第25話
ひんやりとした清々しい空気を吸い込み、ジェーンはひとつ伸びをする。空の青がまた色濃くなってきた。降臨祭を控え、城内は慌ただしい。ジェーンの周囲も、一層慌ただしさを増してきた。ジェーンは椅子にひっくり返って、まったくなあと呟いた。こんなに緊張する待ち合わせは、初めてだ。
「何て格好してるんですか」
足を投げ出しているジェーンに、エリーが声をかける。手にしていたスコーンの皿を、テーブルに置くと、ジェーンの髪飾りの曲がっているのを、丁寧に直した。
「来てくれると思うか?」
ジェーンの問いに、エリーは頷いた。「勿論」
言ってくすくすと笑う。
「何だ」
「いいえ、何でも。ただ、感謝してるんですよ」
「感謝? 私が何かしたか?」
エリーは頷く。
「ずっと、止まったままだったんです。何もかもが、先王陛下が亡くなってから。あなたは、それを動かしてくれた。われわれ内部の人間では、打破できなかったでしょう。頭堅いですから」
ジェーンは投げ出していた足を戻して、ぼんやり周りを囲むバラのアーチを眺める。
幸か不幸か、自分の身はまだ、城内にある。結婚式は秋の収穫祭にあわせて執り行われることでひとまず決まっている。エリックの容態も安定し、かつての時間軸に戻ってきているようだ。
去年の今頃は、とジェーンは思いを馳せる。この庭の向こうの石造りの廊下を、レイチェルとナタリーと渡っていたのだ。そう思うと、何だかとても遠くへ来てしまったようだ。今自分の側にいるのはエリーで、ヴァネッサや女官たちが近しい存在になった。守ろうとしていたレイチェルは他の男のものになり、目の敵にしていたエリックを、今度は支えようとしている。一年前の自分にその話をしようものなら、一笑に付されてしまうだろう。
レイチェルはどうしているだろう。
ジェーンはふっと息を吐く。落ち着いたら、のタイミングが掴めなくて、まだ連絡が取れずにいる。元気にしているだろうか。そう考えない日はないし、その名を心の中で呼ばない日はない。今だってそうだ。白の庭とテレサによって名付けられたこの一角は、白いバラをはじめとする、白い花ばかりが植えられている。その花のひとつひとつを見るたび、ジェーンはレイチェルが、自分の髪には映えないと嘆いていたのを思い出す。エリーに頼めばたちどころに様子を知らせてくれるのだろうが、そうはしたくなかった。耳をそばだてれば、反ステュアートの貴族の悪意を含んだ噂が聞こえてくる。しかしジェーンは聞こえているのを知りつつも深く耳を傾けはしなかった。
ジェーンの中のレイチェルは、かつて自分に天真爛漫な微笑みを向けてきた少女のままで、時折渦を巻くように、涙を流して自分を責めたレイチェルが現れる。それでもなお、レイチェルは理想のままだ。姿を見ずにいる期間が、一層その神聖さを積み上げる。実際のレイチェルの思いはまったくわかりはしないのに。ただ、心から繋がっていると思っていた眩しい思い出が、後ろ髪を引く。
チチ、と鳥の囀る声が聞こえる。ジェーンはもう一度、まったくなあと呟いた。
「何が、まったくなんだ」
アーチの向こうから、エリックがアーノルドを従えて姿を現す。ジェーンは椅子から立ち上がった。
「来てくれたのか」
「お前と違って、忙しい身なんだがな」
ひらひらと、指の端で摘んだ招待状を振って、エリックは自分の席に座る。
「何だ、もう仕事を詰めてるのか?」
まさか、とエリックは肩をすくめた。
「一応病み上がりだからな。アーノルドがうるさく制限するようになった」
ジェーンとエリーは、顔を見合わせて笑った。顔こそは見せないが、アーノルドがいつもの淡々とした表情で、仕事を取り上げている様子が浮かんだ。エリックは、気恥ずかしそうにあちこち視線を動かす。ふと、敷かれた淡いブルーのクロスに目をとめた。
「お前の刺繍、ヘッタクソだな。すぐわかるぞ」
「わ、悪かったな! それでも出来のいいのを選んできたんだ!」
「母上は頭を抱えるだろうなー」
ジェーンは言葉に詰まる。エリックはそれを見て、可笑しそうに笑った。対してジェーンは、性格の悪い、とぶつぶつ文句を言った。
