第9話

 ゆらゆらと、蝋燭の光が暗闇を這う。ぼそぼそと話す幾人もの男の声が聞こえるが、その明かりは不自然なまでに小さい。

「王子も始末するか?」

 そうだ、と言う声がひとつ上がったかと思うと、いやまて、時期尚早だ、と別の声が被せられた。

「立て続けに死なれては不自然だ。テレサ様の母国に口出しされては困る」

「テレサ様は賢明だな。我らに盾突かぬ」

「王妃も、国内の貴族の娘から王子に選ばせる形をとればよい」

 そうだ、そうしよう――ばらばらと賛成の声が上がる。なんて、なんて嫌な――


 自分の息づかいの荒さに驚くようにして、エリックは目を開けた。口の中がからからに乾いて喉が痛い。手で額にはりついた前髪をかき分けると、汗がべっとりついているのがわかった。

「お目覚めですか」

 傍らには相変わらず小ざっぱりとした格好のアーノルドが、いつもと変わらない顔を貼り付けて立っていた。

「最悪な朝だ」

 言ってエリックは起き上がった。アーノルドはそっとカップを差し出す。乱暴に受け取ると、エリックはそれをぐいと飲み干した。口の中のもやを、濃いめの紅茶がぬぐっていった。エリックは大きく息を吐いて、カップと汗ばんだ服を押しつけた。

「本日はヴァネッサ嬢とお約束がございます」

 エリックは露骨に顔をしかめた。

「約束はいいんだが、だめだ。年頃の娘と一緒にいるはずなのに、背後に父親の顔が見える」

 そう言って、再びベッドに身を投げ出した。

(そういえば、あいつは見えなかったな)

 ジェーン・オズウォルト。

「ヴァネッサは母上のところに来ているのか」

「はい」

「ジェーンもか」

「はい」

 エリックは少し考えるようにして、そうか、とだけ言った。

 王太后テレサの元には、貴族の娘たちが礼儀作法を学ぶため、女官として仕えている。エリックは政務を片付けると、他の娘たちに見つからないよう、そっと庭から近づいた。生い茂った木や蔓草が、エリックの姿を隠す。濃い草木の、夏に発せられる強い生命力の匂いが風に乗って届いた。

「待たせたな」

 年頃の娘にしてはえらくシンプルな服を纏ったジェーンが、振り返ると同時に鋭い目でこちらを睨んだ。睨まれる理由に心当たりがありすぎて、エリックは苦笑した。

「申し上げたいことは、多々あります。が、」

 挨拶もそこそこに、ジェーンはエリックに詰め寄った。

「ずいぶん昔の与太話を掘り起こされたそうですね」

 エリックはジェーンをなだめるどころか、目を細めて笑んだ。

「話が早くて助かる。今日きみに時間を割いてもらったのは、他でもない。レイチェルに昔たった噂の真相を聞きたくてね。王妃候補の筆頭に、よからぬ噂があってはこちらも審査に困る」

 ジェーンはぷいと横を向いた。

「ばかばかしいにもほどがあります。レイチェルが、薔薇園で蛇の姿を見かけたので、薔薇園に出かけようとしたテレサ様に注進したのですが、聞き入れられなくて。それで本当に蛇に襲われかけたものだから、レイチェルには妖精が見えていて、蛇がいるのがわかったんだとかなんだとかいう噂が、ステュアート家を快く思っていない一派によって立てられたのです。もう、十年近く前の話ですよ。それが、どうして今になって」

 一気にまくし立てる。最後の方は、愚痴のように声が小さくなる。素直だなと、エリックはすがすがしく思った。やはり、後ろにジェーンの父の顔は浮かんでこない。

「王妃候補の筆頭が、レイチェルだからだろう」

 こともなげに、エリックは言った。

「実際、レイチェルには苦い記憶だったようだしな」

 最大勢力であったステュアートの娘。それまで取り巻きで賑わっていた周囲が、その噂が流れるとぽつぽつと距離を置くものが出てきたと、報告を受けている。それを目の当たりにしていたジェーンは、視線を落とした。

「しかし、本当にただの噂なんだな? 奇異な力を持った、キュセスの祝福のないものは、認めるわけにはいかない。キュセスの加護を受けた国の王として」

 ジェーンは強者に挑むかのような目でエリックを見て、強く頷いた。そうかと、さほど重要ではないかのようにエリックは短く言った。他に何か考え込むように腕を組む。ジェーンは、ひやひやしながら次の言葉を待った。エリックは少しして、口を開いた。

