第18話
強く吹き付ける風が、ぬるい。ジェーンは大きく息を吸い込んだ。春に、着実に近づいている。細剣を幾度となく振るうと、じんわりと汗が滲んできた。
「お、やってるやってる」
背後からかかった声に、ジェーンは振り向いた。
「クロムか」
「久しぶり」
ジェーンは愛好を崩す。友人の来訪は、滅多にない。クロムは、辺りをうかがうように、そっと近づいた。
「部屋の方へ行って、変な噂たてられちゃ悪いからな」
そう言って頭を掻く仕草に、どことなく懐かしさを感じる。ジェーンは、表情をごまかすように額の汗をぬぐった。
「今日は、挨拶に来たんだ」
「挨拶?」
「そう。春が来たら、海に出るからさ」
ジェーンは表情を曇らせた。
「レイチェルはどうするつもりだ」
「レイチェルは、屋敷を借りてそこに移ることになった。陛下が手を回してくださってな」
「陛下が?」
ジェーンは目を丸くした。相談するにはしたが、それ以来梨のつぶてだった。そんなことは一言も聞いていない。
「ああ。今日聞いた。ジェーンが、何度も部屋の前で足を止めてるって、気にかけてらっしゃったぞ」
ジェーンは思わず顔を覆った。相談ごとはそれだけではないのだが、どうなったのか、相当悩んでいたのは事実だ。
「レイチェルに、怒られた。ジェーンはまっすぐな人だから、権力を乱用させるようなことは頼まないでほしいって」
すまなかったなと謝るクロムの言葉に、ジェーンは胸をつかれる。
「――レイチェルは、大事ないか」
「ああ。落ち着いてる。お前に、どうやって謝ったら許してもらえるか、そればっかり聞かれるよ。お互い、周りが落ち着いたら会ってやってくれ。レイチェルもそれを望んでる」
そうか、とジェーンはやっとそれだけ答えた。生ぬるい風が、目にしみるようだ。お互い、元通りには行くまい。それでも、また言葉を交わすことができるのならば、それだけでも希望になる。
「俺はな」
クロムは逡巡しつつ、言葉を続ける。
「レイチェルが本当に欲しているのは、俺じゃなくて、ジェーンなんじゃないかと思うんだ。何となく」
ジェーンは首を傾げる。
「どうして」
「お前とレイチェルは似てるよ。本当に欲しいのは、付加価値じゃなく、自分自身を一心に受け入れてくれる人。だから惹かれあってたんだ。お前もレイチェルも、お互いの純真さを守ろうとしてる。俺にはそれがない」
騎士になってくれるかと、そう言ったレイチェル。
いつか道を違えてしまうことが予測できたから。
「まったく、めんどくさいな。時期が来たら、引きずってでも会わせるからな。覚悟しとけよ」
ジェーンは、気恥ずかしそうに小さく頷いた。
「それで、お前の方は大丈夫か?」
クロムのごつごつした手が、頬に触れる。
「寝不足みたいな顔してるぞ」
「だ、大丈夫だ!」
ジェーンは慌てて、手を払いのけた。思わず、顔が赤らむ。
「ならいいんだが……あんまりよくない噂も聞くし、無理すんなよ」
「噂?」
いい、いい、気にすんなとクロムは手を振った。
「今度の航海が終わったら、俺の船団は正式にセントオールの海軍になる。もし、お前が必要とするなら、俺はいつでもお前に力を貸す。お前は俺の大事な友人の一人だからな。だから、遠慮しないで頼ってこいよ。お前は、一人じゃない」
ジェーンは、頷くこともできずに、じっとクロムを見つめた。目眩がしそうだ。手にした細剣に力を入れて踏ん張る。もう、以前のように、クロムに縋り付いて泣くことなどできない。クロムは、そんなジェーンの頭をぽんぽんと叩いた。
「久しぶりに、ちょっと手合わせするか? 王宮住まいで、体鈍ってんじゃねーの」
図星だ。ジェーンは顔を顰める。
「お、お前の我流の剣は、めちゃくちゃすぎるんだ!」
「ひでえな。実践的って言ってくれよ」
上着を脱ぎ捨てながら、クロムは予備の剣を探す。
「お前の侍女が、こっそり呼んでくれたんだよ。お前には、陛下並みにガードマンが付いてるから、手引きがなきゃ友人でも寄って来れない」
ジェーンは苦笑した。自分は、何のためにここにいるのか、今もよくわからない。エリックの心は、今も遠くにあって覗き込む資格すら与えられていないようだ。
クロムは、練習用の剣を手に取ると、何度か振って感触を確かめた。軽々と剣を振るうその様子が、ジェーンはただ、眩しいと感じた。と。
――あなたが、祝福を受けるの?
