第8話
若葉色の鮮やかなドレスをまとって、レイチェルは静かに佇んでいた。時間はもうすぐだ。そっと胸に手を当てる。鼓動が、体の外まで響いているようだ。思わず顔を覆う。そして緊張を解すように、両方の口角を指で押し上げた。
「えがお、えがお」
突然、背後から何事か話す男の声が漏れ聞こえてきて、レイチェルは身構えた。衣擦れの音をさせて、二人組の男が歩いてくる。
(ブラッフォード侯爵?)
声に聞き覚えがある。何を話しているのか聞き取れないが、人目を避けているようで、こちらからは影しか見えない。と、突然くらりと目眩がして、目元を押さえた。目の端で、豪奢な上着の端を捉える。しかしそれは一瞬で、連れの男と話し込んだまま、足早に去っていった。
ゆっくりと呼吸を整えて身体を起こすと、レイチェルは二人の去っていった方を見つめる。ブラッフォード侯爵が、自分の父ステュアート侯爵の政敵であることはレイチェルも知っている。でも。ヴァネッサの顔がちらりとレイチェルの脳裏に浮かぶ。幼い頃から、ライバルと周りに言われてきた。何をするにも比べられた。
(エリック様のお側にはいたい。でも、ヴァネッサと争いたいわけじゃない)
自分が侯爵の娘でなければ、こんな思いをしなくてすんだのだろうか。
レイチェルはそう思うときがある。レイチェルは目を伏せた。これが、恋なのだろうか。それとも、只の代理戦争なのか――
「レイチェル」
ジェーンの声に、レイチェルはほっとしたように振り返った。ジェーンは目ざとくそれに気づく。
「また何かされたのか?」
レイチェルは慌てて首を振った。
「ううん、何でもないの。それより早く行きましょ」
ジェーンの袖を引っ張って、レイチェルは船着き場へ向かう。ジェーンは納得がいかない顔のままではあったが、それ以上は何も言わずにそれに従った。日差しを浴びて、川面がきらきら輝いている。草の絨毯の上を歩いて近づくと、水の流れる音と共に涼やかな風がやってきて頬をなでた。レイチェルは足を止める。目を細めて、胸のもやもやを押し流すように大きく息を吸い込んだ。ふと隣を見ると、ジェーンが大きくのびをしていた。レイチェルは嬉しくなってほほえみかけた。
船着き場の手前では、ナタリーとクロムが熱心に話し込んでいた。ナタリーが二人に気づいて手招きした。
「作戦会議しましょ! ヴァネッサ派の子たちが、今回は何としても陛下のお誘いを受けるべく、周りを固めてるらしいのよ」
見れば、少し離れたところに一つの塊となった集団が、ゆっくりとこちらへ向かってくる。中心にはヴァネッサとその取り巻きに脇を固められたエリックがいる。
「このところ嫌がらせもエスカレートしてきてるし、何とかして陛下をおさえて、ぎゃふんと言わせましょう!」
鼻息荒いナタリー。その横でジェーンはあまり気乗りしないような顔で、水鳥を眺めている。
「まとまりねぇなぁ……」
クロムは苦笑して顎の無精ひげを弄びながらレイチェルの方を向いた。
「好きなら、正直に抱きついていったらいいのに」
「は……」
ナタリーとレイチェルは頬を赤らめて目を見開く。ジェーンは鬼のような形相でクロムを睨みつけた。クロムは肩をすくめる。
「港にいる女たちは、よくやってるぞ。その方が、ストレートでわかりやすい」
「そんなこと、するか!」
言い終わらないうちに、ジェーンは思いきり扇でクロムをはたいた。しかしクロムははたかれた箇所をさすりながらも、余裕の表情で返した。
「俺は、本人に聞いてるんだぜ、ジェーン」
三人の視線が、レイチェルに集まる。レイチェルは湯気でもたちそうなほどに顔を真っ赤にしてぶんぶんと首を振った。
「むむむ無理ですそんなこと、はしたない!」
「つまらねぇなぁ、面白いのに」
クロムは口をとがらせた。それにしても、と言葉をつなぐ。
「嫌がらせって、そんなに酷いのか?」
ナタリーは自分のことのように大きく頷いた。
「酷いも酷いわよ。テレサ様の所へ行こうとすれば扉が開かなかったり、刺繍していたハンカチがなくなったり、服を汚されたり……」
クロムは子供のいたずらかよ、と唸る。
「プレッシャーだな、レイチェルには」
言って、ぽんぽんと頭を撫でた。ジェーンの眉が微かに上がったが、クロムは素知らぬ顔で流した。途端に、ざわめきが近づく。
「陛下だわ」
レイチェルは口元を引き結ぶ。ジェーンは気にくわない顔で目立たないよう二歩三歩と後ろに下がった。クロムもそれに従う。そして取り巻きを引き連れたエリックに,目をやった。エリックは王族らしく笑みを浮かべながら堂々と歩いてくる。若いが芯の強そうな王だなと、クロムは会ったときからエリックを評している。先代の王が亡くなったのは、エリックが十にも満たない頃だった。他国から嫁してきて形だけの王妃であったテレサに代わり政治を動かしてきたのは、六候を中心とした貴族たちだった。親政を始めて数年たった今もなお、彼らの発言権は弱まってはいない。寧ろ、増長した貴族たちに王が気を遣わなければならないくらいだ。それでも、王冠が形だけになろうとも、吹き飛ばぬよう背を張って立派に見せているようにクロムには見える。
