トワオイ

七町藍路

トワオイ

 わたしは、去りし永遠を追う。

 

 あなたの額から生える二本の角は、鈍い灰色。とても丈夫で、角を掴んだわたしの体は軽々と宙に浮いた。

 あなたはわたしを肩に乗せて歩き回るのが好きだった。わたしはあなたの肩に乗って世界を見回すのが好きだった。草木が茂り、蔦に覆われて、森の廃墟は透き通った静けさの中にあった。あなたはそれを遺跡と呼んでいた。崩れ落ちた建物は、かつての栄華の名残。木漏れ日は穏やかに、風は緩やかに、深き緑の空間が広がっていた。

 あなたの体はとても大きくて、わたしが背伸びをしても、屈んだあなたの頬に触れることさえ出来なかった。わたしはいつも倒れた柱の上に乗り、あなたの長い銀の髪を梳いた。わたしを肩に乗せるとき、あなたは大きな手でわたしを包んだ。壊れないようにと慎重になるあなたの真剣な顔が、わたしはとてもいじらしかった。

 森に飲み込まれた遺跡の、辛うじて形を保つ小部屋がわたしの部屋だった。小さな窓からは細い水の流れが見えた。川は静かに流れ、水辺には小さな生き物たちが集っていた。湿った苔は柔らかく、わたしは素足のままで駆けまわった。水は森の奥から染み出していた。雨が長い年月をかけて清らかな水の流れに姿を変えていた。鳥が飛んでくることもあった。頭上に広がる木々の葉の隙間を縫うようにして、鳥たちが羽ばたいた。色とりどりの木の実をついばんで、また飛び去っていく姿を、あなたとわたしは楽しみにしていた。

 わたしは自分の部屋に宝物を仕舞い込んだ。それは綺麗な色の石だったり、蟲の抜け殻だったり、あなたの腕から落ちた鱗だったり、わたしの宝物たちは瓦礫の下に出来た空洞の中で美しい輝きを放っていた。柔らかな日差しにかざせば、眩い光を反射して、わたしの部屋は淡い虹色で満たされた。

 見上げる空は狭い。生い茂る草木が空を覆う。けれども隙間から差し込む光は、太陽も月も星も、何もかもが優しく、あなたとわたしに降り注いでいた。夜になれば木の根元が仄かに明るくなった。暗くなると光る植物が何種類も生えていた。光を纏う蟲たちの姿もあった。心を攫う闇はどこにもなく、あなたの柔らかな翼に抱かれてわたしは眠った。寒くはないかとあなたは尋ねた。何度も尋ねた。そのたびにわたしは寒いと答えた。そうすればあなたがわたしを抱き締めてくれることを知っていたから。あなたもきっと、わたしの我儘を分かっていた。


 時折、人が訪ねてきた。森の外にある村に住む人々や、長い旅を続ける人々が訪れることもあった。わたしは薬草を摘んで、あなたは高い枝に結んだ果実を採って、客人が持ち寄る品々と交換した。その多くは食糧だったけれど、あなたは時々珍しい宝石や綺麗な衣装を手に入れた。深い青や明るい赤の宝石をわたしに宛がって顔を綻ばせるあなたは、いつも楽しそうだった。わたしはちっとも着飾らなくたってよかったのに。あなたが大きな手で不器用に繕ってくれた古布一枚があれば、他にはどんなに高価な宝石も霞んで見えた。

 遠いところから来た旅人たちの話は、いつも色鮮やかだったけれど、わたしは少しも羨ましくはなかった。わたしはこの緑深き森から出たことがなかった。森の果てから村を見たことはあった。いや、本当のところは、わたしは森の外の生まれだった。けれども、森の外はわたしの住むところではなかった。向こうは別の世界だった。あなたが生きている、あなたと生きている、そこがわたしの生きる場所だったから。あなたのいないどこかで生きてゆくことなど、考えもしなかった。

 黄緑は薬草の色。薄い緑は芽吹く双葉の色。青白い緑は夜を漂う胞子の光。濃い緑は強い日差しを遮る大きな葉。深い緑は森の色。緑は、世界の色だった。あなたとわたしの世界の色。そこにふたりだけだった。他には何も必要なかった。


