶望的な気持ちになっていた頃、乙牟漏が神野を身ごもったのだ。


生まれたのが皇子だったのでこの子は心身ともに健やかな天皇に育てよう!と自分は意気込んでいた。


「賀美能、漢学は父が教える故心配するな…文道、管弦は誰に教えさせようかのう?…そうだ!武術の師は坂上田村麻呂を付けよう。

それでいいよな?乙牟漏」


とまだ生まれて半年の赤ん坊の将来を語っていた私に向かって乙牟漏はふつっと笑顔を消して、こう言ったのだ。


「賀美能さまを可愛がって下さるのは嬉しいのですが…たまには安殿さまに会って下さいませんか?」


三年後にお前は病で逝ってしまった。


乙牟漏、あの時お前の言う通りにしておけば、安殿との仲をこじらせることは無かったかもしれない。


私がお前との間に生まれた安殿から眼を背け続けたのは神野が生まれて情が移ってしまったというのもある。


顔はお前に似ているが、人一倍酷薄なところや、憎んだ相手に報復しなければ気がすまない性分など、中身は私ゆずりで欠点しか見えない安殿の存在が…恐ろしかったのだ。


いくら臣下がしっかりしていても安殿が即位したらこの国はどうなってしまうのか?


「中納言、内麻呂をこれへ」


桓武帝の枕元に呼ばれた藤原内麻呂は「次代の安殿はお前と葛野麻呂で補佐してやってくれ。それと」


と帝が告げた遺言を耳元で聞くと、内麻呂はあまりの内容に眉を顰め「それでよいのですか?」と聞き返した。


「よい、やれ」


と言い切った桓武帝の眼光にはこのお方本来の冷徹さが宿っていた。と後で思い返して内麻呂は実の親子ながらなんと非情な、と最初は思ったが、


結局、帝と春宮さまは人格のどうしようもない所でよく似た親子なのだな。


と思い至った時…天智系の血統、恐ろしや。と総毛立ったのであった。


神野親王が父帝の病床へ呼び出されたのは、寒さも緩み、梅も桃も散って桜が蕾を膨らませる春の日の昼下がり事だった。


ちょうど3つになったばかりの異母妹、伊都内親王いづないしんのうの遊び相手をしていた神野は伊都の母、平子に「頼む」と妹と毬を託し、身支度を整えると表情を硬くして場を後にした。


部屋に残された平子は

あのね、おかあさま、おにいさまがあそんでくださったのですよ。

とお喋りしたくてたまらない年ごろの娘を膝に抱いてええ、そうね。良かったわね…と生返事をしていたがやがてせり上がって来る気持ちをこらえきれず、どにうしても涙が出てきてしまう。


実はこの藤原平子、尚侍明信の子である藤原乙叡ふじわらのたかとしの娘で15になる前に桓武帝の後宮に入った、明信の孫娘なのである。


ほんとうは解っていました。

帝が私を妻にとお求めになられたのは、祖母の明信の代わりなのだと。


父の命令のままに後宮に入り、祖父ほども年の離れた帝にお仕えしている間、何も感じないように考えないようにしていました。それが後宮で苦しまずに生きるための女の智恵なのだ、と祖母の明信に言い聞かされてきたから。


なれど、帝の御子を身籠り、伊都さまが産まれて帝が嬉しそうお抱きになられた時、あの御方を子の父として、我が夫として愛おしく思う気持ちが沸き上がって来たのです。


もうすぐ夫が逝ってしまう。そう考えただけで!


「平子さま…」と抱きしめて慰めてくれたのは、隣室で泣き声を聞きつけた橘嘉智子であった。


「お優しいのね、嘉智子さん」と平子は呟き、嘉智子の肩に顔を埋めてしばらく泣いた。母と嘉智子が抱き合って泣いている姿を幼い皇女はふしぎな目で眺めている…


「来たか、神野」と枕の上で桓武帝は邪気の無い微笑みを浮かべた。看病に付き添っていた明信に目配せして下がらせ、


呼んだ父も、呼ばれた息子も


きっとこれが最後だ。と心の中で解りきっていながらなかなか会話に踏み切れなかった。焦れて話し始めたのは父親のほうだった。


「昔、ある貴族が私に言った。邪魔なものは全て廃し、その屍を踏んで歩くのが王道というものなのだ、と」


そう、私の傍で弟の他戸を絞殺した藤原百川ふじわらのももかわが平然と言い放った言葉だ。


「即位してから25年、最初の蝦夷征討では多くの兵を死なせ、腐りきった仏教勢力とのしがらみを断つために二度も都を変え、疫病と洪水で多くの民を死なせた…

私は治世は失政だらけ。ずっと思って来たのだ。

私は屍ばかり作ってその上もちゃんと歩けていない愚かな王で、天皇として相応しい人間ではなかったのだ、と」


「いいえ!」と目に涙を溜めながら息子は父の言葉を遮った。


「父上にしか出来ない決断をなさったからこそ今この都は平安京と呼ばれているのです!次の征討で蝦夷は降伏し、東国への途を開きました。

そして国家鎮護の為の新しい宗派、天台宗を最澄に作らせた。過去の天皇でここまで果敢な改革を出来た方はおりませぬ…周りが何と言おうと父上は私にとっては偉大な帝であり、お優しい父上です」


