第41話 遣唐7 恵果阿闍梨

朝、目覚める度に両の手のひらを見つめ、自分がまだこの世に生きているのだと確認する小柄な老僧がいた。


有難い、今日もまた生き永らえそうですぞ。

と東の空から昇る朝日に手を合わせる彼の名は、恵果けいか


今年で齢六十。長安の南郊にある青龍寺で千人以上の弟子に法を授ける密教の第一人者である。


わが師不空様よ、ゆうべは懐かしい人がわが夢に現れました。


彼が日輪に手を合わせる時、密教の師で育ての親もあった不空三蔵ふくうさんぞうに語りかけるのが日課になっていた。


我が夢においでになられたという事は、もうあの方は命を終えられたのですな…


と強く目をつぶり、恵果は25年前に青龍寺を訪れて「この寺で教えを請いたいのです」と地に額を擦り付ける倭国から来た僧侶、戒明かいみょうを門前払いしてしまった事を今、とても悔やんでいた。


「顔をお上げください、はるばる海を越えて来られた僧侶よ」と恵果は丁寧な口調で戒明に辛抱強く呼びかけてやっと立たせ、


「確かに見た所、あなた様には我が密の種を受け取る体力も気力も教養も備わっている…しかし、『あなたではないのだ』」


となぜか根拠も無いのにそう断言してしまったのだった。


不空様。


あの時、戒明どのは寂しそうにお笑いになり、


「やはりそうでしたか」とだけ仰るとそのまま背を向けて去って行かれました。

それから間もなく、あの方は帰国されたと聞きます。


あの方は門前払いされる事が最初から解っていてこの寺に来たのかもしれない。と今では思うのです。


何故そう思うのか?まあ昨夜見たとんでもない夢の内容をお聞きください。


私は空の高い所から、今まさに上昇しようとする龍の形をした小島を見下ろしていました。その小島からすごい勢いで日輪の如き光の玉が飛び出し、私を包み込みました。眩しさの余り袖で眼を覆った次の瞬間、


私は青い海の中、一槽の小舟に乗って釣りをしている自分を発見しました。


僧侶である自分が殺生禁止の戒めを破って何故釣りを?


と思って釣り糸を上げると、糸の先には重しだけ付いていて、針は無いのです。

私が訝しんで仕掛けを見つめていると、


「釣りとは孤独な人の嗜み、と拙僧は思うのです。現世は釣った魚を見せびらかしてこれが我が人生!と誇る人多し、ですな」


と私の背後で同じく釣り糸を引き上げている僧侶…戒明どのに夢の中で再会したのです!


「お互い老けましたな、我が故郷の海へようこそ。恵果阿闍梨けいかあじゃりよ」と戒明どのは驚きましたか?と言わんばかりに片目をつぶってみせたのです。


「あなたはやはり、只者では無かったのですね!こうして異国の海に我が魂をいざなうとは。あなたはもう…」


と聞くと戒明どのはうなずかれて、


「おととしの夏のことだ。こっそり酒を飲み過ぎたのと晩年の過労でな」とわざと素っ気ない口調で言われた。


「なあ恵果阿闍梨」


「はい」


「たいていの衆生は釣った魚、つまり行いの結果を大きいだの小さいだの比較し合って生きて、釣った魚は雑魚なら食ってしまい、珍魚なら池で飼うであろう?自分の人生は実は釣り人である、と一生気付かずに過ごして死んでいくのが衆生」


「まあそうですな」


「我ら僧侶は釣りすらしない人生を選択する生き物だ。魚の生き死にもまた自然の流れであって、自分とは直接関係無い、と思うかもしれんが…

もし、だよ。懐に飛び込んで来た魚がいたら僧侶はどうすると思う?」


「元の水に帰しますが」


それがなあ…と戒明どのは含み笑いなさり、いつの間にか我が懐からひと抱えもある活きのいい魚を取り出し、


「この魚を、龍に育ててみないか?」


と私の懐にねじ込んだ所で夢から醒めました。


不空様。


あのお方は私の悩みを全て解っていて私の夢に現れたのかもしれませんね。


を唱え、弟子たちに講義し、調合された薬湯を朝晩飲みながら一日一日を過ごす私の人生は…もう長くはないでしょう。


今や青龍寺は大陸各地から集まった肌の色も目の色も違う弟子たちを平等に受け入れ、活気あふれる寺になっております。優秀で善良な弟子たちにも恵まれ、その内5人の弟子に阿闍梨号を授けましたが…


私の密の種を授けるべき人物が、この寺の中には居ないのです。


「これと言う人物に巡り会わなかったら、お前の代で密の教えを終わらせてしまっていい!その方が間違った伝わり方をするよりましだ」


と生前、不空様は豪快に笑っておいででしたが…果たしてこのままで良いのか?という執着と迷いの渦から私は抜け出せずにいます。


「衆生は皆、孤独な釣り人…」と呟いて沈む夕日を見つめるのが、この頃の恵果の日課になっていた。


名は恵果。なれどもその心は虚無。



砂の降る街の西市さいいちの賑わいの中に空海は立っていた。


「学問ばかりしてても根を詰め過ぎて良くない。気晴らしに市にでも行こうぜ」と空海の宿舎である西明寺の僧、談勝だんしょうが自分と霊仙りょうせんを誘ってくれたからである。