「ときにジェーン。きみは、呪いの巫女を知っているか?」

「は」

 予想もしていない単語に、ジェーンは当惑する。戸惑いながらも回答を紡ぎ出す。

「確か、キュセスの祝福を捨て災厄を運ぶ、血のような深紅の瞳に同じ色の髪の色をした者だとか」

 騎士物語では騎士たちの前に立ち塞がり、その口から迸る呪いによって、行く手に困難をもたらす。また聖典では、キュセスに反逆し、祝福を失った様子が描かれている。民に多くの血を流させた証として、赤く染まったとも。キュセスを信仰するセントオールでは、忌むべき存在だ。

「もしきみが、その呪いを受けたとしたら?」

 エリックは問う。ちらりとこちらに流す目が鋭さを帯びている。ジェーンはその眼光に負けじと真っ直ぐにエリックを見て、あまり好ましい状況ではありませんがと前置きして答えた。

「精一杯生きます。私が私でなくなるわけではありませんから」

「じゃあ、もし、もしもだ。きみに近しいものが、キュセスの祝福をなくした……呪われたものだったとしたら?」

 ジェーンは息をのんだ。

「……そんなこと、あるはずありません」

 間違った返答はできない。これがレイチェルの未来を左右してしまうのかと思うと、ジェーンの手にはじんわり汗が滲んでいた。エリックは何かを思案しているような表情を変えずに、じっとジェーンを見ている。ジェーンは覚悟を決めて口を開いた。

「ありません、が――その人がその人であるなら、私も変わりません」

「怖くはないのか?」

「怖いと思います。でも、私にできる全てのことをしたいと思うのです。私は、セントオール史に埋没するしがない田舎貴族の娘でしかありません。大きなことを言っても、ただの夢想にすぎません。でも、後悔しないように、思いつく限りのことをしたいのです。それが、自分の信じている人に対してならなおさら」

 エリックはしばし口をぎゅっと結んだジェーンを見、ふっと表情を崩した。

 勇敢だなと思うと同時に、そこまで思い合える者がいることを羨ましく思った。

 レイチェルを、他の貴族の子弟から遠ざけるのも、故なくしてのことではないだろう。六候の筆頭であるステュアートの地位を、六候の他の面々は虎視眈々と狙っている。他の逆玉の輿を狙う者、貴族の子弟とのスキャンダルを流し、王妃候補から引きずり下ろそうとしている者は少なくない。レイチェルがそのような相手に転がされて傷つくのを、防ごうとしているのだろう。

 良家へ嫁ぐのが幸せとされる貴族の娘が、良縁を手放すのは死活問題だ。どうしてそれほどまでにレイチェルを思えるのだろう。

 エリックは、ジェーンへの興味が尽きない。

「誤解させたなら謝るよ。本当に、王妃の問題とは関係なく、興味本位で聞いただけだ。キュセスに誓ってもいい」

 最後の一言に、ジェーンは体の力を抜く。その表情に、きみは素直だと、エリックは笑った。

「アーノルド」

「はい」

 力を抜いたジェーンは、ようやくアーノルドが横に立っているのを認める。自分でも驚くほど緊張していたことに、ジェーンは目眩がするようだった。エリックは続けて問う。

「来週、確か議会があったな」

「はい。四日後の、昼からです」

「お詫びに、招待しよう。きみの大嫌いなお飾りの議会とやらをみせてやる」

 ジェーンは首をかしげた。

「私は、議会を見に行く資格があるのですか?」

「勿論、女性は限られた地位の者だけだ。だから、俺の後ろの幕の裾に席を用意させる」

 一瞬、何でそんな場所でこそこそと、とも思ったが、悪の巣窟を見てみたいという興味がジェーンの中で勝った。こんな機会、滅多にない。しかし。

「あのう」

「何だ」

 珍しくおずおずと尋ねるジェーンに、エリックは片方の眉を上げた。

「レイチェルは?」

「――ああ」

 エリックは一瞬考えて、口を開いた。

「レイチェルは、また別の機会に場を設ける。普通の令嬢にはつまらないだろう。他の者にも、言わないでくれ」

「わかりました。よろしくお願いします」

 一瞬むっとしつつも殊勝に頭を下げるジェーンに、エリックは笑んだ。去って行くジェーンを見送りながら、エリックは、アーノルドの何か尋ねたそうなまなざしに気づく。

「おもちゃだよ、おもちゃ。これくらいの余興、許されるだろう? それより、引き続きレイチェルの件で探りを入れろ」

 ぎらりと、目には禍々しい光を宿して。エリックは低く命じる。

「クロムに金を握らせてもいい。ステュアートを黙らせる材料になる。必ず見つけさせろ」

 アーノルドは、その言いぶりに何か感じたのか、ただ、ブラッフォード令嬢をお連れしますとだけ言って姿を消した。

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