星の見えない空の下で

榛原ヒダカ

星の見えない空の下で

 グレープとオレンジ、別にどっちでもよかったから、同時にボタンを押した。ガタン、と大げさな音を立てて出てきたグレープ風味の炭酸飲料は、喉にべったりはりつくようなシロップの甘さを炭酸が麻痺させて、心地よい印象だけを残して消えていった。

 歩道に寄り添うようにして桜が植えられたこの通りは、冬の時期が一番さびしい。ところどころ立っている電柱や街灯がよく目立つし、ゴミ捨て場の真っ青なネットや、その中に並んだ白いゴミ袋から透けて見える落ち葉まで、見えなくていいものばかり目についた。電線の近くまで及んだせいで、すっぱりと切り落とされてしまった真新しい枝の切り口の美しさは、桜通りという名前が皮肉に思えるほどだった。

 自動販売機のとなりに置かれたプラスチックのベンチに腰掛けて、癖みたいに、ポケットから携帯電話をとり出して開く。画面にはそっけないフォントで時刻が表示されていて、十九時三十八分だった。着ていたダウンジャケットに首をうずめて、息をふかく吐くと、白くなった息がチカチカした光りに照らされた。本田の自転車は、ライトの調子があまり良くないらしく、近づいてくるとすぐにわかる。

「わりぃ、待った?」

「そうでも」

 待ち合わせは十九時ちょうどだけど、どうせ遅れてくるだろうと思ったから、僕も三十分くらい遅らせた。待ち合わせの時間になってから出かける準備をするとちょうどいいくらいだと気付いたのは、もう思い出せないくらい昔のことだった。

「こんなクソ寒いのによくそんなの飲めんな」

「たしかに」

 なんだよそれ、と笑う本田は自転車にまたがったまま、器用に右足でペダルを逆回転させていた。チェーンが空回るカラカラとした音が、絶えることなく聞こえてくる。

「高木は、まだ来てないか」

「また寝てるかもね」

「うわぁ、あり得るわ」

 チェーンの音が止んで、自転車から降りた本田は、上着のポケットから二つ折り財布をとり出した。

 小銭を自動販売機に投入しながら、「ポッカ派? クノール派?」と聞いてきた本田に、適当にクノールと答えてやると、どういうわけかポッカのコーンポタージュを押した。

「敵な」

「何が」

「この自販機のコンポタ戦争」

「うわ、くだらね」

 笑い声が冷たいアスファルトに跳ねてかえってくる。

 立ち並んだ家の間からのぞく夜空は、一面雲に覆われているようで、きっと星も月も見えない。どこにも明かりの見えない空は、なぜかいつもより少し明るく感じる。

「つまんねー空だな」

「そうかな」

「せっかくこんなド田舎なんだからさあ、星ぐらいキレイにみせてくれてもよくない?」

 まあ、と煮え切らない返事をかえす。お互い、その先に言葉が続くことはなかった。

 あまりにも綺麗な、時々、星が降りそうな、といわれる空を、僕はおそろしく感じてしまう。上も下もない宇宙の中で、ただ地球の重力だけを頼りにここにへばりついているのだと思うと、途端にこころ細くなって、おびただしい数の光の粒がきらめく夜空の中に、落ちていってしまいそうで、おそろしい。

 曇りや雨が好き、なんて、変人ぶりたいわけじゃなく、ただ雲が出ていると、そういう余計なことを考えなくてすむから、今日くらいの天気が一番いい。

 ベンチが浅くきしんで、見ると、隣に座った本田が黄色い缶を両手でもてあそんでいた。


 ママチャリのブレーキをキーキーいわせながら、高城がやってきたのはそれからさらに二十分ほどたってからだった。

「寝てたわ、すまんね」

 目にかかった長い前髪をくしゃくしゃ、と分けて、いつもみたいにそう言った。高木が時間に遅れたときは、何かの言い訳みたいに、寝てたわ、と必ず言う。

「あ、高木はクノール派? ポッカ派?」

 本田の唐突な問いにやはり、何が、と返した高木は、コンポタ戦争という言葉にも首を傾げながら、じゃあクノール、とこたえた。どうやらいまのところ、我が軍が若干優勢らしい。

 なんなのそれ、と僕を見て尋ねる高木に、わからん、と短くかえす。

 また、携帯を開く。二十時ちょうどになっていた。あたりは深夜のように静まり返っている。山間の住宅地に訪れた、冬の澄んだ空気は、僕らの話し声をどこまでも届けてくれそうだった。

「あー、はらへったわ」

 わざとらしく大きなあくびをした高木は、あとここさみぃ、とつけ足した。眠い寒い腹減った、という不満を、寝坊して来て早々に、全てぶつけられる高木が、ほんのちょっと羨ましかった。

