第4話

「ぅぇっ、ぉぇ……」


 一通り吐き終えた後に、自分の体内にはもう何も残っていないことを感じた。

 続いて溢れたのは、涙。


「なん、で」


 なんでこんなにつらい目に遭っているのだろう。


「な、ん……で……」


 俺が何か悪いことをしたというのだろうか。

 あふれるのは、そんな思い。

 濁流のように渦巻く想いを表すかのように、目から大粒の涙がとめどなく溢れ出す。


「うぅっ……ユぅ……ゆぅ……」


 思わず漏れ出した声。

 どうしようもなく、体が震える。

 守ってほしい。そばにいて欲しい。

 隣に居て、あいつじゃない体温を感じたい。

 ――ユウを、感じたい。ユウに助けて欲しい。また、あの『ぬくもり』を感じたい。


 でも、そんなのはもう不可能だ。

 こんなに穢されてしまっては、たとえユウが受け入れてくれたとしても、俺自身が許せない。

 間接的にアイツとかかわりを持ってしまうかもしれないし、なによりアイツに穢された身体をユウに触られたくない。


 ――どうしようも、ない。もう、ユウには会えない。


 そう思うと、余計に悲しくなって。


「うぅ、うぅぅぅうう……!」


 泣くと同時に腹に力が入ってしまい、尻穴の中からまだ残っていたのであろう白濁した液があふれ、臀部に伝うのを感じた。


 こんなに汚い自分は、もう二度と、戻れない。戻ることは許されない。


 その事実だけが俺の頭を支配する。とめどない涙を止める術は知らず。俺はただただ、涙を流すことしかできなかった。





 その時だった。





 何の前触れもなく、何の脈絡もなく、ソイツは現れたんだ。

 気配も何もしなかったにも関わらず。


「よぉ、こりゃヒデぇ位にやられちまったナァ? ケケケ!」

「な、なん……だ、よ? もう、や、やめろ、やめて、ください……」


 甲高いキーキーした声が、部屋の隅から聞こえた。

 驚いたなんてものじゃない。また変な奴が俺を襲いに来たのかと思って、とっさにシーツで体を隠した。


「ケケケ、そんなに怯えんナよ。オレはお前の味方だ」

「……」


 少し空いていたカーテンから、月の光が差し込んでようやくソイツの顔を見ることに成功した。

 面長の顔に、左右非対称に目じりが上がったり下がったりしている目。鼻は蜂に刺されたのかと言うほど赤黒くはれ上がり、口は青紫色をしていた。

 しかも髪の毛は月の光に反射してもなお暗く、漆黒の様相を呈していた。


 一言で表すとするならば――まるで『悪魔』みたいだ。


「ケケケ、アクマ、ねぇ。まぁそういう事にしといたほうが、オマエの為かねぇ」


 どういうことなんだろう。ヤツは俺の考えが読めるのだろうか?

 口に出してすらいないのに、悪魔みたいだ、と思ったのが伝わっている。


「その通り。オレはオマエの考えナんて、お見通しサ。オマエ、ナんでアイツに黙って穢されたんだヨ? 刃物で刺すとか、イロイロ自衛する方法はあったろうニ」


 体がすくんで動けなかった。

 アイツの顔を見た瞬間、全身の力が抜けてしまったんだ。

 ついに見つかった、食い物にされてしまう。ただそれだけが頭を支配してしまったんだ。

 というか、俺の見ているコレは幻覚に違いない。

 こんな生物、居るわけが――


「ペッ!!」


 そう思った瞬間、奴は俺の顔に唾を吐きかけてきた。

 汚いが、その臭さと生暖かさは確実に本物だ。

 そうか、夢じゃない。と言いたいのか……。


「ケケケ。オマエ、辛いカ? 死にたいカ?」


 その問いの答えは決まっていた。


 あの顔を見た時から、ずっと。

 行為の最中も、ずっと。


「コトバで言エ。オマエ、死にたいカ?」

「…………見ず知らずの悪魔が何を尋ねてくると思えば……くだらない。答えなんて決まってるじゃないか。お前の眼は節穴かなんかなのか?

 このありさまを見てみろよ。体中アイツが残していった痣でいっぱいだ。ケツからはあいつのが流れ出てるし、この口にはさっきまできったねぇアレを咥えてたんだぞ!? そんなことをされて、そう思わない奴なんているわけないだろ!?」


 自ら言って、自ら傷ついている。

 俺はどうしようもないアホだろう。だが、叫ばなきゃ、自分が壊れてしまう。


「ダカラ、全部コトバで言エ」

「ここまで言ってまだわからねぇのかよっ!! ――死にたいに、決まってんじゃねぇか!!」


 俺がそう言った瞬間、ヤツはニィ、と口角を上げる。

 こめかみくらいまで口が裂けていたことに気付いたのは、今更になってからだった。


 どうやら目の前のこいつは、本物の悪魔らしい。


「ヨウヤク、か。ナラ、男のオマエはいらないなら、オレがもらってくゼ。お前は未来永劫、オンナとして生きるとイイサ! ケケケ!」


「……は?」


 いつの間にか、俺の身体が淡い光に包まれていく。

 感覚は、冷たいだけ。

 でも、アイツにつけられた傷跡はきれいさっぱり無くなっていく気がした。


「ナンダヨ、その間の抜けた顔ハ!! ケケケ、死にたかったんダロ? ならそれくらいイイじゃナいか! その代わり――オマエはこれから男の精を定期的に摂取しなけりゃ弱っちまう、最悪死んじまう体にナったからナ!」


 聞いた途端、なんと反応してよいか分からない。

 こいつの目的は一体なんなのだろう。


「じゃあナ」

「お、おいちょっと待てよ、意味がわからな……い」


 何の説明もないまま消え去ろうとしたあいつに声を掛けた瞬間、自分の声が少し高くなっている――というか、声音が変わっているのが分かった。

 そして、胸もある。

 アレは、無くなっていたんだ。


 それを確認した途端、俺はめまいに襲われ、そのまま眠りに落ちた。


 これが昨夜俺の身に起きた奇跡。


 悪魔なのに、女にしてくれた――しかも、穢されていない真っ新な身体だ。


 先ほどまで残っていたアイツの痕跡はすべて消えていた。


 部屋に散らばっていた体液でさえも。


 だが、奴は悪魔だ。裏は絶対あるんだろう。


 男の精を摂取しなきゃ生きていけないなんて、俺にとっちゃあ屈辱的だが――それは同時に、女になったことでユウと関係を持てる可能性も出てきたという訳で。



 悪いことなんてない。むしろ死よりも嬉しいことかもしれない。



 だから俺は踏み出せたんだ。


 地獄のような一夜から一転して、生まれ変わることができた。


 そうして俺は次の日の朝、女のメイクをして、女の恰好をした。――もう、女だから。



 何より、あいつを絶対に、落とすために。



 この魂が悪魔に喰われようとも、俺の身体と心はアイツだけのものだと、そう決めたから。

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