いつの間にか一人前のことを言えるようになったもんだな。神野。


お前は近い内に実の兄と争う事になるかもしれない、と心配していたが、どうやらお前は大丈夫のようだ。


「よう言うてくれた、神野。近う」


と父親は息子の顔を自分の口元に近づけ「父の遺言だと思って聞けよ」と前置きしてから


「私みたいな王には決してなるな」と決然とした口調で告げた。


そ、それはどういう事ですか?と困惑している息子に対し、


「神野、お前には生まれつき周りの気持ちを明るくさせる性質を持っている。父もお前の存在には助けられた。これからはその性質を存分に生かせよ…」


そこで父親は重そうに瞼を閉じ、明信を呼びつけると「行くが良い」と言ったきり眠ってしまった。


それが、神野親王と父桓武天皇の最後の会話だった。



臨終の際に桓武帝が最後に傍に呼んだ人物が息せき切って比叡の山のから下りてきた。

天台宗開祖、最澄は病床の桓武帝の手を握ると主から意外な言葉を掛けられた。


「不幸にして済まなかった」


それは、最澄一人を後押しして新都の仏教政策を強引に進め、結果、奈良の僧侶たちの憎悪が最澄に向けられた事に対してか。


奈良仏教派の皇太子安殿が即位すれば最澄が苦境に立たされる今後を憂いてか。


しかし、そんなことはもうどうでもいいのだ。最大限の感謝を込めて最澄は優しい声で言った。


「最澄が今ここにあるのは全てあなたのお蔭です…帝、最後にお言葉はありますか?」


すでに周りには皇太子安殿親王をはじめその妃朝原内親王、神野親王、伊予親王、大伴親王など主だった皇族たち。


若い頃のむごい粛清の時代を共に生き延びてきた従兄弟で右大臣の神王みわおう、最愛の女人で長年仕えてくれた尚侍明信がそれぞれの感情を押し殺しながら佇んでいるのに…


「この畜生っ!」


と皇太子安殿が臨終間近の父に罵りの言葉を浴びせ始めたのである。


「あんたは俺を見ようとも育てようともせずにただ東宮で飼い殺しにしてきただけじゃないか!!

それなのに自分のしくじりを何もかも俺に押しつけて死んで行こうとするなんて…

この卑怯者の暴君、流した血の分だけもっと苦しめ!」


「この期に及んで見苦しいですわ。場をわきまえて下さい」


ぴしゃり、と頬を打つような口調で朝原内親王が夫を諫めると不思議と安殿は大人しくなった。


はは…初めて父に本音をぶつけられたのが臨終の場とはな。と桓武帝は胸中で笑い、自分の情の無さのせいで不幸になった息子を心底哀れんだ。


次第に視界がかすみ、意識が遠のいてくる。それでも桓武帝は最澄の手を握り返し、朗々とした声で


「負けるな」


とだけ告げるとそのまま働き続けた人が疲れて休むように深く目を閉じ最後の一息を付くとようやく訪れた永い眠りについた。


しばらくしてお脈が触れなくなったことを最澄が右大臣の神王に告げると神王はその場に居る者全員を見渡してから


全身を細かく震わせて哀しみ抑え、「帝、ご崩御…」と簡素に告げた。


延暦25年3月17日(806年4月9日)桓武帝、崩御。享年70。


この瞬間、天皇になった安殿が先程の錯乱が無かったかのような落ち着きぶりで父の御尊骸を見下ろし、


死んだか。

という気持ちだけで何の感慨も湧かなかったのを当然に思うと、


もがり(天皇の葬儀)の準備いたせ」と素っ気なく天皇として初めての命令を周りの者たちに下した。



神野は外に出て、間もなく沈んで行こうとする太陽をぼんやり眺めていた。空じゅうが真紅に近い夕陽に照らされ、急に降って来た春の雨さえも光に染まって紅く見える。


これは、天さえも父の死を惜しんで血涙を流しているのだろうか?


と思いながら神野は紅い雨に打たれるままに父の遺言を思い出した。


私みたいな王にはなるな、か…では私はどのような王になるべきなのか?


と胸に浮かぶ問いの答えがなかなか思い付かずにいた。その時不意に


春宮ひつぎのみこさま、どうぞ…」と雨除けの衣を差し出す者がいた。神野はその青年に鷹狩の時2、3度随行してもらった事があるので顔は見知っていた。


「名は?」


とうの冬嗣」とその青年は名乗った。


「私は神野。そうか、私はもう春宮なのか」


神野がきぬかづいて間もなく雨は止んだ。「通り雨でしたね」と冬嗣が笑いかけた時神野は魂奪われたように沈む夕陽に見入って、


そうだ、私はどのような王になるべきかではなく…


この国に真の平安をもたらす天皇になる。


と閃いた答えを決意に変えて神野は「行こう、冬嗣」と冬嗣を従えて父の殯で慌ただしくなっている宮中に戻って行った。


これが将来の嵯峨帝と生涯の忠臣、藤原冬嗣との出会いであった。

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