第49話 地の底からの声

「どうした」


 寛斎が腰をあげ、宮子のとなりに立つ。妄念にとらわれていたことが、急に恥ずかしくなる。けれども、怖いことに変わりはない。

 心配させないよう、何か言わなければ、と思うのに、歯の付け根が噛みあわず、まともにしゃべることができない。


 寛斎の腕が、宮子の肩を抱く。

「いいんだ。俺だって、怖い。闇を恐れるのも、死を怖がるのも、生きぬくために備わった本能なんだ」

 その力強さとぬくもりに、涙が出そうになる。


 泣いてはいけない。彼に負担をかけてしまうし、体力を消耗する。手の中のライトを握りしめて、宮子は込みあげてくる涙を必死で抑えた。


 寛斎が腕を離し、手で印契いんげいを結ぶ。

「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」


 低い声で唱える。これは、光明真言こうみょうしんごんだ。唱えることで、大日如来だいにちにょらいの光明が闇を除き、慈悲を垂れてくださる、という。

 真言の独特のリズムは、呼吸を整える効果もあると聞く。唱えることで、心を落ち着けられるのだ。


「お前も、何か唱えるといい。大祓詞おおはらえのことばでも何でも、いつも唱えているものを」


 そう言われて宮子は、ただ一心に神に祈り、自らをゆだねる姿勢を忘れていたことに気づいた。


幽世かくりよの大神、あわれれみ給い恵み給え」


 いつも唱えている幽冥神語ゆうめいしんごが、口からこぼれ出た。これをじゅすれば、すべての災厄からお守りいただける、と信者さんに常日ごろ教えている。

 幽世かくりよの大神は、死後の世界を支配なさる、三諸教本院の御祭神だ。


幸魂奇魂さきみたまくしみたま、守り給えさきわえ給え」


 ただ無心で、宮子は幽冥神語ゆうめいしんごを唱えた。だんだんと、気持ちが落ち着いてくる。三度誦し終えると、目を閉じて深呼吸をした。余計な妄念が祓われて、清々しさすら感じる。


 ぐらり。


 足元が揺れた。


 宮子は目を開けて、足を踏ん張った。寛斎の方を見る。彼も目を見開き、神経を研ぎ澄ませて次の揺れに備えている。


 遠くから、何かが引き倒されるような音が聞こえた。建物が壊れ、地面にたたきつけられた感じだ。


「何、今の」

「わからない。でも、ここにいても埒があかない。行ってみよう」


 寛斎が、坂の下に広がる闇を見やる。宮子はうなずき、行く手をライトで照らした。足音をたてないよう、そっと坂をおりる。


 重いものが引きずられるような音がする。近づくにつれ、人のうめき声も混じり始めた。人間なのか、黄泉国よみのくにの者なのかはわからないが、とりあえず確かめたい。

 二人は息を殺して、声のする方へ向かった。


 何かをなぎ倒したらしく、地響きがした。その振動に重なって、低い男性の声がとどろく。


「許さん、許さんぞ!」


 雷鳴のように、大きく恐ろしげな声だ。


 宮子は足を止め、寛斎の袖を引っ張った。彼も立ち止まり、音のする方へ耳を澄ませる。


「待ちおれ、こやつめ!」


 まだ遠いと思っていた声が、すぐ近くまで迫っていた。続いて、何かで岩壁を殴るような音がし、衝撃で宮子たちのいるところにまで小石が落ちてきた。


「逃げよう」

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