第50話 須佐之男命

 寛斎が宮子の手を取り、引っ張る。わけがわからないまま、宮子は走り始めた。ライトが揺れてうまく照らせず、足元が見えない。


「あっ」

 大きめの石を踏みつけてしまい、宮子は足元をすくわれて転んだ。ストラップを手首にかけていなかったので、ライトがどこかへ飛んでいった。塗りつぶされたような闇が訪れる。


 とっさに寛斎の手は離したが、地面に手をついてかばうことができず、膝を強く打ち付けてしまった。息が止まるほどの痛みに、宮子はうずくまって耐えた。

「大丈夫か」

 寛斎が、駆け寄ってかがみこむ。


 返事をすることができず、宮子は歯を食いしばり、痛みが過ぎるのを待った。

 膝を押さえる手の上に、寛斎の手が重ねられる。こころなしか、苦痛がやわらぐ。


 我慢して、宮子は起きあがろうとした。

「痛っ」

 今度は右足首に激痛が走った。足にうまく力が入らない。何度か足を浮かしてやり直したが、ちゃんと体重をかけることができない。筋を痛めてしまったようだ。これでは走れない。


 背後でまた、地響きがした。


「こやつめが!」


 怒りを含んだ男の声が聞こえる。人間にしては、声量が大きすぎる。そこに、足音が重なる。鳴動する具合からみて、かなり巨大な体躯のはずだ。


「宮子、俺におぶされ」

 寛斎が、背中を差し出す。

「でも……」

「いいから早く!」


 なかば担がれるようにして、宮子は寛斎の背中に体を預けた。

 彼は立ち上がり、一度上に揺すりあげて位置を正し、宮子の両足をしっかりと持った。最初の一歩を蹴りあげ、勢いよく走り始める。真っ暗な中を、ちゃんと見えているように、迷いなく、まっすぐに。


 宮子は彼の肩から手を回し、しがみついた。走るたびに、筋肉の動きが伝わってくる。耳のそばで、荒い息づかいがする。


「待てと言っておろうが。この葦原色許男あしはらのしこをが!」

 背後でまた声がした。


 葦原色許男あしはらのしこを。地上界から来た力持ちの男、という意味だ。またの名を、大穴牟遅神おおなむじのかみ


 この神は、兄神たちの迫害を避けるため、須佐之男命すさのをのみことが支配する根の国、つまりあの世を訪れる。須勢理毘売すせりひめと互いに一目惚れした彼は、その父親である須佐之男命すさのをのみことから、さまざまな試練を与えられる。


 すべてをやり遂げた大穴牟遅神おおなむじのかみに、須佐之男命すさのをのみことは自分の頭のシラミを取るよう命じる。後ろに回って髪をかきわけると、その頭にはムカデが大量にいた。彼は須勢理毘売すせりひめから教わったとおり、むくの実を噛み、赤土を含んで吐き出した。それを見た須佐之男命すさのをのみことは、ムカデを噛みくだいてくれている、かわいい奴だ、と信頼し、安心して眠ってしまう。


 大穴牟遅神おおなむじのかみは、須佐之男命すさのをのみことの髪の毛を室屋むろやの柱に結びつけ、戸を五百引石いおびきのいわでふさぎ、須勢理毘売すせりひめを背負って逃げた。


 目が覚めた須佐之男命すさのをのみことは、髪が結びつけられた室屋むろやを引き倒し、髪をほどいて大穴牟遅神おおなむじのかみたちを追う。


 ということは、先ほどの何かが引き倒されるような音は、室屋むろやが壊れた際のものか。


――じゃあ、後ろにいるのは、須佐之男命すさのをのみこと

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