第2話
風が止まっている。
ジェーンはふと思った。妙だ。こんなことを感じるなんて。そっと、ジェーンは愛馬の首を撫でる。大丈夫だと、自分にも言い聞かせるように。
今日の狩りは、普通ではなかった。この片田舎に、名高き大貴族がわざわざ二組も来ている。取り巻きたちを大量につれて。自前の領地があるのだから、そちらへ行けばいいものを、とジェーンは毒づく。そのわざわざのせいでおもてなしの狩猟パーティーを開き、自分のとっておきの場所が荒らされるのは、不愉快以外の何ものでもなかった。そんな雑念だらけで、騎士の誇り高き遊戯を形ばかり主催するのは口惜しい。
「違いを見せてやる」
いくぞ、とジェーンは愛馬に声をかけた。と、視界の端に乗り手のない馬が目に入る。
(何かあったのか……?)
眉をひそめて、ジェーンは馬首を左に向けた。慎重に馬を進める。妙だ。これだけ雑念と邪念の多い狩りであるのに、森が静かだなんて。あと五メートルというところまで来ると、ジェーンはそうっと馬を降りた。腰を沈め、ナイフに手をかけ、じりじりと近づく。
「――誰かいるのか?」
不意に頭上から声が降ってきた。ジェーンは上を見上げる。ぱらぱらと土が顔にかかった。
「何をしている」
今度はジェーンが声をかけた。声の先には、体躯のよい青年がしっかりとした木の枝に座り、幹に体を預けてジェーンを見下ろしていた。
「何者か」
「怪しい人間じゃない」
ジェーンは強く睨む。
「そんな風に見えるか。主人の狩りの最中に供の者がそう休んでいるわけがない」
青年は笑った。手を、制するように上げる。
「ナイフから手を離した方がいい、ジェーン。君のためにならない」
「なるかどうかは私の決めることだ。ここはオズウォルト家所有の森、密猟者なら排除する。罪は重いぞ」
おいおい、と青年は苦笑いした。
「年頃の令嬢が、同じ年頃の男の顔も知らないのか? レディたちの話題は、将来の婿選びに集中しているものだと思っていたが……君も都へ来ているだろう」
ジェーンは失礼だろうなと思いつつ、じろじろと相手の顔を見た。青年にああは言われたものの、主立った貴族の息子にはいやというほど面識がある。よほど記憶に残らない場合を除けば、覚えていなければ社交界で立ちゆかない。でなければ取り巻きか。大きいが貧相につぶれた帽子を深く被っている。彫りの深い顔立ちのようだが、影でよく見えない。しかし、上品な顔立ちのようだと、ジェーンはふんだ。家柄が良ければ“レディ”たちが放っておかないはず。そして適度に鍛えられたように見える体躯。軽装だが、無駄がなくそれほど身分の低い者には見えない。見えないが。
「すまない、記憶にない」
青年は声を上げて笑った。ジェーンは不服そうに眉をひそめた。
「悪い悪い。でも、ホントに怪しい人間じゃない。その証拠に、ほらもう狩りは終わりだ、一緒に戻ろう。皆が証明してくれるだろう」
青年はひらりと枝から飛び降りると、服についた葉を払う。ジェーンは背中を見せないように素早く馬に乗ると、青年もそれに続いて自分の馬に乗った。
「接待の狩りなど、つまらないか」
馬をゆっくりと進めながら青年は言う。
「は?」
ジェーンは訝しんだ。
「大胆だな。どこで六候の取り巻きが聞いているかわからないのに」
「なんだ、否定しないんだな」
青年は唇の端を上げた。
「評判通りだ」
「評判?」
「トーマスが荒れて飲んだくれていたぞ。令嬢たちを誘って鷹狩りに行ったら、捕れた獲物の殆どは君の手柄で、おいしいところを全部持って行かれたと」
「ふん、へっぴり腰で騎士面などしているからだ」
ジェーンは鼻を鳴らした。青年は肩をすくめる。
「おかげで俺の秘蔵のワインを開ける羽目になった」
「そういえば、名はなんというのだ。すまないが、どうしても思い出せない」
「今度はちゃんと覚えてくれよ。俺はエリックだ」
ジェーンは少し考え込むような顔をして、首をひねった。
「エリック――王と同じ名だな。しかし、やはり覚えがない」
エリックは目を細めて笑んだ。と、進行方向がざわつきだした。
「合流しよう。これで君の疑いも晴れるだろう」
ジェーンは頷いた。茂みを抜けると、狩りには不釣り合いなほど着飾った青年が馬を下り、狼狽した表情で部下をどやしている。
「何かあったのか? トーマス」
ジェーンの声にトーマスははっと振り向く。まずいという表情から、一気に安堵の表情に変わった。
「へ、陛下! 探したんですよ!」
トーマスはジェーンの隣に馬をつけたエリックに駆け寄る。
「ヘーカ? 聞いたことのない名だな」
ジェーンは考え込む。
「冗談はやめてくれジェーン、国王陛下だ」
慌てるトーマスに、ジェーンはあきれ顔で言った。
「国王がここにいるわけないだろう。そんな先触れは来ていないし、供の者もいない」
「頼まれてこっそりお連れしたんだ! 顔を見ればわかるだろう!」
ジェーンは再度、エリックの顔を見る。言われてみれば、見かけたことがあるような顔だ、が。
「知らん。王冠を被っているだけの傀儡の王など、顔がないも同然だ」
トーマスは頭を抱えた。
「君、家が潰れるぞ」
しかし、エリックは反して満足げに笑んだ。
「いや、トーマス。ワイン代以上の余興だった。俺の側近にも、これくらい言ってくれる者がいればいいんだがな」
「心にもないことを」
追い打ちをかけるように小さく放ったジェーンの言葉に、エリックは眉を上げた。
「なるほど。レイチェル嬢の親友とはいえ、田舎貴族で話題に上るからどんな名馬かと思ったら、これは恐ろしいじゃじゃ馬だな」
言って、帽子のつばを下ろした。
「今度は王冠をつけて会おう、ジェーン」
トーマスの従者たちがエリックの周りを囲む。ジェーンは声を上げた。
「恐れながら陛下に申し上げます。レイチェルによからぬことをなさらぬよう。もしそのようなことがあれば、王であろうと、その馬の尻、蹴り上げますよ」
不穏当な台詞にエリックは下げた目元のつばを上げ、にやりと笑った。
「覚えておこう」
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