第42話 遣唐8 密の罠

延暦24年、夏(805年7月)無事帰国した藤原葛野麻呂ふじわらのかどのまろは最澄をはじめとする留学生たちと共に上洛。


桓武帝に節刀(天皇の代理の任を受けた将軍、外交使節が預かる小刀)を返上し、遣唐大使としての任を果たした。


「うむ、でかしたぞ葛野麻呂。望み通り三位をくれてやる!」と桓武帝大いに喜び、


葛野麻呂を従四位から従三位へ昇進させ、参議の列に加えた。


齢50にして海を越えてやっと参議か…


と一昨年、節刀を預かった時から葛野麻呂が背負っていた巨大な巌のような責任の重しが取れていくのを感じたのは、御所から辞して自邸へと戻り


「殿…無事大任果たされまして嬉しい限りでございます」

と並んで自分を迎えてくれた和気広子をはじめとする妻と子供たちの顔を見た時であった。


「私の美しい華たちよ、留守の間息災であったか?」と葛野麻呂は笑顔をひらめかせて妻たちに次々抱擁し、いつもの好色な葛野麻呂に戻った。


「…なあ、私のもとに嫁して後悔はしていないか?」

と不意に膝枕の上で夫が聞いてきたので和気広子は「いいえ」と答えて夫の頬を両の手のひらで包んだ。


「あの男は出世の為なら何でもする野心家だ…が、我が和気氏わけしも所詮今上帝の寵を受けているだけの成り上がり。

藤原北家の出世頭であるあの男と縁づくのは将来の和気氏の為になる。と父は思うのだが、いいのか?広子よ」


と、亡父の清麻呂がそう葛野麻呂を評して

断ってもいいのだぞ、と言いたそうな心配そうな表情をしたのは滅多に無い事だったので、当時はたち前だった広子は思わず吹き出してしまった。


「どこの家の殿方のもとに行こうと私は嫁ぎ先での役割を果たすまで、ご心配なさらないで父上」


「しかし、相手の男はお前より倍も年上なのだぞ」


「その葛野麻呂さまという殿方、どの殿方よりも見目麗しいのでしょう?」


「ま、まあ父の見る限りではそうなのだが…」


「私、父上や兄上たちを見てて思うんですの。殿方というのは朝起きたら外にお勤めに出て、夜になれば数日に一度お会いする人、と思えば皆同じようなものだ、と。


ならば、見目麗しく将来有望な殿方と縁づく広子は幸せ者です。父上、広子は藤原北家に嫁します」


と政治巧者と呼ばれる父親に向けて言いきったのであった。


確かに結婚相手の顔を初めて見るのは新枕の時、というこの時代。相手の容貌が良いと聞いただけでも広子は果報者だったかもしれない。


藤原北家に嫁して6年になるが、葛野麻呂は25以上も年下の自分を和気氏から来た正妻として大事に扱ってくれている。


まだ子は授かっていないが愛しい夫がこうして膝で甘えて眠ってくれるだけでも広子は幸せだった。


しかし、そんな憩いのひとときを破ったのは「殿…!」と几帳越しに声を掛ける使用人。


「何だ?」と葛野麻呂は仏頂面で広子の膝から起き上がり、報告を聞くと一際険しい顔つきをした。


「済まんが、御所に行かなくてはいけない。支度をしてくれ」と広子に命じて着替えを済ませ、刀を受け取って腰に差すと

「事が事だから数日は帰れぬと思う」と広子にだけ事情を告げて用意された牛車に乗り込んだ。

広子は内心の動揺を完全に抑えて「殿、いってらっしゃいませ…」と夫を見送るのだった。


おほきみ、病篤し。


と報告を受けた貴族たちが深刻な顔つきをしてひそひそ話し合っている中に父の従兄弟である藤原内麻呂の顔を見つけたので葛野麻呂は同じ北家の親族同士で顔つき合わせ


「帝のご様子はどうなのですか?」


「なんでも夕餉を吐き戻してお倒れになったと聞く。帝も御年70…もう覚悟しておいた方がよいぞ」


「高齢な上にご無理がたたったのか、それとも…」