――惜しむらくは、味方が少ない。
だからこそ、自分のような者に声がかかっているのだ。そのエリックはこちらを見ると、ゆっくりと歩み寄ってきた。囲い込んでいた娘たちが、間を開けていく。その一人一人に声をかけながら、エリックはまっすぐレイチェルの元へとやってきた。娘たちから溜息が漏れる。横に目をやると、相変わらず憮然とした表情のジェーンがそっぽを向いていた。
「何がそんなに気にくわないんだ。本人の希望どおりじゃねぇか」
「そんなこと――わかっている!」
ジェーンは俯いた。
「――私は、テレサ様のようになってほしくないだけだ」
クロムは頬を掻いた。再び、エリックの方を見る。丁度、エリックがレイチェルをエスコートして船に乗るところだった。似合いじゃないか、とクロムは二人の背を見て思う。おとぎ話に出てくる、王と妃のようだと。
一方、レイチェルは夢見心地でエリックを見つめていた。エリックは椅子の背もたれに体を預けて口を開いた。
「最近、君たちはクロムと親しげだな」
「はい。船上での冒険譚は、何度聞いても飽きません」
エリックはちらと視線を三人の方へやって問うた。
「ジェーンもか?」
「はい……どうかなさいましたか?」
エリックは悪戯っぽく笑った。
「賭けをしているんだ」
賭け、とレイチェルは反芻する。
「何の、賭けを」
「誰が一番最初に、ジェーンをオトせるか」
レイチェルは目を見開いた。
「そんな……ジェーンが聞いたら傷つきます!」
「――じゃあ、黙っておいてくれ。君だって心配じゃないか? 彼女が生涯独身だなんて」
レイチェルは口を噤む。余計なお節介だと言われてしまいそうだが、エリックの言うとおりだ。ジェーンの幸せを願わないはずがない。けれど。
「私は、自由なジェーンが好きです。彼女は、何でも自分で選び取っていけます」
レイチェルは、クロムの襟首を掴んで揺さぶっているジェーンを見る。いったい、何の話をしているのだろう、とても楽しそうだ。実際、クロムの話を聞いている時のジェーンは、生き生きとしている。厳しく、それでも閉塞感に囚われない海上の生活に憧れているのだろう。そのうち、自分も行くと言い出しそうだ。
「一つ、忠告しておこう」
えっ、とレイチェルは小さく声を上げる。声の調子は、いつもと変わらない。常に品のよい笑顔を絶やさないでいる、貴公子エリックだ。少し低い、甘い声。忠告と言われても、どこかその声音に酔わされて、話の内容など流れていってしまいそうだ。しかし。
「クロムは、やめておいた方がいい」
「……どういうことですか」
レイチェルの顔が曇る。
「あれは、ブラッフォードの手の者だ」
レイチェルは絶句する。ふるふると小さく首を振った。
「嘘じゃない」
エリックは低い声で追い打ちをかけるように言う。
「きみの大事な親友は、だいぶクロムに惹かれているようじゃないか」
びくりとレイチェルは、肩を振るわせる。エリックはその反応に満足するかのように目を細めた。
「きみが王妃になるのにも、きみとジェーンの関係を保つのにも、考えた方がいいと思うよ」
エリックは更に声を落とす。殆どささやくような声でたたみかけた。
「信じる信じないは君たちの自由だ。だが、忠告はしておいたぞ。私と君の仲だ」
変わらない笑みを、エリックはレイチェルに向けている。それなのに、妙な圧迫感が、レイチェルの胸を締め付けた。それほどまでに、危険な人物なのか――レイチェルはこれまでクロムと過ごした時間を思い出す。不審な点など、一つもなかったように思える。いや、自分が鈍いだけなのか。
それでも、野性的な風貌にそぐわないほど気のつくところ、人なつこい笑顔、海に刻まれてきた皺や傷のひとつひとつが、自分の疑念を取り除いていく。けれど、王が嘘をつく必要など、どこにもない。
「ところでレイチェル」
突然、耳元にエリックの顔が近づいてきて、レイチェルは心臓が破裂するかと思った。クロムの顔も疑念も、あわせていっぺんに吹き飛ぶ。近すぎて、エリックの顔が見えない。頬が、今にも触れあいそうだ。全神経が、耳のあたりに集中する。一呼吸置いて、エリックは軽いジョークでも言うように言った。
「きみ、妖精が見えるというのは、本当なのか?」
レイチェルは目を見開いた。顔が、一瞬にして強ばる。はじかれたようにエリックから体を離した。エリックはやはり、いつもと同じように笑んでいる。
「――根拠のない噂です。幼い頃の」
少し震えた声で、レイチェルは答えた。エリックはレイチェルの頬の緊張を解すように手のひらでなでると、それはすまなかった、と言ってまた笑んだ。そして、何事もなかったかのようにとりとめのない話を続けていく。レイチェルはそれを上の空で返した。
船から降りて、エリックが取り巻きたちの中に埋もれるのを見送ると、レイチェルは逃げ出すように人の輪から離れた。
――妖精が見えるというのは、本当なのか?