「私が、どうかしましたか?」
背後からかかった声に。二人は姿勢を正して礼をする。テレサが、バラに囲まれた小道の向こうから、悠然と姿を現した。先日の聖堂での姿が、まるで嘘のようだ。ちらりと、ジェーンはエリックを見る。優雅な身のこなしで、エリックはテレサをエスコートする。その表情はやや硬かった。
白い湯気と芳醇な香りが漂い、自然と茶会の開始の合図となる。ジェーンはたどたどしくも二人に話をふった。エリックは持ち前のそつのなさで会話をつないでくれたし、テレサもぽつりぽつりとそれに乗る。スコーンは、ジェーンが手をつける間もなくクロテッドクリームがたっぷりと塗られ、バラの花びらを閉じ込めたハチミツで蓋をされた。
「このジャム、レモンが強くないか?」
あらかた平らげてから、エリックがジャムの感想を言う。ジェーンは眉根を寄せた。
「私の分がないぞ」
「ジャムをつけすぎですよ、陛下。そんなところばかり先王陛下に似て」
テレサは一瞬、はっとしたように目を見張り、場の空気が固まる。しかし、何事もなかったかのように輪切りのオレンジののったシンプルなケーキを口に運ぶと、周りもそれにあわせて動き出した。
とりとめのない話はよろよろとパスが繋がれ、お開きの時間となった。二人は並んでテレサが自室に引き取るのを見送った。ジェーンはひとまずほっと息をつく。しかし、心は安まらない。横にまだ、余計なのが一人残っていた。
「エリックも戻った方がいいんじゃないか。病み上がりだろう」
エリックは無遠慮に座ると、残りのラズベリーのタルトをかじった。
「夕食が入らなくなるぞ。その辺にしたらどうだ」
ジェーンもひとまず椅子に座る。エリックは、何かを迷っているように視線を彷徨わせた。
「気を遣わせたな」
視線を合わせないまま、それだけ言う。
「いや、礼を言わなければならないのは私だ。また来てくださるといいのだが……」
いつもの気むずかしそうな表情をし続けていたテレサを思い浮かべる。エリックは、しばし考えてから紅茶を口に含んだ。
「善処するから、予定はアーノルドに言え。オレンジケーキの用意を忘れるなよ」
「何だ、オレンジケーキって」
「父上の好物だ」
それでか、とジェーンは合点がいった。こそこそと、忘れないようにメモをとる。
「エドガーは、見つかりそうか」
ジェーンは残念そうに頭を振った。
「まったく……もう少し長く暇をもらえれば、遠くまで足を運べるのだが」
エリックは小さく唸った。
「そういうわけにもいかない」
「でも、正直私がここに留まる理由はないと思わないか。正式に嫁いでくるまでは、テレサ様だって母国にいらしただろう」
ジェーンは首を捻った。
「母上は他国から嫁いできたのだから、仕方ないだろう。お前は城に留まっていればいい」
苛立ったようにエリックは言う。
「それとも、他にどこか行きたいところでもあるのか」
瞬間、ジェーンの脳裏にレイチェルの顔が浮かぶ。しばらく帰っていない故郷。そして、海の香りを纏ったクロム。
「いや」
それらの全てを飲み込んで、ジェーンはゆるりと頭を振った。しかし、エリックには見透かされていたようで、エリックは不機嫌そうにそっぽを向いた。
自業自得だ、エリックはそう思った。ジェーンはその信条から自分を手助けしてくれているのであって、無償の愛を注ごうとしてくれているのではない。その思いは、ジェーンの無自覚のところにあるのか意識の内にあるのか、とにかく自分自身でないことを、エリックは感じていた。無理もない。いずれ死ぬ身を、愛してもらうわけにはいかないと、距離を置いていたのは自分だ。それがここに来て、生きたいと思い始めている。
「死ぬなよ」
ぽつりと、エリックは言った。それがあまりにも微かな声で、ジェーンは驚いた。エリックは、そっぽを向いたままだ。相変わらず、視線が交わらない。
「それはそっくりそのまま、エリックに返すぞ」
ジェーンは少しだけ手応えを感じて、嬉しくなった。
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