第31話
早朝の冷えた空気が体を冷やす。あまり寝ていないはずなのに、頭だけは妙に冴えていると、エリックは閉じていた目をうっすら開けた。横にはいつものようにアーノルドが、ひっそりと控えていた。しかし常日頃のような軽装の出で立ちではない。その身につけられた簡素な鎧が、鈍色に光っていた。エリックは続いて自身の身体を見る。儀礼用の、装飾過多な鎧ではない。本物だ。その重みに、エリックは息をつく。アーノルドが、ちらと視線をよこした。
「案ずるな。鎧が重くて辟易しているだけだ」
考えていることなど、手に取るようにわかる。それ以上言ってくれるなとばかりに、手で制した。濃紺のビロード張りの椅子は、周りにも肘掛けにも金細工が施され、それが特別な人間のみ座ることを許された椅子だと主張している。それなのにそこに座っている人間は、いまや戦況よりも一人の女が自分の手元に戻ってくるかどうかにやきもきしている。愚かしいなと、エリックは思う。それが、仮に戦況を揺るがす帰還であったにしてもだ。
がちゃがちゃと、金属のすれる音が近づいてくる。ドアが開き、その音はさらに鮮明にエリックに近づいた。エリックは顔を上げる。その先には、ジェーンがいた。いかにも間に合わせの鎧を着け、髪をきつくまとめている。
「戻ったか」
「遅くなってすまない」
少し息を切らして、ジェーンは言う。
「まったくだ、待ちくたびれたぞ」
言ってエリックは、頭から爪先までまじまじとジェーンを見た。今までに、女が戦場に立ったことなど、あるだろうか。エリーが苦労して見繕ってきたのだろうと、エリックは心の中で苦笑した。そのエリーは、やはりジェーンの傍らに控えている。その顔つきは、妙にすっきりとしていた。
「お前も行くのか」
エリックの問いに、ジェーンは力強く頷いた。
「グロード候がヴァーランダーに声をかけて、はじめに兵を挙げようとしている」
ジェーンは今後の戦況をつらつらと述べる。エリックは険しい顔で聞いていたが、ジェーンの憔悴したような顔に、息をついた。情に厚いジェーンが、エリックを捨てきることなどできるはずがないのだ。お前だって、一人で抱え込もうとしてるじゃないかと、エリックは文句を言いたくなる。しかしそれはぐっとこらえた。
「グロード候の件は、もう手を打った。声をかけられそうな傭兵隊長には、もっとうまい話をしてある。軍議を開くからお前も来い」
エリックは玉座から立ち上がる。一段、二段と階段を下り、ゆっくりとジェーンに近づく。そして、すぐにも手の届きそうなところで足を止めた。
「エリック」
「何だ」
「会って欲しい人がいる」
エリックは、無言で先を促す。
「エドガーに、会って欲しい。会って、話を聞いて欲しい」
鼓動が、体の中で大きく響く。空恐ろしい。けれど、聞かなければ自分にかけられた呪いは解けないのだ。
「――わかった。手配しろ」
ジェーンは少しほっとしたように口元を緩めた。
「そういえば」
エリックは口を開く。
「一度もお前を、ダンスに誘ったことがなかったな」
そういえばそうだと、ジェーンも思う。一度たりとて、他の令嬢のようにエスコートしてくれたことはない。しかし、ジェーンの意志を曲げろと言われたこともなかった。それがエリックの度量の広さだとジェーンは思う。
エリックはわずかに手を差し出しかける。しかし一度、何か考えるように手を止めた。ジェーンはその手を見つめる。エリックは逡巡して、それでも意を決したようにジェーンの手をとった。ジェーンは目を見開く。
「お前がどんな答えを出そうと、お前を選んだのは俺だ」
苦い思いで、胸がいっぱいだ。しかし今はそんな感傷に浸っている場合ではない。
「もう二度と言わないぞ。いいか、何があっても俺に謝るな。そのかわり、胸を張れ。全力で俺の王妃でいろ」
「――ありがとう、エリック」
それだけ、ジェーンはようやく言う。そうしてしっかりと、その手を握りしめた。互いの手の感触が、この世が現実だと語っている。グローブを脱ぎ捨てて、手の熱をそのまま伝えあえたならとエリックはその温もりに焦がれた。しかしそれは今は性急すぎる。そっと、手を離した。
「行くぞ」
群青のマントを翻し、エリックは扉へ向かう。
ジェーンは目の前を通り過ぎていくその背を、目で追った。
「ああ」
自分に号令をかけるようにジェーンは返答し、その背のすぐ後に続いた。
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