彼女と海へ

ツヨシ

本編

今年の夏も彼女と海に来た。


もう夕暮れが迫る、赤い海岸縁に車を停め、二人で話し込んでいた。


少し開けた窓から、少し涼しくなった風が、潮の香りとともに心地よく吹き込んでくる。


穏やかな時が、ゆったりと流れていた。


「私、のど、かわいたわ。ジュースでも買ってくるね」


のぞみが言った。


少しはなれたところに、ぽつんとジュースの自動販売機がある。


「ああ」


ひろしがのぞみにむかって返事をし、微笑んだ。


のぞみはハンドバックを持つと、機敏な動きで車を降りて行った。


若さに満ちあふれている。


ひろしはその後ろ姿を見ていた。


「そういえば」


ひろしは一人つぶやいた。


「去年の夏も、同じようなことがあったな」




去年の夏、ひろしは今日子といっしょに海に来た。


同じ車に乗り、同じ所に車を停めて、二人でいた。


そして今日子が一方的に一人でしゃべっていた。


ひろしはずっと無言だった。


今日子ではなく、じっと海を見ている。


今日子はおどおどした態度でひろしの顔をのぞきこんだ。


「……それじゃあ、ジュースでも買ってくる。……ひろし……飲む?」


ひろしからの返事は何もない。


今日子は力なく車を降り、とぼとぼと老人のように歩いて行く。


ひろしの視線は全く動くことなく、そのまま海を見ていた。




しばらくして車のドアが開き、今日子が入ってきた。


「はい! ひろしぃ。オレンジとコーヒーと、どっちがいい?」


不自然に明るい声だった。


耳障りだ。


ひろしはやはり答えない。


ただ海を見ているだけだった。


今日子の耳にざわざわとした波の音だけが、やけに大きく響いてくる。




唐突にひろしが言った。


「もう、別れようか」


後はお決まりの修羅場となった。


泣きじゃくり暴れまわる今日子を、なんとか実家まで送り届けると、ひろしは早々に家へと帰っていった。


その後何度も何度も今日子から電話があったが、ひろしは一度も電話に出なかった。


そのうちに、今日子からの連絡が、ぷつりと途絶えた。




今日子が海に身を投げた、ということをひろしが知ったのは、それからしばらく後のことである。


ひろしは自分が原因だとは思いたくはなかったが、他に理由が何も見当たらなかった。




しかし秋にはのぞみと知り合い、冬には誰もがうらやむ仲となっていた。


ひろしはしだいに今日子のことを思い出さなくなっていった。




ひろしは海を見ていた。去年のあの時のように。




不意にドアが開いて女が入ってきた。


「はい! ひろしぃ。オレンジとコーヒーと、どっちがいい」


ひろしははじかれたように振り返った。


そこにはのぞみではなく、今日子が座っていた。


瞳のない眼でひろしを見て、真っ白い顔で笑っている。


ひろしの全身に怖毛が走る。


とっさにドアに手をかけたが、ドアは開かなかった。


開けていた窓が、まるで生きているかのように閉まっていく。


ひろしはドアに激しく身体をぶつけながら絶叫していた。


勝手にエンジンがかかり、ハンドルが回った。車は静かに動きはじめた。




のぞみは両手に缶ジュースを持ったまま、呆然と立ちつくしていた。


車が走り出している。


おまけに助手席に知らない女が座っていた。


不意に女がのぞみのほうへ振り返った。


ぞっとするような凍りついた笑みを浮かべて、のぞみに手を振った。


車はゆっくりと、そしてまっすぐ海へと向かっていった。




        終

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彼女と海へ ツヨシ @kunkunkonkon

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