 このあたりで腹を満たせる場所は、最寄りの駅に焼き鳥の屋台が来なくなってから、一か所しかない。自転車ではコンビニすら遠いこの地域には、一か所あるだけマシだとは思うけれど、それで不満がないと言ったら嘘だった。一度くらいは買い食いしながら下校してみたかったのだが、登下校路にはこの自動販売機しかない。僕らが光に集まる虫みたいにこの場所に集まるのは、そんな叶うことのない願いが一因しているに違いなかった。

「阿里山行くか」

 口を開いた本田に、よっしゃさんせーい、と手を挙げた高木にならって、僕も手を挙げる。しばらくポケットに突っこんでいた手の温度が、いよいよ冷えこんできた冬の夜にとけていくのがわかった。

 自動販売機のある通りはゆるやかな下り坂がつづく。それをただまっすぐに、自転車で下りつづける。しばらくすると線路の下をくぐるガードがあって、それを抜けた先の信号を右に曲がってすこし行くと「阿里山担々麺」という、こぢんまりしたラーメン屋がある。阿里山は、台湾のほうにある山の名前だったような気がするが、細かいことは忘れてしまった。それがなんでこの店の名前になっているのかも、今は特に気にしなくなった。

 木目を基調とした店内には、カウンター席が六つとテーブル席が四つあって、僕たち以外のお客さんは、カウンター席に灰色のツナギを着たおじさんが一人いるだけだった。出入り口のすぐ脇にある券売機に千円札を滑り込ませて、特製担々麺と書かれたボタンを押す。つづけて、麺大盛りのボタンを押そうとして、ふと、思い出した。

「これ、前どっかで麺大盛りを超大盛りって読んだの、高木だっけ?」

「あーあったね、普通に大盛りがいいとか言い出してさあ、あの時はマジで何言ってんのって思った」

 ケラケラ笑う本田の隣で、そんなことあったっけ、と、とぼける高木を横目にボタンを押す。口に出さずとも、ボタンを押せば済む方が気楽でいい。

 僕と本田は壁側の席が好きで、高木は通路側に座りたがる。壁側はなんとなく息苦しいらしい。わからなくもないけど、僕や本田は壁に背をあずけて、テーブルに対して半身の姿勢が一番落ち着く。片肘ついてふんぞりかえるそうな姿勢は、行儀のいいものではないとわかっていても、それくらいのことを誰もいちいち咎めたりしない。今日は高木が僕の隣に座って、思いがけなく、クノール派とポッカ派に分かれた。

「そういやさ、知ってる?」

 テーブルの端にまとめておいた食券を、店員のおばさんが持っていったのを確認したあと、高木は切りだした。

「大槻がまた告られたらしいよ」

「は、マジで」

 へえ、と相槌を打ちながら、小さくため息をついた。正直、こういう話題は好きじゃない。

「誰に誰に」

「なんか、バスケ部の後輩らしいよ。ウワサによれば、結構なイケメンだって」

「はー」

 あいつもう何人目よ、と感嘆するように言って、水を一気に飲み干した本田に、氷がガラガラ入ったピッチャーを渡してやる。

「で、返事は?」

「フッたらしいよ」

「おぉ」

 グラスに水を注ぎながら、やるねぇ、と言った本田の表情は、なんとなく気まずそうで、それには同感だった。

「よくそんなこと知ってんね、誰から聞いたの?」

 言葉のトゲをなるべく隠して、聞いた。興味はなくても、三人でいると会話に参加せざるをえない。

「まあまあ、いろいろあるんですよいろいろ」

 手をぷらぷら振ってごまかす高木の目は、横からだと長い前髪にかくれてよく見えない。

 ふーん、いろいろね。と言葉をなぞった口は、なぜか勝手に開いた。

「最近さ、告白しただのされただの、やたら多くない?」

 正直どうでもいいんだけど、と、自分の発言に対する言い訳みたいに、心の中でつけ足す。

「ね、なんかみんな焦ってるっていうか。まあ、気持ちはわからなくもないけどさあ」

 そりゃあ卒業前の大事な大事なアタックチャンスだからね、と言って拳を胸の前にかかげた高木に、本田はぽかんと口を開けていた。

 ポケットの携帯がヴ、とみじかく震えて、見ると前川からのメールだった。向こうから来るなんてめずらしいから、少し驚きながら開くと、件名はなく、本文はたった一行だけだった。