「ええ匂いいしまんなあ…」

「そうだなあ…」


と日の本から来た二人の僧は、屋台の鍋の中でぐつぐつ煮える、白く輝く食べ物に釘付けになっていた。


「なんだ、お前ら饂飩おんとんが珍しいのか?」


と談勝はいい年して子供のようにはしゃぐ留学僧たち見て幸せなそうな奴らだな、と思い二人に饂飩を奢ってやった。


「う、うまいっ!」

「汁の味もあっさりしてて無駄に辛くなく、これなら故国の人たちの口に合います」


と空海は練った小麦に具を入れて煮た料理、饂飩の汁を最後まで飲み干してから屋台の料理人の料理の腕をほめちぎり、言葉巧みに調理法を聞き出して懐の帳面に記録した。


「唐の料理が無駄に辛くて悪かったな!っていうか空海」


「へえ」


「お前のその学習意欲というか、貪欲な知的好奇心には見ているこっちも頭が下がる。


お前ら倭国の留学生たちは皇帝陛下から賜ったお宝を全部売り払って金に換え、書物を買い漁って帰っちまう無礼な奴らだ、と昔から評判悪かったが先月お発ちになられた永忠さまやお前らに接していると…」


とそこで談勝が言葉に詰まったので、何でっか?と空海が聞こうとするのを霊仙が肩に手を置いて止めて、先輩僧が自ら話し出すのを待った。


「え、ええい!世界一の都、長安に居てひとかどの僧侶になったつもりでいた自分が恥ずかしいのだ。俺は、まだまだ学びが足りない…」


とこぼした先輩は銭を出して屋台の席から立ち上がり、行こう、と空海たちを伴って世界中のあらゆる異文化が日常に溶け込んでいる西市の光景を楽しんだ。


「仏教だけでなく、色んな宗派の寺院もあるのですねえ…」


「うむ、道教、回教(イスラム教)、景教(キリスト教ネストリウス派)、摩尼教(マニ教)…数え上げたらきりがない。ところで空海と霊仙」


「はい」


「お前たちが醴泉寺で梵語を習い始めて二か月経とうとしているが、あの般若三蔵さまがお前たちの上達ぶりを褒めちぎっているそうだな?特に空海、お前は経典を頂いたとか」


へえ…と空海は照れて剃髪の頭を掻いた。本当は故国の久米寺で読んだ大日経の全てを知りたい、という目的で留学した空海だが、


「大日経を全て学びたかったら青龍寺の恵果和尚がその道の第一人者だ…しかし、あのお方から教えを請うには密教に使われる梵語(サンスクリット語)を修めていないと青龍寺に行っても門前払いくわされるだけだぞ」


と空海に宿舎の部屋を明け渡して帰国した永忠の勧めで天竺僧、般若三蔵はんにゃさんぞう牟尼室利三蔵むにしりさんぞうのいる醴泉寺れいせんじに通い、日夜梵語の勉強に励んでいる。が…


倭国から来た僧侶二人、梵語の上達異様に早く、一人は般若三蔵様の経典翻訳の助手に付き、一人は経典を与えられた。と長安中の僧侶たちの噂になっている霊仙と空海であった。


「おまえらは故国ですでに梵語を習っていたんじゃないか?というのが長安の僧たちの憶測でな…代表して俺に梵語上達の秘訣を聞いて来い、と頼まれたんだ」


と、褐色の肌をした商人が売る甘い匂いのするちまきを3つ購入し、談勝はほれ、と霊仙と空海に1つずつ渡した。


「成程…文字としての梵語はすでに倭国に伝わっていたのか、この菓子は俺の子供の頃からの好物でな」


と外の葉っぱを剥いて練った小麦に干したを果物を混ぜて甘味を付けた蒸し菓子に、無邪気な顔をして談勝はかじりついた。二人もそれにならって菓子を一口かじると、あまりの旨さに同時に「甘いっ!」と歓喜の声を上げた。

「そうだろ?」と気を良くする談笑に


「へえ、故国の偉い坊さんが梵語の経典を収蔵してはったんです。それで文字だけは書きつけて覚えましたが読み方はどうしても」


空海たちの梵語の習得が早かったのは偉い坊さんこと実忠が東大寺の秘密の書庫を開き、師の良弁僧正ろうべんそうじょうが遺した梵語の経典を見せてくれたからである。


「これは梵語。佛の生まれた国、天竺の文字じゃが…実は、わしも読み方を知らん。二人にはできれば読み方を覚えて帰って来てほしい」


ときっぱり言い切った実忠の青い目を、空海は眼前を通り過ぎる白装束の一団の中に見つけた。拝殿らしき建物の中に入った一団は、中央で焚かれる火に供物を捧げ、何か祈りを唱えている。


「ああ、あれは拝火教徒(ゾロアスター教徒)だ。火を神聖なものとして崇拝し、何かにつけて火を焚くのだ」


「そういえば、実忠様のご両親は唐から来た胡人の商人で拝火教徒であったと聞く」


と霊仙が儀式を見ながら急に思い出した奈良仏教の最高権力者の出自を語り始めた。


「奈良には青い目の僧侶は実忠さましかおりませぬが」


「60年以上昔のことだが…奈良で仏教徒以外を排斥する動きがあり、異教徒はほとんど国外追放されたそうだ。おそらく実忠さまはその時親と離れて寺に入れられたのだろう。実はな、空海」


「はい?」


「東大寺の二月堂の修二会しゅにえな、あれは実忠さまが始められた火と水の儀式だが、もしかしたら今見ている拝火教の儀式が元なのではないか?

あのお方はとうに滅んだ胡国とご自分の先祖が崇めていたものを忘れないために、奈良の仏教に取り込んだのかも…」


「わしもそう思います」


祭壇の中で躍る炎を、美しい。と魅入る空海の目の輝きに霊仙と談勝は、


この男はその内今いる所から飛び出すだろう。という危うさを感じた。


空海が青龍寺恵果を訪ねるまで、あと二か月。























































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