がくがくと、手が震える。
(いったい誰が、あの噂を?)
心を、自分を取り戻そうと、大きく深呼吸する。と、不意に腕を掴まれ、強い力で羽交い締めにされた。耳元で、荒い息づかいが聞こえる。その煩わしさをかき消すほどの恐怖で、レイチェルの体はがたがたと震えていた。
「――指輪はどこだ」
息づかいに混じって、低い男の声が聞こえる。レイチェルは訳がわからず、ただただ小さく首を振った。
「持っているだろう、どこだ」
犬の唸るような声が、もう一度言う。
(――助けて)
目をぎゅっと瞑って、レイチェルは心の中で叫ぶ。
(――助けて、ジェーン)
「お前の探しているのはこれだろう?」
聞き慣れた声に、レイチェルはきつく瞑った目を開けた。十メートルほど離れたところに、自分の望んだ姿があった。眉をつり上げ、仁王立ちしたジェーンが、何かを握った手を突き出している。目を凝らしてみると、金細工のアクセサリーのようだった。レイチェルを羽交い締めにしている者の注意が、明らかにそちらに向く。
「それをこちらに渡してもらおうか」
男はあたりを多少憚るような声で言う。
「怪我をしたくはないだろう」
ジェーンは鼻で笑った。
「お前の仲間なら、向こうでのびてるよ。助けは来ない」
小さく、男が舌打ちするのをレイチェルは聞いた。
「レイチェルを放せ」
くそっ、という声とともに、レイチェルの体が放り出される。ジェーンは手にしたものを横に高く放り投げた。投げられたものは、日の光にあたってきらりときらめくと、高く放物線を描いてゆっくり落ちていく。男はそれを追って掴むとそのまま姿を消した。レイチェルはその場に崩れるように座り込む。それを、大きな腕が後ろから支えた。
「大丈夫か?」
心配そうにのぞき込んできたのは、クロムだった。
「え、ええ」
胸元のレースを握りしめて、レイチェルは答える。血相を変えたジェーンがドレスの裾を邪魔くさげに持ち上げながら駆け寄ってきた。そして、ナタリーとともにかがみ込む。
「大丈夫」
レイチェルはゆっくりと立ち上がった。クロムがさりげなく助け起こす。
「ありがとう、三人とも――それからジェーン、ごめんなさい」
ジェーンは目をしばたかせる。
「何が?」
「金細工の何か、持って行かれてしまったでしょう?」
ジェーンはかぶりを振った。
「私のじゃない。クロムのだ。あんな悪趣味でごついもの、持ってたまるか」
「おいおい、誰の機転だと思ってるんだ。おまえ一人なら、絶対に何の策もなしに特攻してただろう? 物盗りだからって、甘く見ない方がいいぞ」
クロムは大げさに肩をすくめてみせた。
「物盗り」
口の中で意味を噛みしめるように、レイチェルは繰り返す。クロムの顔は、いつもの人なつこい笑みを浮かべていて、目尻に皺が深くできている。力強く褐色に焼けた肌。ふと、品の良い微笑みを浮かべるエリックが浮かぶ。そして、言葉。
「何? 俺の顔、何かついてる?」
レイチェルはびくりと肩を震わせた。急いで、頭に浮かんだあれこれをしまい込む。
「いいえ、何でも」
クロムはぽんぽんと肩をたたくと、のしたヤツらを片付けてくると言って、後ろ姿で手を振った。それを見送る目の端でジェーンを捉えて、レイチェルは安堵の息をつく。きっと危険を顧みずに、助けに来てくれたのだろう。
「ありがとう、ジェーン。来てくれると思ってた」
約束だからと言って、ジェーンは笑った。そっと手を差し出す。レイチェルはそこに自分の手を乗せた。ゆっくりといたわるように、ジェーンが手を引く。レイチェルはその手をしっかりと握った。
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