 森で一番高い木の上で朝焼けを見たことがある。わたしはあなたの膝に座り、緩い弧を描く地平線を昇る太陽を、眩しさに目を細めながら見ていた。一日の始まりが、広い大地を、空を、ゆっくりと橙色に染めて、やがて白々とした光の中、空は薄い青に変わった。鳥たちが群れを成して飛んでいった。澄んだ朝風は穏やかに頬を撫で、わたしの亜麻色の髪をなびかせ、振り返れば、あなたはくすぐったそうに笑っていた。あなたの銀色の髪は朝日に輝いて光の筋になった。

 彼方に見える山々のまだ向こうに、大きな街があるのだとあなたは言った。森の傍を流れる川を辿って行けば海があるのだとあなたは言った。海は水を湛えた途方もなく広い水溜りだとあなたは教えてくれた。海を行けば氷の国があり、そこで暮らす火を守る人々のことを、旅人から聞いたことがあった。草原の先にある谷を抜けると砂漠が広がっているのだとあなたは言った。いつか訪れた旅人がくれた砂笛は、その砂漠で使われているものだった。あなたは月が沈んだ方角を指で示して、わたしの生まれた村がある方角だと言った。わたしはあなたの膝に背を預けて曖昧に頷いた。行ってみたいと思ったらいつでも連れて行く、あなたはそう言ってわたしの頭を撫でた。その大きな手は愛おしく、離れがたく、わたしは、やはりただ曖昧に頷いただけだった。

 わたしはここにいるべきではない、あなたはそう思っていたのかもしれない。本当は、この静かな平穏に包まれた生活が、わたしにとっての最善ではないと苛まれていたのかもしれない。あなたとわたしは、明らかに異なる命だった。それは誰に言われずとも、幼いわたしでも理解していた。同じようには生きていけないのだと分かっていた。


 けれども、あなたが望む永遠と、わたしの望む永遠が、同じであることを祈っていた。

 どうか同じであれと、願っていた。


 ある日の昼下がり、その旅人は息を切らせてやって来た。何度も森を訪れていた旅人だった。せせらぎの水を飲む馬も随分と疲れた様子だった。あなたとわたしは森の果実を集めていた。旅人は森の奥にあなたの姿を見つけると、転がるように走り寄った。あなたは驚いた表情をした。わたしは木漏れ日が揺らぐのを感じた。

 難しい話は、分からなかった。外の世界のことをわたしはこれっぽっちも知らずに生きてきた。知らなくても十分に生きてゆけた。けれど、遠い、遠い外の世界の話が、わたしの狭い世界にとってどうしようもなく重要な意味を持つことだけは、その緊迫感は幼いわたしでも感じ取ることが出来た。

 あなたと旅人は、終わりの話をしていたのだ。この遺跡の終わり、この森の終わり、あなたとわたしの、世界の、最期を。

 わたしは水の流れに花を浮かべた。花は甘い香りを放ちながら流されて、やがて見えなくなった。あなたはわたしを膝に乗せて、あなたと一緒にこの森に残るか、それとも旅人と一緒に森を去るか、どちらかを選ぶように言った。酷い選択肢だった。わたしはあなたの瞳をまっすぐに見詰めて、残ると答えた。あなたと離れ離れになったりはしない、わたしは、そう強く言った。あなたは肩をすくめて、困ったように眉を下げ、けれどもわたしを心配させまいと無理に笑ってみせた。

 旅人はわたしの首に、灰色が混ざった紫色の首飾りを掛けた。それは、太陽が沈んだ黄昏の空の色に似ていた。この先、と旅人はわたしの小さな手を温かい手で包み込んで言った。困った時には、その首飾りを頼りにするように。外の世界を知らないわたしには、その価値が分からなかった。刻まれている文字も読めなかった。けれどただあなたは、すまないと呟いた。

 それから、おそらくこれが永遠の別れになるだろうと、旅人は名残惜しみながら、あなたとわたしと抱擁を交わして去って行った。その後ろ姿はとても寂しそうだった。わたしはあなたの手を握りしめて不安に耐えた。

 あなたは、そんなにも大きな体をしていたのに、その心はとても弱く、いつもわたしを失う恐怖に怯えていた。どこへ行くこともないと、わたしは心に強く誓っていたのだから、あなたとわたしが離れ離れになることなど、到底考えられないことだった。そんなことは、あるはずもなかった。