『大槻のこと、まだ好き?』

「は?」

 とっさに出てしまった声に、二人の視線が集まるのがわかる。

 飛びはねるように携帯を閉じて、ポケットにしまいこむ。その一切無駄のないスムーズな動作は、自分でもはっきりわかるくらい、あやしかった。

「あ、いや、なんでもない。こっちの話」

「えー、なにそれ気になるじゃん」

「いやほんとマジで、なんでもないから」

 じゃあせめて誰からのメールかだけでも、と食い下がる本田を、お待たせしました、というおばさんの声がさえぎった。

 大盛り特製担々麺のでかい鉢をこっちにずりずりと寄せる。かたく突き刺さったわりばしをひき抜いて、二人にわたしてやると、この話題の熱がすっと引いていくのがわかった。テーブルの下の、二人から死角になるところでこっそり携帯を開いて、まあね、と返信する。胃のあたりが、誰かに握られたみたいにぎゅっとなって、大盛りの担々麺なんて食べきれる気がしなかった。



 僕が大槻に告白したのは、夏休みの最後の日だったから、四ヶ月近くも前になる。授業の五十分はあんなに長いのに、四ヶ月が過ぎていくのはあっという間だ。翌日の始業式が終わってから、前川に呼び出されて、たしかあの日も阿里山に行った。細かくは覚えていないけど、僕の前を無言で歩き続ける彼女の背中は、よく知っている時よりもずいぶん小さく感じたのを覚えている。

「なんで急に告ってんのさ」

 しかもメールで、と言った前川に、言葉がつまる。

「いや、なんとなく」

「はぁ?」

 なにそれ意味わかんない、と背もたれに身を投げた前川は、見た目の幼さもあいまって、ゲームに負けて不機嫌になる子どもみたいだった。

「そもそも、なんで知ってんだよ」

「ぐもんでしょ」

 それ意味わかってんのかよ、と心のなかでツッコミをいれる。別にただ聞いてみただけで、愚問に愚答を求めているわけじゃなった。前川と大槻は、急に告白されでもしたら、互いに相談したり、そいつの陰口を言い合うくらい、自然な仲で、むしろ黙っている方が不自然なくらいだ。

 大槻は僕のことをどう話したのだろうか、それは少しも聞いてみる気にならなかった。

 僕の顔をまじまじと見たあと、深いため息をついて、窓の外に目を向けた前川は、きっとさっきから強くなってきた雨を見ている。

「傘、ある?」

「愚問だな」

「ほんっと使いものになんないよね」

 天気は朝からぐずついてたけど、午前中は降らない予報だったから、始業式に傘を持ってきている人はそれほどいなかった。ただでさえ、僕と前川は家が学校から近いから、傘を持ち歩くという習慣には疎かった。

「黒ごまアイスもう一つ追加ね。しょうがないから、相談のったげる」

「あざす」

「お礼ならおいしいアイスと土砂降りの雨に言って」

 テーブルに投げ出しておいた財布を掴んで、出入り口のすぐ脇にある券売機に小銭を入れていく。麺大盛りの隣にある、こいつぐらいしか食ってるところを見たことがない黒ごまアイスのボタンを押す。発券する音に店員のおばさんが反応して、食券を取りに来てくれた。

 平日とはいえ、昼時なのにガラガラの店内に、客はとうとう僕ら二人しかいないらしく、スピーカーから延々聞こえてくるポップスの音量が、いつもよりだいぶ大きく感じる。恋愛ソングの歌詞の中に正解を見出せない僕には、流行りのきゃぴきゃぴした曲なんて何の慰めにもならない。

「そんで、大槻はなんて言ってたの」

 スプーンで灰色の山を崩して、ぱくぱく口に運ぶ前川は、いくらか機嫌をなおしたようだ。もしかしたらゴマの成分には、人の神経をなだめる作用があるのかもしれない。あまりにも美味しそうに食べるもんだから、気になって、まえに一度食べたことがあるが、少なくともその独特な味と風味は、とても神経をおちつけるものではなかった。

「他に好きな人がいるんだって、だからごめん、って」

「ふーん」

 それ言ったんだ、と前川が小さく呟いた。

「誰?」

「さーね、同じ塾の人だって言ってた。ウチの学校じゃないよ」

「へぇ」

 いっそ知ってるやつならすっきりしたろうに、好きな人の好きな人ほど気になるもにはない。いや、知ってるやつの方がもやもやするのだろうか。

「そもそもさ、なんで急に告白なんかしたの?」

「なんとなく」

「じゃなくって、マジメに。」

 淡い褐色の瞳が、こっちをまっすぐに見つめていた。いつの間にか喉がからからになっていることに気づいてグラスの水を含む。べっこう飴みたいな色をしたグラスの表面にはたっぷり水がついていて、円形の水滴がテーブルに残った。それを指でなぞりながら、おもむろに口を開く。