と皆、口には出さないが長年の厄災の原因とされている早良親王の怨霊の事を思い出し、その時ばかりはひた、とお喋りを止めた。


「陰陽師たちの報告によれば、亡き廃太子、早良親王はじめ多くの怨霊が帝に憑りついて苦しめているのだそうだ…」


「やはり複数か。早良様だけではなく、井上内親王いがみないしんのう他戸親王おさべしんのうさまも当然憑いているだろうな」


と内麻呂が言い捨てると葛野麻呂は「うわさは本当でしたか。弟の早良様だけでなくご自分の継母や異母弟までも」


とそこで顔をしかめ、自分の主なのにとことん天皇に相応しくない年寄りだ!

明信と組んで我が娘明鏡をかどわかして奪った一件だけでも許し難いのに。

と心底桓武帝を軽蔑した。


「帝位につくために舅である式家、藤原百川ふじわらのももかわと組んで奪った命、暗殺された種継や罪を被って死罪にされた大伴、佐伯(中央佐伯氏)の者加えると、帝を恨む者は百を下らん」


と内麻呂がここだけの秘密とばかりに打ち明けると貴族たちは


元斎王であらせられた井上内親王さまの命を奪っただなんて、これは祟りではなく神罰ではないか?

この際だから報いを受けてさっさと御隠れあそばされた方が良いのではないか?


春宮の安殿さまは至らぬところが多いがまだお若く貴族にとって扱いやすい存在だから…


と思っていた時点で葛野麻呂以外の貴族たちは安殿の能力を見くびっていた。というべきであろう。


ほどなく、「最澄和尚到着なされました」と尚侍明信が貴族たちに告げに来た。


「これから帝の病気平癒の加持祈祷をなさるそうです。最澄和尚によりますと、密教では在家は僧に依頼してそれで終わりではない。貴族の皆さまも最澄殿と心を合わせ、必死に心で祈って欲しいとのことです」


実はこうなる事を一番意望んでいなかったのは最澄自身であった。


上洛して初めて桓武帝に謁見した時、ご病状がさらに悪化している。と天皇の侍医的立場である内供分十禅師の最澄はその顔色を見て気づいた。


「最近の父は、御椅子から立ち上がるにも人手が居るほどなのだよ。そこで最澄」


と父に労わるような目を向けてから今を時めく唐帰りの僧、最澄に向き直ったのは…


皇太子安殿親王こうたいしあてしんのうであった。


「お前が唐の順暁阿闍梨じゅんぎょうあじゃりにより授かったという密教の加持祈祷で父上を苦しめている怨霊を祓ってくれないか?」


と一か月漬けで密教理論を教わっただけの最澄に到底無理な注文を依頼した安殿はさらに、


「お前の祈祷で父上がが持ち直したならお前は『使える者』として望み通り天台宗を正式な仏教の宗派として認可してやる。どうだ?自信がないなら辞退してもいいのだぞ」


と出航前はお優しそうだった皇太子の、侮蔑と悪意に満ちた笑い声を受けて最澄は、これがこの方の本当の顔かと見かけに騙されていた自分を恥ずかしく思い…


「やります、やらせていただきます!」と宣言したのであった。


しかし、加持祈祷の檀づくりも、法具の並べ方、使い方も真言も全ては持ち帰って来た書物をいちいち確認しながら行う祈祷に


これでいいのか?私が唐から持ち帰りたかったのは衆生救済のための天台の教え。


現世利益的な呪術まがいの密教で帝をお救いするのがのが私のやるべき事なのか?


と迷いながら祈祷を開始した。


こうしてまるひと月間気が遠くなるほど真言を唱えてついには喉が潰れて血を吐き、最澄は失神した。


「最澄さま休んで下さい!」「あなたまで倒れてはいけませぬ」

と両肩を支えて本気で自分を気遣ってくれる弟子の義真と泰範。二人とも労苦を惜しまず自分に尽くしてくれた弟子たちである。


私は祈祷で成果を見せつけ、天台宗を立ち上げてこの弟子たちの立場を安堵させねばならぬ、ここで倒れてなるものか!