 あるはずもなかったのに。

 旅人が去ったその日の夜、あなたとわたしは大樹の上から、遠く山脈を見ていた。山の向こうが煌々と赤く染まっていた。夜空を焦がす炎の熱が、離れたこの森にもじわじわと滲むように迫っていた。それが何の炎なのか、その時のわたしには分からなかった。けれどもそれがあなたとわたしにとって危険なものであることは感じていた。蟲たちが光を放って森の夜を仄かに照らしていた。わたしはいつまでもあなたの腕の中で、ただひたすら、この世の終わりがあなたとわたしを避けて通り過ぎることを祈っていた。平穏を待ちわびていた。

 東の空が白み、夜明けがやって来た。あなたとわたしは森で果実を集めた。みずみずしい果実を朝食に、あなたとわたしは朝の静けさの中でゆっくりと過ごした。わたしはあなたの髪を櫛で梳いた。銀色の細い光の筋がわたしの鼻をくすぐった。あなたは瑠璃色の服をわたしに着せた。それはあなたが一番好きな色で、わたしの瞳と同じ色だった。わたしは花を摘んで花冠をふたつ作り、ひとつを自分の頭に、もうひとつをあなたの頭に乗せた。

 ふたりきりの戴冠式。あなたが王様なら、わたしは何だっただろう。あなたにとっての何になれただろうか。


 森の中に、遺跡があった。そこに、あなたとわたし、ふたりだけだった。そこはあなたとわたしの小さな国で、ほかには何も必要なかった。すべてがそこにあって、欠けているものは何もなかった。あなたと一緒、それだけでよかった。


 けたたましい叫び声を上げて、鳥たちが飛び立った。蟲や獣たちは陰に隠れた。森が息を潜めていた。風が身を切るように鋭く、肌がピリピリと痛んだ。圧倒的な存在が森の中に入ってきた。異質で、異常。恐怖がはっきりとした形を持って、森の中を進んでいた。息が苦しい。まるで強い力で押さえつけられているように、わたしはあなたの足にしがみ付いたまま動けずにいた。あなたはわたしの肩を抱いた。決して離れたりなどしない。わたしはあなたの優しさの中にいた。

 風が凪いだ。

 わたしはしがみ付く腕に力を込めた。そうでもしなければ、立っていることすら出来なかっただろう。それは静かに、けれど恐ろしいほどの威圧を放ちながら姿を現した。体が芯から震えた。

 それが勇者という存在であることをわたしは旅人たちから聞いていた。多くの兵を率いて各地の魔物を討伐して回る者だということを知っていた。そしてそれが今、目の前にいる。森の奥に残された遺跡にわざわざやって来る者など、あなたに用のある者しかいない。あなたと交易をする者、あなたの恩恵に与る者。

 そして、あなたを射殺す者。

 振り上げられた勇者の手に宿る光が、握られた輝く剣が、あなたを殺すものだとわたしは一瞬にして悟った。あなたとわたしを引き裂く、忌々しき魔法だった。

 光が放たれるよりもはやく、わたしはあなたの前に飛び出した。

 世界が光に包まれた。その光は、酷く冷たい光だった。痛みが遅れてやってきた。全身を鈍い痛みが駆けた。何も見えなかった。やがて辺りが熱を帯び始めたのを感じた。わたしはどうなったのか、地面に倒れているのか、あなたに抱かれているのか、それともまだ立っているのか。それさえも分からずに、わたしは光の中にいた。

 遠く、声が聞こえた。それは確かにわたしを呼ぶ、あなたの声だった。


 わたしに名前はなかった。

 あなたの名前も知らなかった。


 気が付くと首飾りをくれた旅人が隣にいた。わたしの体は全身に包帯が巻かれ、うまく動かすことが出来なかった。頭上には星空が広がっていた。森の狭い空でも、遺跡の朽ちた天井でもなかった。嘘のように輝く満天の星空が空を彩っていた。柔らかな草の上にわたしは寝かされていた。体が鉛のように重く、わたしは顔だけを旅人に向けた。旅人はわたしの視線に気が付くと安堵の表情を浮かべた。けれど、どこか寂しそうな瞳をしていた。近くで馬が鼻を鳴らした。焚火の弾ける音がした。知らない風の匂いがした。あなたの気配はどこにもなかった。

 君は生き残った。旅人がそう言った。

 森は焼け落ちた。彼女の無事は、分からない。だがおそらくは。そう言って目を逸らした旅人に、残酷な現実がわたしの目覚めを待っていたと知った。あの首飾りに刻まれた文字はわたしの身元を示す意味があったらしい。身元と言われたところで、わたしの育ての親はあなたであったのだから、本当は必要のないはずのものだった。あなたと旅人はこの日に備えて、何かあった時、旅人がわたしを森から連れ出すようにと手引きしていたのだ。わたしの運命は、最初からずっと決められていた。最後まで一緒にはいられない。それがわたしに与えられていた世界の終わりだった。