「僕も大槻も、まあ前川も、高木も、本田もだけど、小学校から今まで、十一年と半年くらい一緒だったわけじゃん? でさ、もう半年もしたら、こうして日常的に顔を合わせることもなくなるんだ、って思ったら、なんか焦っちゃってさ」

「うわぁきもちわる。めっちゃ語ってんじゃん」

「おい」

「じょーだんじょーだん」

 とにかくさ、と、また窓の外を眺める前川の髪は、照明をうけて赤く光っている。茶髪に脱色してから黒染めすると、人間の髪は赤くなるということを、僕は今日初めて知った。

「なんかヤなことあったら星を見るといいよ。人がどうこうなんて、どうでもいいくらいちっぽけなことに思えるから。これあたしのオススメね」

 ごめんちょっと電話、と言い残して席を立った前川は、ふらふらとした足取りで外へ出て行った。カランカランと鳴るドアチャイムの合間に、雨の音がはっきり聞こえた。まだしばらく上がりそうもない。

 ドアが閉まると、取り残された食べかけのアイスと甘ったるいラブソングが、どろどろと溶けて僕にまとわりついてきた。




 下ってきたのなら上っていかなくてはいけない。世の物理法則は、僕たちがいくらめんどくさがったところで揺るぎはしない。自転車をおしながら、一歩一歩踏み出すたびに、無理やり押しこんだ担々麺が出口を求めて動き回るのがわかった。山の上の方から冷たい空気がなだれ込んできて、思わず首をすくめる。

 メールの返信はまだない。あまり携帯を気にしすぎているとまたあやしまれるから、時間だけ確認してポケットにしまいこむ。二十二時十三分と表示した液晶の光りが目に焼きついて、しばらく離れない。

 今日はもうねみーから帰るわ。ようやく自動販売機まで帰ってきたところで、高木はそう言った。

「え、マジ? ロケット花火やんねーの?」

「わり、今日はパスで」

「しゃーない、二人でやるか」

 こっちをちらりと見た本田は、その少し大人びた顔を子供がイタズラするみたいな笑顔にして言った。

「やめとく、警察沙汰は勘弁だし」

「えー、つまんねーの」

 僕と本田に、じゃ、と手を軽く上げて、自転車をこぎだした高木の背中は、寒さのせいか少し丸まっていて、あっという間に小さくなっていった。

「あいつ、最近なんか忙しそうじゃん」

「どうだろ、ただ欲望に忠実なだけかも」

 欲望ねー、とつぶやきながら、薄いプラスチックのベンチに腰を下ろした本田は、腕を胸の前で組んで、わざとらしく、うーん、と唸った。

「どうかした?」

「いや、あいつ彼女とかいんのかなって」

「あー、どうだろうね。全然イメージわかない」

 他人の恋愛話には興味があるみたいで、しょっちゅう、いろんなところに首をつっこんでいるみたいだが、高木自身がその話題の中心になることはなかった。それがなんだか、嫌な感じがした。自分は安全なところにいながら、他人のおままごとみたいな恋愛ごっこを見て、心の底で小馬鹿にしてるんじゃないかって、思ってしまう。