「続ける」と口元の血を拭って最澄が座り直すと


「帝に呼ばれたんじゃが、他宗派の読経でも祈りは通ずるのかな?」


と穏やかな声色で最澄に語りかけて来る老人の声がした。


「あなたは…?」


華厳宗けごんしゅう実忠じっちゅう」と名乗った老僧に付き従う貴族を見て最澄は久方ぶりに体の力を緩めて安堵したのだった。


最澄の最初の支援者、和気氏の家長で同年代の親友、和気広世わけのひろよが薬箱を持って

「喉が癒えるまで休め!薬を調合してやる」と涙声で言って「助けてやれなくて…済まなかった」と詫びたのである。


「この広世はわしの医術の弟子でな、こうして連れだって帝の御診察に呼ばれた、という訳じゃ。たーっぷり時をかけて診察する故お主らは休んでよいぞ、との帝からのお許しじゃ」


こうして最澄が喉の薬を服して休んでいる間、実忠は広世と共に内密に桓武帝の診察に当たり、


「御酒を控えなされ、とあれほど文でご注意申し上げたでしょう?」と不摂生な患者を優しく叱った。


「本当ならとうに死んでもおかしくない病だ。お前の調合した薬でここまで生き永らえた、感謝する、実忠。お前の見立てでは朕はあとどれくらい生きられる?」


と肝の病ですっかり肌が黒ずんだ桓武帝は数少ない友の一人として実忠に尋ねた。


「それは、最澄の祈りを信じていないと彼の者を傷付ける事になりませんか?」

と実忠が問うと


「その逆だ、朕は最澄を救いたい。命数が少ないのなら意地でも起き上がって早く天台宗認可の勅を下さねばならぬ…貴族たちの最澄への評判が芳しくない事は解っているのだぞ。安殿の奴、小賢しい振る舞いをしおって!」と黄色く濁った白目を涙で溢れさせた。


「余命、あと半年。それ以上もったら奇跡だとお思い下され」


「解った…実忠、長年よく天皇家と仏教のために尽くしてくれた。さらばだ」


「お薬は広世を使って届けさせます故、ねえ山部王さま。わしを実務派の欲少ない僧だと誤解してもらっちゃ困りますよ」


「じゃあ働きの割に何も欲しがらなかったのは何故だ?」


「わしは、単に要職に就くのを厭うた面倒くさがりなだけです。山部王さまに対してすべての手を尽くした我々が出来る事は…もう祈る事だけじゃないんですか?」


と言い残して実忠は去った。


付け焼刃の密教の加持祈祷とやらで帝の御病気は良くならないんだ。という噂で最澄の評判を貶めている貴人たちが居た。


それは、たまたま帰りの遣唐使船の中で


「お前、青龍寺には行かなんだのか?密教で実行じつぎょうを授けるのは長安の青龍寺のみ。一か月足らずの講義で密教を修めたと言うは不遜じゃぞ」

「は、帰国したらみだりには言いません…」


と船内の影でうなだれる最澄と、彼を厳しく叱る永忠和尚の会話を盗み聞きしてしまった葛野麻呂の悪意から発生した、天皇の病までも利用して最澄を失脚させようとする密の教えを利用した罠であった。


「それにしても春宮さま御自ら帝の前で最澄に依頼して下さってこの葛野麻呂、助かりました」


「じきに天皇としてこの国を治める身ゆえにしたことだ。もう引きこもってはいられないからな…私にこの話をしてくれた葛野麻呂には大いに感謝する」


「たまたま話が耳に入っただけで」と葛野麻呂は畏まった。それにしても、と安殿は話を続けた。


「僧と門徒が一体になって初めて仏に祈りが通ず、というのが密教の祈祷だそうだが、私も含めて貴族たちの中にあるのが実は呪いだったら…恐ろしい結果になるのではないか?」


と安殿は引きつった笑いを浮かべて酒を口に含んだ。


は、そのようでと形式的に返事をした葛野麻呂の胸中には生半可に密教に手を出した最澄を哀れな奴、と思う気持ちがあるが、


それよりも、

帝の崩御と最澄の失脚が自分の主である安殿さまへの最大の貢ぎ物だ。

と思う葛野麻呂であった。
































































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