第51話 誓い

 宮子は振り向こうとしたが、寛斎がバランスを崩してしまうので、やめておいた。

 彼の肩につかまったまま、前方を見る。うっすらと、白いころもを着た男性が見える。はかまの裾を足結あゆいで縛っているので、古代の衣裳のようだ。領布ひれを肩からかけた女性を背負い、若々しい動きで飛ぶように走っている。


 ――大国主命おおくにぬしのみこと


 古事記によると、大穴牟遅神おおなむじのかみは、須佐之男命すさのをのみことの娘・須勢理毘売すせりひめを背負い、黄泉比良坂よもつひらさかまで逃げた。そして、現世に戻り出雲国へたどりつき、須勢理毘売すせりひめを正妻にして、国を治め、大国主命おおくにぬしのみこととなったのだ。


 大国主命おおくにぬしのみことはその後、天照大神あまてらすおおみかみの系譜に国を譲り渡し、顕世うつしよから隠退され、幽世かくりよの大神となられる。宮子がお仕えしている、三諸教本院の御祭神だ。


 ――幽世かくりよの大神、守り給え導き給え。


 日ごろ祈りを捧げている神に、心の中で祈念する。


葦原色許男あしはらのしこをいましは」


 須佐之男命すさのをのみことの声がする。


「その背負うている娘を、大事にするか」

 怒るというより、どこか寂しそうな声だった。


 前を行く角髪みずら結いの男神が、立ち止まった。振り返ろうとするその顔が見えかける。が、寛斎がわずかに進んでしまったため、尊顔を拝することはできなかった。


 寛斎も立ち止まる。頭上に、神々しい気配を感じた。須勢理毘売すせりひめを背負った大穴牟遅神おおなむじのかみが、真上にいらっしゃる。宮子を背負った寛斎と波長が重なって溶け合い、一体になっている。


 振り返った寛斎は、坂の下へ向かって大声で言った。


しか!」


 頭の芯が甘くしびれる。すぐそばにいる寛斎の鋭い目や通った鼻筋、浅黒い肌が、見えないはずなのに見てとれる。神々しく、淡い光を放っている。


 彼はきびすを返し、再び走り始めた。その肩に回した手に力を入れ、体をぴたりとつけてしがみつく。


「では、その娘を嫡妻むかいめとするがいい。こやつめ!」

 涙混じりの叫び声が、後ろからした。


 地面の鳴動がやみ、静かになる。須佐之男命すさのをのみことは、大穴牟遅神おおなむじのかみを娘の婿として認めたのだ。


 前方に、光が見える。先ほどまではびくともしなかった巨岩に、隙間ができている。淡い光が漏れ入る。


 寛斎が、宮子の足を持つ手に力を入れる。スピードをあげ、光に向かって突き走る。どうしても動かなかったはずの千引石ちびきのいわが、ちょうど人ひとりが通れる幅に開いている。


 大国主命おおくにぬしのみことが開けてくださったのか、娘夫婦を認めた須佐之男命すさのをのみことが開けておかれたのか。


 寛斎に背負われて、宮子は千引石ちびきのいわの境界を越えた。


 まばゆい光が、洪水のように二人に押し寄せる。体の中まで照らされるような感覚につつまれ、宮子は意識を失った。

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