 だよね、と力なく笑った本田は、体を反らせて空を見上げた。

「ほんとつまんねー空」

「そんなに好きだっけ、星」

「べつにそーゆうわけじゃないけど」

 嫌なことがあったら星を見るといいよって、前に誰かに言われた気がする。裏をかえせば、星を見たがる人は嫌なことがあった人だ。

「八曲がり公園なら、見えるかもね」

「八曲がり、ねぇ」

 そう呟いたまま、濃紺に染まった雲を見つめつづける本田に、ゆっくりと口を開く。

「なんかあった?」

 ゆっくり首を戻した本田は少し驚いたようだった。そしてまた小さく笑うと、何かを探すように、ふたたび空を見上げた。

「まーね。俺の好きな人が、嫌なことあったら星を見ろって言っててさあ。ほら、上を向いて歩こうって曲もあるくらいじゃん?」

 好きな人、という言葉が出て、少し動揺する。ほんの一瞬の間が、ずいぶん長く感じられて、慌てて、まあそうだね。とかえす。

 何かをごまかすように財布から小銭を取り出して、自動販売機にがしゃがしゃ投入する。クノールのコンポタのボタンを押して、出てきた缶を本田に渡してやる。

「なにこれ?」

「休戦協定」

 ぽかんとしていた本田は、少しして、思い出したように缶を受けとった。

 あっちー、と言って、拝むみたいに缶をコロコロしていた本田は、やがてそれを上着のポケットにいれた。

「帰るか」

「そうだね」

 自転車を押す寒そうな背中に、声をかける。

「明日は学校来いよ」

 僕の言葉に軽く振り向くと、気が向いたら行くわ、といつもの捨て台詞を残して、ほそい路地の深い闇に消えていった。




 机がコンコンと鳴って、伏せていた顔を上げると、高木がこっちを見下ろしていた。

「今日もヒマっしょ、終業式終わったら、ちょっと付き合ってくんない?」

「えー、まーいいけど」

 窓から差す冬の柔かな日差しは、ものの輪郭と意識を白くぼんやりとさせる。重たいまぶたがのった目をこすると、コンタクトがずれて痛みと違和感が走った。

「どこに」

「阿里山」

 冗談だろ、と返す代わりに、ふたたび机につっ伏す。

「あーちょちょちょ、今日はおごるからさぁ。あと女子もいるよ」

「へぇ、誰」

 机の板に自分の声が跳ねかえってうるさい。正直ラーメンなんて当分見たくもないし、誰であろうといまいち乗り気にはなれないが、いちおう尋ねる。

「んー、それは秘密ってことにしといてもらえると」

「なんだそりゃ」

「来てくれたら、あの件のことは誰にも言わないであげるから」

 また胃のあたりが掴まれたようにぎゅっとなって、心臓が急に大きく脈打つのがわかる。

「あの件?」

「そう、あの件」

「四ヶ月くらい前の件?」

「いち、にい、さん、そうそれ」

 あれ以降、僕はそのことを誰にも話してないし、誰からもからかわれることなんてなかったから、僕と大槻と前川以外、知らないものだと思っていた。高木が知っているなら、ウワサは結構広まっているのかもしれないと思うと、気がどんより重くなる。

「わかった」

 じゃあまたあとで、という高木の声は、聞き飽きた調子のチャイムと担任がドアを開けるガラガラとした音にかき消されて、よく聞きとれなかった。

 

 いつもの自販のとこで待ってて、と言われたので、隣にあるベンチに浅く腰掛け、背もたれに身を預けるようにして、終業式の必要性をぼけっとした頭で考えていると、一番会いたくなかった二人組がこっちに近づいてきた。

「うわあ。見て見て、アホだよ」

 どうか絡んで来ませんように、というここ最近でもっとも強い祈りは、しかし聞き入れられることはなかった。

 今の僕を一言で的確に表現した前川のとなりで、はにかむような表情を浮かべながら、ひどいよー、とフォローしてくれたのが大槻だった。背の順で並ぶと前の方の前川とは対照的に、すらりと背の高い大槻はいつも一番後ろの方にいる。三年になっていつの間にか本田に身長を抜かれるまで、男子で一番背が高かった僕は、女子列の最後尾にいる彼女の凜とした後ろ姿を、ことあるごとにずっと見ていた。

 授業はないのに、やたらと中身の詰まったおもたいカバンを僕のとなりに放り投げて、前川はふらふらと視界から消えていってしまった。なので、おそるおそる大槻に向かって口を開く。

「帰り?」

「んーん、ちょっとね」

 視線をどこかにさまよわせながら、せわしなく、前で手を組んだり解いたりしている。もじもじという表現が、これほどしっくりこともなかなかない。ふーん、としか返せない自分が情けなくて、助けを求めるように逸らした視線の先では、前川があたたかいミルクティーのボタンを連打しながら、おごれぇ、とうめいていた。

 頼む高木、早く来てくれ。

 さっきよりもさらに強い祈りが通じたのか、それから程なくして高木はやってきた。

「待った?」

「待った。」

 ほっとした内心とは逆に、口から出た言葉は冷たかった。いつもなら集合時間に一時間遅れようとなんとも思わないのに、気まずい時間は頭上をこの上なくゆっくり流れて、何者かが時間を調節しているのならそいつを今すぐ縛りあげてやりたかった。

「もー、おっせーよ」

 罰としてこれおごれ、とミルクティーをせがむ前川を軽くあしらう高木に、思わず、え、とこぼれた。

「女子ってまさか」

「まぁなんていうの、サプライズ」

「もとめてねーよ」

「いーじゃんいーじゃん、なんか昔みたいでさー」

 こっちの事情を知っててこんな能天気なことが言える前川は、きっととんでもない大物になるに違いない。それに、てっきり前川と高木は仲が悪いのかと思っていた。なんとなく性格が合わなそうだし、二人で話しているところなんて、長い過去にも覚えがない。

「本田は」

「今日はお留守番で。あいつまた学校サボりやがったし」

 だから来いっつたのに、と心の中で叫ぶ。昨日の夜、本田が消えていった路地の方を見ると、置き物みたいにかたまっている大槻と一瞬だけ目があった。冷やかすような高笑いは、前川のものだ。


