終章
エピローグ 祈り
気がつくと、宮子は地面に倒れていた。
太陽の光が木の葉の間をぬって届く。手で目をおおい、少しずつ慣らす。その明るさに、力がわいてくるのを感じる。背中に感じる土は、岩よりもやわらかく、あたたかみと湿り気があった。
現世に帰ってきたのだ。
宮子は泥のようにくたびれた体に力を入れ、上半身を起こした。目を細めて寛斎の姿を探すと、近くに体を横たえていた。
「寛斎さん!」
あわてて立ち上がろうとしたが、右足首の痛みに、再び座り込む。右膝をかばいながら這っていき、腕に触れる。
「ん……」
彼がわずかに声をたてた。
まぶたが動き、目が開く。まぶしそうに目を細めて手をかざし、ゆっくりと宮子の方を見上げた。その顔が、笑っている。
しばらく、無言で見つめ合う。やわらかな笑み、何も言わなくても通じ合っている感じ、頬に当たる風のそよぎ、降り注ぐ木漏れ日。
このすべてを、ずっと覚えておきたい。
寛斎が上体を起こし、
「宮子」
名前を呼ばれて、宮子は背筋を伸ばした。いつになく生真面目な顔で、寛斎がこちらを見ている。
「はい」
次の言葉を待つ。
「まずは、迷惑をかけてすまなかった」
宮子は無言で首を振った。もとより、迷惑だとは思っていない。
「それと」
寛斎が言葉を区切る。言いにくそうに間をあけたあと、彼ははっきりと告げた。
「神前で言ったことは、きちんと守る」
頭の中が、ハレーションを起こしたように真っ白になった。その光の中に、あのときの言葉がよみがえる。
――
――
ためらうことなく叫ぶ、きりりとした横顔が、今も目に焼き付いている。
――では、その娘を
数珠をした左手首に、彼の手が触れる。電流が走ったように、その感触が体の芯まで伝わる。
「とりあえず、これは持っていてくれ。もっといい数珠を用意しておく。……指輪がいいなら、そっちも」
仏式では、結婚の際に、指輪ではなく数珠を交換する。込みあげてくる涙を抑え、震えそうになる声で答えた。
「ありがとう。……これからも、よろしくお願いします」
頭をあげると、目の前に彼の顔がある。視線がからみ合い、心臓の音が聞こえてしまいそうなほど大きな鼓動を打つ。
どちらからともなく、距離が近づく。唇が重なりそうになった瞬間、背後から声がした。
「えー、お楽しみのところ申し訳ないんだけど」
驚きで、本当に飛び上がりそうになる。振り返ると、かろうじて声が聞こえる距離にある石碑の横に、鈴子がにやにやしながら立っている。桃果も一緒だ。
「子どもの教育上よくないんで、続きは二人きりのときにお願いしまーす」
おどけて言われ、宮子は恥ずかしさでどうしていいかわからなくなり、またうつむいた。
「参ったな、恥ずかしいところを見られたよ」
寛斎が立ち上がる。平然と言っているつもりだろうが、声が動揺している。長いつきあいだから、それくらいはわかる。
鈴子たちが近寄ってくる足音がする。
「寛斎兄ちゃんが、本当にお義兄ちゃんになるんだね。私はいつでも大歓迎だよ」
視界に、鈴子の足が見える。前に回り込んできたらしい。
「わかってないだろうから説明しとくと、ここは島根県の出雲町
宮子は顔をあげ、あたりを見回した。ひっそりとした雑木林の中の、少し開けた場所といった感じだ。
茂みの手前に、苔むした大きな石が二つ、意味ありげに立っている。賽銭箱は置いてあるが、特に
「私たちは、気がついたらあの桃の木のとこに倒れてたの」
石の右手に、大きな山桃の木があった。枝葉が風にそよぎ、葉擦れの音をたてる。
あの童子のような
「電波の通じるところまで行って、槇原さんちとお父さんに連絡しておいた。槇原さん、こっちへ迎えにくるって」
鈴子が、斜めがけにしたカバンを軽くたたく。
「とりあえずお金は持ってきてるから、岡山あたりで落ち合うつもり。それでいいかな?」
宮子はうなずいた。
空を見上げる。木々に阻まれて太陽の位置がわからないが、木漏れ日の具合や空気のにおいからすると、正午は過ぎているようだ。一日近く、幼い娘が行方不明だったのだ。桃果の父の心労は、察するに余りある。
父にも、帰ったら謝らなくては。申し訳なさはあったが、宮子には
「ねえ。……稲崎さん、誘拐の参考人にされてるんだよね。桃果ちゃんの捜索願、取り下げてもらえないかな」
このままでは、稲崎は何らかの罪に問われてしまう。せめて、それだけは避けたい。
「え、その人のせいで、こんな大変なことになったんでしょ」
鈴子がかがみ、不思議そうに宮子を見る。
「うん。それでも」
わだかまりはある。自分の罪悪感を払拭したいだけなのかもしれない。それでも、稲崎をおとしめたくないというのが、正直なところだった。彼はただ、伴侶のことを愛しすぎてしまったのだ。その気持ちは、痛いほどよくわかる。
「稲崎のお兄ちゃんは、やさしかったよ。ごはん食べさせてくれたし、道に迷ってるところを助けてくれたし」
桃果が、鈴子のそばに来て言う。髪の毛がきれいな編み込みになっている。泰代がどんな気持ちで娘の髪を編んだのかを思うと、胸が締め付けられる。
「桃果ちゃん、あんまり詳しく覚えてないみたい。……じゃあ、その方向で口裏を合わせるから、相談しよっか」
常識で考えれば、奈良県から島根県まで、交通機関も使わずに移動できるはずがないのだ。事件性はなかったとして、稲崎の名を守りたい。
宮子は寛斎と顔を見合わせ、うなずいた。鈴子が立ち上がる。
「オッケー。とりあえず、何か食べに行こうよ。
「ハンバーグ! あ、お寿司でもいいよ」
「お寿司は、回ってるやつで勘弁してよー」
鈴子が笑いながら、桃果の手を引いて歩きだす。
宮子は、右肩を寛斎に支えられながら、そのあとに続いた。
あのとき、稲崎と奈美に「おめでとう」と言えなかったことに気づく。
――末永く、幸せでありますように。
宮子と寛斎の間に、一陣の風が吹く。同時に振り向くと、二つの大石が、寄り添うようにこちらを見ていた。
了
黄泉比良坂(よもつひらさか) 芦原瑞祥 @zuishou
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