第40話 遣唐6 聖俗同舟
最澄が修行を終え天台山を降りる日が近づいていた。
最澄は弟子の義真と共に道邃から大乗戒(菩薩が守るべき仏の教え)を授かり、さらに禅林寺の
国清寺の座主、
「倭国からの賓客とはいえいくらなんでも一人の僧侶に蔵の宝物を与えすぎではないですか?」
と茶会の席で
「どうせ数十年後に焼かれるのなら、異国の優秀な僧侶に与えて大事にしてもらうほうがましじゃろ?」と言ってのけたのだ。
道邃、翛然はこの老僧の真意を察して黙り込み、目線を落として器の茶を啜った。
ここ天台山の寺院は隋以来度々人災、天災に遭い何度も焼かれては再建されてきた。
「…大陸では王朝が変わる度に何もかも破壊され更地にされる。そうすれば前より必ず良くなるとでも信じ込んでいるかのように。
しかし、それは大きな勘違いじゃ。結局人びとは棄てた教えを忘れ、行いを改めようとはせず同じ生き方を繰り返している。
そう、ただ生きているだけ…教えとは、良く生きるためにあるものなのにいちいち自ら棄ててしまうのじゃから世話は無いよ。
まったく、わしら大陸の僧侶は『三諦』の教えを胸に留めてないと虚しくて虚しくてとてもやってられん」
と行満は皮肉を込めてふん、と鼻を鳴らした。
三諦とは、唐の天台宗の奥義で
すべての存在は空無なものであるとする
すべての事象は因縁によって存在する仮のものとする
すべての存在は空でも有でもなく言葉や思慮の対象を超えたものであるとする
行満は茶器を掲げると、
昔聞く。
知者大師、諸の弟子等に告げたまはく
吾が滅後二百歳、
始めて東国において我が法興隆せん、と。
聖語朽ちずして今、此の人に遇へり
我が披閲せる所の法門を
日本の闍梨に捨与せん。
海東に将ち去りて当に伝燈を継ぐべし。
昔から天台山の
わしは諸々の弟子に伝えたい。
智顗さまの没後二百年にしてやっと
天台の教えが廃れない内に伝えるべき人に巡り会えたのだ!
わしは開いた経典に書かれた佛の教えを日の本の僧侶たちの師となるであろう最澄に全て与え、
海の向こうの東の国に持ち去って法の光を継いでもらいたいと決めたのだ!
という意味の漢詩を諳んじた。
…道邃と翛然はわざと何かを思い出した!というように立ち上がり、
「あの観音立像も最澄に渡しておこう、弟子にばれぬうちにな」
「そういえば、持ち出しても差し障りのない経典がまだありましたな」
とそそくさと席を立ち、寺の宝物蔵へと向かった。
「さて、あるじの居ない茶席でわしはどうすればいいのかな?片付けでもしてろと?」
ひとり茶席に残された行満は結局どいつもこいつもだな、とにやにやし、
「それにしても道邃の淹れる茶は甘い」と器の茶を啜りきってから独り言ちた。
最澄去りし後、天台山の寺社は35年後に即位した武宗皇帝が行った仏教弾圧により廃寺の憂き目に遭うのだが、
道邃はじめ3人の高僧たちはすでに没していて醜い滅びの光景を見ずに済んだのがせめてもの救いというべきか。
「せっかく唐にいらしたのだから今流行りの密教を学んで帰るとよいよ」
夥しい量の経典や仏像、法具を荷車に積んで天台山のふもとで丁重に師たちに別れを告げる最澄に向けて行満が言った一言が最澄の運命を変えた。
「はあ…しかし私には出立の日にちが迫っておりますが」と旅程を気にして言葉を濁す最澄に行満は、
「明州から船で出立なさるのであろう?幸い密教の師、
せっかく海を越えて来たのだから新しい教えを全て吸収するつもりで学んではどうかね?」と自分の孫ほども年の若い最澄を駆り立てるように言った。
全て吸収するつもりで、という老僧の言葉が最澄の心に火を点けた。
「義真」
「は」
「私は日数ぎりぎりまでやれることをやってみようと思う」
「最澄さまならそう仰ると思っていましたよ!」
と答える義真の声は晴れやかであった。
最澄と義真は出来るだけ急いで帰りの遣唐使たちの集合拠点である明州の官舎に
着いた時、副使の