「は? なに、告ってたの?」

 今日もがらがらの店内に、高木の笑いまじりの声がひびいた。バカにしてるのかと思ったら、素直に驚いているようだった。

「え、だって朝」

 あーそれね、と前川がさえぎる。

「あたしが言ったの。何か知ってるふうに振るまえば釣れるからって」

 マジかよ、という言葉が不完全なまま、口からあふれる。

「なんだって?」

「あ、いや、なんでもない」

 隣に高木、向かいに大槻、ななめ前には前川がいる。まるで僕を包囲しているみたいで、居心地が悪い。

「結局、これは何の集いなわけ?」

「あーっと、その前に」

 と言って腰を上げる高木に、前川も続く。嫌な予感がする。

「二人は話があるでしょ」

 こっちを見下ろしている二人は、ニヤニヤしすぎて眩しいくらいの笑顔だった。

「だいじょうぶ、儀式的なもんだから」

「はぁ?」

 なにが大丈夫で、なにが儀式的なものなのか、一つもヒントをくれないまま、二人は店の外へ出て行った。カランカランというドアチャイムがむなしく鳴って、店内には、軽快にぽんぽん跳ねるポップスと、調理場から聞こえてくる、水の流れる音と、あまりにも大きすぎる沈黙がおりた。

 どんなに鈍感なやつでもすぐにわかる。昨日の夜、前川から来たメールと、それに対する返信が、この状況を説明するすべてだった。

 ちらり、と、正面を見る。彼女はうつむいたまま、ピクリとも動かない。

「なんか、ごめんね」

 重い口がようやく発したのは、わけのわからない謝罪の言葉だった。

「ううん、私こそ」

 首をかるく振って、顔をあげたその目と僕の目があう。ここで目をそらしたら、二度と彼女の目を見ることができないような気がして、とにかくそのまま口を開く。

「あの、えーっと。ポッカ派? クノール派?」

「え」

 壁の外からツッコミがドン、と入った。そんなところで聞き耳をたてるなよ。

「あぁいや、なんでもない」

 くすくすと笑う彼女のおかげで、すっと空気がかるくなるのがわかる。今しかない、そう思った。

「あのさ、前は、ごめん。メールで急に告ったりして。話しだってあんまりしたことなかったのにさ、困ったよね。そんなつもりはなかった、だから、それは本当にごめん」

 彼女は僕をまっすぐ見つめたままでいてくれている。

 言葉は不思議と、突っかかりながらもちゃんと出てくる。

「でも、僕はずっと大槻のことが好きだった。それは今も、これからも、ずっと変わらないと思う。だから、僕と付き合ってください」

 面と向かって告白するのは初めてで、こんなときどうすればいいのかわからなかったから、とりあえず頭を下げた。

「はい。よろしく、お願いします」

 という声はか細くて、今にも消えてしまいそうだった。

 きっと外には聞こえなかっただろうから、窓をトントン、と鳴らして、外にいるやつらに合図を送ってやると、顔を真っ赤にした彼女がまたくすくすと笑った。


「いやあ、お疲れ、よく頑張った、感動した」

「純一郎かよ」

 空気の壊れる音が、カランカランと鳴って、二人が帰ってきた。ほっとすると、どうでもいいような軽口もするりと出てくる。

「で?」

「ん?」

 高木はニヤけた表情のまま眉をよせて、首をひねった。

「結局、なんなのこれは」

 ああ、と言って、前川を見た高木は、俺が言うの、と自分を指さした。

「まあ、一つはドキドキ告白大作戦と、もう一つは初めてのダブルデートってところかな」

「なんだって?」

「ドキドキ告白大作戦」

「そっちじゃない、まあそっちもだけど」

「ダブルデート」

「ダブルって!」

 思わず大声をあげた僕に、まあまあ落ち着けよ、と両手で制す高木と、その向かいで少し驚いたような前川の顔を交互に見る。

「ありえねー」

 言いたいことはたくさんあった。ありすぎて、まず口から出たのはそんな言葉だった。

「なにそれ、ちょっとひどくない?」

「え、いつから」

 つい勢いで、声の飛んできた方に質問を投げてしまった。

「えっと、もうすぐ一年、くらいかな」

 隣でうんうんと頷く高木。

「一年」

 全身の力がするすると抜けていくのがわかった。そのまま壁に倒れるようにもたれかかって、グラスを引き寄せる。

「全っ然、気づかなかった」

 その水は強烈に冷たく、火照った体になかなか馴染まなかった。口の中で適温にして、それから飲み込むけれど、それでも胃の中まで水が通っていくのがわかる。

 高木が最近になって付き合いが悪くなったとか、前川が告白されたのをいち早く知っていたりとか、そういうのは少し不思議に思った。でも今となっては、それら全てに合点がいく。本田、やっぱり今日は来なくて正解だったよ。