 旅人の手がわたしの頬にそっと触れた。彼女の元に戻りたいと言うのなら、引き留めはしない。その手はあなたによく似た優しい手だった。けれど、あなたの手ではなかった。

 焚火に照らされた表情が曇っていた。旅人は続けた。けれどもまずは傷を癒し、あの森に帰るだけの力を身につけることだ。その言葉に、わたしは泣いた。あなたと過ごしたあの森は、とても遠く、険しい場所になってしまった。わたしの知っている森はもうどこにもなく、勇者が放った光が傷痕となって、あなたとわたしを隔ててしまった。何もかもが別の世界の物語のようだった。

 わたしがいなければ、あなたはその大きな翼を広げ、どこか遠くの空へと飛んでゆけたのだろうか。

 わたしが強ければ、共に逃れることも出来たのだろうか。

 声も出さずにわたしは泣いた。呼ぶべきあなたの名前も知らなかった。永遠が終わる時にあなたの隣にいられない、自分の不甲斐無さを呪い、無力な自分を悔いた。何よりも、あなたをひとりにしたことが、どうしようもなく悲しくて仕方がなかった。ただひたすらに、あなたのことが恋しかった。



 草原の道なき道を馬車が行く。晴れた空は澄んだ青、遠く山脈の端に白い雲が見える。太陽は天高く、風は秋の匂いを連れて吹き抜けてゆく。

 御者が馬車を止めた。わたしは荷台から降りて背伸びをした。御者に相場の倍以上の金額を支払った。御者は何も言わずに受け取ると来た道を翻していった。わたしは去ってゆく馬車に背を向けて歩き始めた。背負った剣は形見の品だ。わたしの命を救い、傷を癒し、生き延びる術を教えてくれたあの旅人の、唯一、形を保って残っているものだ。長い歳月をかけて長い旅路の中で、わたしは戦いの技術を習得した。そしてあの勇者を討った。

 最期の時の、あの驚いた表情をわたしは生涯、忘れることなどないだろう。

 なぜ、と勇者はわたしに問うた。わたしは勇者の望む答えなど持っていなかった。勇者が世界にもたらした栄光と平穏の陰で、わたしはかけがえのないものを失った。同じ悲しみを与えたかったわけではない。ただ、守られるだけだった幼い自分をどうにかして、救いたかっただけなのだ。

 あの日、光に包まれ燃え尽きた森には、何度も移ろう季節の中で再び木々が芽吹き、以前と同じように鬱蒼と生い茂る森が再生されつつあった。けれど、昔とは違う森だ。森の外にあった村はすでに廃れ、ゆっくりと森に飲み込まれようとしていた。訪れる者のいない森は静まり返り、久方の訪問者を歓迎することも拒むこともせず、そこにあった。

 わたしは森の縁に立ち、天を仰いだ。高く、鳥が輪を描いて飛んでいる。わたしは戻ってきた。再びこの森へ戻ってきた。

 森は、深い緑。世界の色。

 深呼吸をして胸いっぱいに森の風を吸い込むと、微かに冬の匂いがした。この辺りの冬は寒さも厳しく雪深かったが、勇者が放った熱が、今でもこの森に雪が降り積もることを許さないのだという。わたしは森に足を踏み入れた。

 ――ただいま。

 かつてあなたが愛おしげに撫でた亜麻色の髪は長く軽やかで、わたしの自慢だった。けれど、あの光を浴びて色を失い、白へと変わってしまった。わたしはそれを短く切った。あなたが愛でたわたしの両方の瞳は変わらず瑠璃色に輝いている。わたしの背は伸びた。もう踏台がなくてもあなたの髪を梳けるだろう。か細かった腕も脚も、今ではあなたの役に立てるだろう。

 あなたと生きた姿とは少し異なる、けれども、心はあの時のまま、この森に置き去りにした。わたしはずっと過ぎ去りし永遠を追いかけていた。そしてようやく、この森に帰ることが出来る。あなたと同じ永遠を終えるために。

 外の世界を捨てて。

 この名前さえも捨てて。


 わたしの話は、これで、終わり。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

トワオイ 七町藍路 @nanamachi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