「ああ…またあなたにお目にかかれるなんて…」
と肺病を病んで半年近く病床に臥し、すっかり落ち窪んだ道益の眼からつう、と涙が溢れ出た。
「道益どの!」と声を詰まらせて最澄が道益の手を握る。
「私はね、最澄どの…あなたにだけ伝えたい事があるんだ」
と次の瞬間とても病人とは思えぬ力で最澄の帽子を掴んで最澄の顔を自分の口元に引き寄せると
「貴族たちを一切信じるな。たとえそれがどんな善人に見えても」
とだけ囁いて口を真一文字に結び、枕に頭を預けていいね?と確認するように頷いて見せたのだ。最澄が黙って頷き返すと道益は顔をほころばせ、
「貴族とは…生まれながらに位と領地を約束され、日夜宴に興ずる羨ましい生き物だとあなたがた僧侶や庶民は思うでしょうな。
しかしこうして死を実感している今、貴族の人生なんて全て幻だと解ったのです。
貴族とは出世と保身のために嘘を吐き続け、虚構の世界で力尽きるまで羽ばたき続ける蝶々のようなものです」
「道益どの、お体に障りますゆえ」と義真が忠告すると道益は力なく首を振り、
「いいえ、これだけは言わせてください…貴族とは、呼吸する度に嘘を吐くこの世で最も哀れな生き物、くれぐれもお気をつけ召されよ最澄どの…」
喋り過ぎて体力を消耗した道益の容態は急速に悪化し、10日後、藤原葛野麻呂を初めとする帰りの遣唐使団が到着した時には道益は昏睡状態に陥っていた。
「道益!私が解るか?葛野麻呂だ」
と道益のあまりのやつれ振りに驚いた葛野麻呂が正気付けようと道益の体を揺さぶる。病人にそれは無茶な!と引きはがそうとする最澄との押し問答の最中、不意に道益が目を覚ました。
「これは大使さま」
「道益!私は無事に皇帝に謁見して唐での任を果たしたぞ…もうお前が心配することは何もないから…一緒に帰ろう」
と道益の体に抱き付きながら葛野麻呂は膝からくずおれ、人目もはばからずに泣きじゃくった。
「大使さまが見事大役果たされましてこの道益、嬉しい限り…なれどこの体では船に乗れませぬ」
「お前の妻子の将来はこの葛野麻呂が安堵する!だから死ぬな!」
葛野麻呂のその言葉を聞いて安堵したのか道益は大きく息を付いて
「では魂となって付いて行きます」
とだけ言ってそのまま目を閉じ、翌日未明、石川道益は息を引き取った。
貞元21年(805年)春、享年43才。
4日後、道益の弔いを済ませた最澄は義真と共に越州へと旅立つ支度をしていると
「どうしても行くのか?お前は天台山で学び尽くしたのではないのか?まあ止めはせぬがな」
と肩をすくめた葛野麻呂が二人に声を掛けた。どうやら彼なりの見送りのようである。
「副使どのが私に教えてくれました。人生は短い、と。与えられた時間の中で私は私のすべきことをやってみたいと思います」
と宣言して最澄は越州へと旅立ち、龍興寺の順暁阿闍梨から約一か月かけて密教理論の講義を受け、灌頂(菩薩が仏になる儀式)を授かる。
帰りの遣唐使船一の船が出航する直前に最澄と義真が荷また荷車一杯の経典と法具を持って帰って来たので
「お前の荷物だけで船を沈めかねない重量だぞ!帰路も無事でないのは解っている癖に」
と葛野麻呂は悪態をついたが、道益の死がこたえているのかさすがにねちねちと嫌味を言い続ける元気は無く、道益の遺品の入った箱を両腕に抱きしめて、
「帰ろう、道益」
と箱に呼びかけてから乗船した。
続いて永忠はじめとする20年以上留学を果たした留学生たち、そして最澄と義真が葛野麻呂に寄り添っているであろう遣唐副使、石川道益の魂に目礼してから乗船し、明州から日の本への帰路に就いた。
石川道益、その者書記に優れ、行儀作法も美しかったことから桓武帝、その死を惜しまれ、没後の延暦24年(805年)従四位下を、承和3年(836年)には従四位上の位階を贈られた。
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