頭の中に直接吹き込まれたかのような声がして、ジェーンは目を見開く。
「何だ」
「今のは……」
クロムも同じ声を吹き込まれたらしい。ほぼ同時に二人は言葉を発した。まだ、脳裏に焼き付いているかのようだ。
女の声。
誰の。
「――おっとヤバいな」
クロムは急にわざとらしく礼をする。ジェーンはその視線の先を見た。灰色がかった青の上着を肩に羽織ったエリックが、向こうからやってくる。クロムはウインクすると、足早に去って行った。風のようだと、ジェーンは目を細めた。あっという間に、軽やかに、自分を通り越していく。やってきたエリックは、不機嫌そうにクロムの消えた方を睨んだ。
「エリーは何をしているんだ」
「わ、私が呼んでもらったのです」
「嘘つけ。お前はすぐに顔に出る。変な噂でも立てられたらどうする」
ジェーンはむっとして思わず返した。
「陛下に言われたくありませんね」
「何だ、気になるのか」
急に可笑しそうに、エリックがくいつく。
「なりません!」
ぶつぶつとジェーンは文句を言った。エリックはそれこそ風のようにそれを受け流す。機嫌を直したふうに、軽い足取りでエリックも去って行った。同時に、余計な真似をいたしました、と声がして、背後にエリーが姿を現す。いや、とジェーンは頭を振る。
「気を遣ってくれてありがとう」
「私の使命は、殿下の期待に添えることですから」
ジェーンは手にした細剣を弄ぶ。
「難しいな。王妃の権力は、私自身の力ではないのに」
「これから、あなた自身の力にすればよいのです」
エリーは力強く言う。
「名を歴史に刻む王妃におなりください、ジェーン様。エドワード大帝のように」
ジェーンは苦笑する。
「話が大きいな」
「クロム様のおっしゃるとおり、殿下は一人ではありません。陛下も、気にかけてくださっています。ジェーン様の思うようになさってください。あなたの身は、私が命に代えてお守りします。あとは、ジェーン様次第です」
驚いたように目をしばたかせて、それからジェーンは、ありがとうと、はにかんだ。あらためて、まじまじとエリーを見る。ジェーンよりもつやめいた鳶色の巻き髪に、曇り空のような灰色の瞳。あまり化粧気のない中性的な顔立ちで、目立たぬようそっと脇に控えている。立場上のためか、ジェーンが発言を求めても、これほど力強く自分の思いを語ったことはなかった。
「責任重大だな」
細剣に目をやって、呟く。自分が、この何の細工もない木剣ではなく、豪奢な細工の施された剣をかざし、命じているさまを思い浮かべる。まだまだ服に着られ、剣に命じられている。陛下は、と、ふとエリックのことを思う。さっと、ジェーンの表情が変わった。
「まずい、陛下にお礼を言いそびれた」
エリックの去った方を見るが、もちろんその姿はない。
「今日は、陛下は何か予定が入っているのか?」
いえ、とエリーは首を振る。
「陛下にはありません」
「そうか」
首を傾げつつも、ジェーンは、大きく溜息をついた。
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