「ま、バレないようにいろいろ手は尽くしたし」

「どうして、隠してたの?」

 初めてこの会話に口をはさんだ大槻に、高木は若干面食らった様子だった。どうやら、大槻はこのことを知ってるものだと思っていたらしい。

「え、いや、なんでかなあ」

 黙っていればいいのに、かわりに口を開いた前川の視線は完全に泳いでいた。

「恥ずかしかったからかな」

 なんとなく不穏な空気を感じたのか、高木は少しおどけるようにこたえた。

 一方で、前川の表情には明らかにくもりがあった。それほど頻繁に顔を合わせて会話することはなくても、長い付き合いのなかで、それははじめて見る表情だった。給食に、しいたけを見つけて不機嫌な時とも、僕の相談に乗ってくてた時とも、違う。思いつめたようでいて、それを隠そうとするような、まだあどけなさの残る顔には似合わない、大人の表情だった。

 僕はそれを見て、何かが確かに終わっていくのを感じた。




 グレープとオレンジ、別にどっちでもよかったから、同時にボタンを押した。出てきたグレープを見て、どうせならオレンジがよかったかな、と思っていると、本田がめずらしく時間通りにやってきた。

「よー、早いのな」

「お互いね」

「高木は、まだ来るわけねーか」

 今日は多分すぐ来るよ、という言葉は押し殺して、かわりに頷きを返す。空気の乾燥もあってか、急激に乾いていく喉の上を、炭酸がはじけながらすべっていく。案の定、高木はすぐに来た。

「あれ、高木が来た」

「あれ、本田がいる」

 不思議そうに首をかしげる二人を見て、思わず吹き出しそうになったのを必死に食い止めると、液体が変なところに入って大きく咳き込む。大丈夫かよ、という声に、手をふらふら振って、無事を伝える。

 月日の流れは、冬休みに入ってからさらに早くなった。きっと、受験やらなんやらで忙しい人たちが、時計の針まで勝手に押し進めているのだろう。ついこの前はじまった一年が、今日で終わろうとしている。

「もう行った方がいいかな」

「まだ早くねー」

 誰かが遅れてくる前提で集合時間を決めていたから、確かにまだ早い。けど、この寒空の下、特にやることもない。

「神社はもう混んでるだろうけどね」

 阿里山担々麺を過ぎてもう少し行くと、ここら辺では一番立派な神社がある。昇進、出世の神様が祀られているとかで、毎年初詣の時期はにぎわっている。もっとも、なんの神様だろうと、人は集まるのだろうけれど。

「あそこさ、なんでまわりになんもねーんだよ」

「なー、せいぜい、境内に露店が出てるくらいだもんな」

 年明けまであと三時間以上もあった。田舎育ちは人ごみが得意じゃない。

 しょうがねーな、と本田はベンチに腰を下ろして、携帯をいじり始めた。

「それで、最近どうよ」

 不自然にならないくらいに距離をとると、声を少しひそめて、高木が聞いてきた。

「何が」

「もぉ、とぼけんなよ」

 これだよこれ、と小指を立ててくる。

「別に、なんもないよ」

「またまたぁ」

「いやマジで、今日だって勉強で忙しいらしくてさ。前川もそうでしょ?」

「まあね」

 みんな真面目ぶっちゃってさー、という高木は、卒業したらどうするのだろうか。高木はとことん、自分のことを語らない。自分から言わないなら、こっちだって聞きづらい。勉強はできるほうだし、スポーツだってできるし、社交性もあってルックスもいい。でも、それらは何一つ本当じゃないような気がした。器用がゆえに、本当の自分を、作り上げた別の自分の中に隠してしまっているようだった。

「ねー、冬休みの宿題ってもうやった?」

 ベンチの方から声がして、振り返る。

「いやまだ何も」

「俺も。まったく手つけてない」

 さっきまで小声だったから、普通の声が大きく感じる。

「俺はもう終わった」

「マジかよ」

「見して」

 まあまあ、と、本田は得意げに制した。

「え、ってか一人でやったの?」

「いや、前川と。おとといかな、俺ん家で徹夜してやって、あいつ途中で寝てやんの」

 楽しそうに笑う本田だったが、高木が隣で小さく、は、と漏らしたのを聞き逃さなかった。余計なこと聞くんじゃなかった、と思うのももう遅い。

 黙るのはマズいと思って、適当に言葉を返す。

「へー、いいね」

「でしょ」

 明らかにニヤついている本田を横目に、ちらっと高木の顔色をうかがうと、同じようにしてこっちを向いた高木と目があった。表情に変化はないが、その目は、怒っているようにも、悲しんでるようにも、焦っているようにも見えた。

「ごめん、ちょっと急用」

 目の前を過ぎていく高木に、待てよ、と、たったそれだけの言葉が出てこない。腕を引こうにも手が上がらない。このまま帰してはいけない、そう頭で強く念じてみても、体はピクリとも動かない。

「どうしたんだろ、あいつ」

 すでに遠ざかる背中を見て、本田が小さくつぶやいた。

「さあ」

 口から出た無責任な言葉は、僕の鼓膜にべったりはりついたあと、冷たい夜の闇に溶けていった。




 きつく握っていた携帯が震えて、目を覚ました。

 年が明けて、すでに二時間が経っていた。結局あのあと、僕も逃げるようにして帰ってきてしまった。あの場で本田に、高木と前川は付き合っている、と、教えたほうがよかったのだろうか、好きな人の好きな人は、知っているほうが幸せなのだろうか、なんて、わかるはずもないのに考え込んでいたら、全て自分が悪いような罪悪感におそわれて、眠ることに逃げたのだった。寝て起きても、状況は何もかわらないのに、僕にはもうそうすることしかできなかった。

 携帯を開く。前川からだった。件名はなく、本文はたったの一行だけ。

『星が綺麗だよ』

 心臓が跳ね上がるように高く脈打つ。

 床に脱ぎ捨てたダウンジャケットを拾って、そのまま家を飛び出す。肌を刺すような寒さは、体内をめぐるあつい血が跳ね返して、もうまともに感じなかった。

 どこだよ、口は無意識にそう言っていた。でも確信はあった。通りをただひたすら下る。いつもはほとんど人がいないこの通りも、初詣帰りだろうか、まばらに人影がある。

 自動販売機のところは、桜の枝が邪魔して、星がよく見えない。なら、そこじゃない。もっとひらけた場所、公園のようなところ。

 急に走ったから、息がすぐに上がる。それでも、真っ暗な下り坂をころげるように下る足は止まらなかった。目印のように光を放つ自動販売機を過ぎて、二つ先の路地を左、そうしたら、すぐに右。住宅街の真ん中に、遊歩道を大きくしたみたいな、長細い公園がある。入り口から出口まで、八回曲がっているから、八曲り公園。みんなはそう呼ぶ。僕も前川も、今はそう呼ぶ。でも昔は、少なくとも僕らは、正式名称の、星見公園と呼んでいた。縦に長い公園は、木や家に邪魔されることなく、きれいに星が見える。

「いた」

「お、来た来た」

 さっすが、よくわかったね。という前川は、満足そうに笑うと、夜空を見上げて、どこかを指差す。

「見て、星、めっちゃ綺麗でしょ」

「……そうだね」

 乱れた息の合間に、なんとか声を絞り出す。前川は上を向いていて、僕が星を見ていないことに気がついていない。

「さっきね」

 上を向いたまま、前川は口を開く。

「高木に怒られちゃった。本田の家で宿題してたのが、バレたらしくて。あたしは別にかくすつもり、なかったんだけどね。それが悪いことだって思わなかったの。だって、友達じゃん。それはいつになっても変わらないと思ってた」

 うん、と相槌をうつ。

 僕らはみんな、恋人云々のまえに、友達だった。

「高木って、変なヤツでしょ。何考えてるのかよく分からないっていうか、ウソが上手っていうか、つかみどころがないような感じ、するじゃん。

 恋愛だって、他人のには首突っ込むくせに、自分じゃなかなかしないから、あぁこの人はきっと冷やかしてるんだろうな、って思ったよ。馬鹿みたいに告白して、フられて、付き合ってもすぐに別れたり、きっとそういう人たちを、心の底で笑ってるんだろうなって」

 わずかな街灯の光が、彼女を照らす。白い肌が浮き上がるように光る。

「でもね、付き合ってみたらわかったの。あの人はただまっすぐ生きてただけで、むしろ怯えてたんだって。なさけない自分を晒して、誰かに心の底で笑われるのをね。だから他人の失敗から学ぼうとした。より近くで感じるために、首まで突っ込んだ。たしかに、ほめられたやり方じゃないけど、それはボタンを押すだけでできるような、簡単なことじゃないの」

 乱れた息はまだ整わない。いま空をみたら、きっとその中に落ちてしまうから、本当に星が出ているかどうかもわからない。

「ねえ、あんたさ、本当はずっと、誰が好きなの?」

 前川の視線はまだ空にある。

「それは、もちろん」

 心の中では、確かに言った。でもどういうわけか、喉元に突っかかって言葉にはならない。その名前を、ここで言ってしまいたくなかった。


 今はただ、たった一人で星を見上げる彼女の白い首筋を、いつまでも、こうして見つめていたかった。

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星の見えない空の下で 榛原ヒダカ @Haibara_Hidaka

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