スイミング・スクール(8/8)
ゴムバンドの白いゴーグルを付けた愛美は、慣れた動作で水面に体を横たえ、速やかに進み始めた。
一掻きごとに顔を上げ下げして息を吸い、同じペースで中程までやってくる。最後の10メートルはスピードが落ちたものの、欠点のほとんどない泳法でゴールにたどり着いた。
「やったー!」
人目を憚らず、母親の森田はガッツポーズと拍手で歓喜を表した。周りの者たちも勢いに圧されて手を叩いたが、絵里は胸の前で両手を併せるだけ。次に控えた我が子が心配だ。
ゴール地点のコーチが見学者を一瞥してから合図を送り、咲希が水に入っていく。
背が低く、顎まで浸かって手を上げる様は、誰かに助けを求める姿に見える。
スタート地点のコーチがホイッスルを口に加え、母親たちが静寂を取り戻したタイミングでスタートした。
右手と左手を交互に上方から耳の横へ、水の中へ。それを三回続けて最初の息継ぎ。上半身が過剰に傾き、水着の脇腹部分にデザインされたピンクの菱形が水面に浮上した。その鮮やかな蛍光色を見つめて、絵里は腿に置いた両拳を握りしめる。
浴槽での練習どおり、息の吐き吸いは手足のバランスを崩すことなく、スムーズに次の動作に繋がった。
水の中で「ばっ」と吐くのよ。
声に出さず、母親は娘に呼びかける。
ゆっくり、ゆっくり、落ち着いて!
二度目の息継ぎも成功。
一秒ずつ、確実に、咲希が向かってくる。
泳ぎ始めて10メートル、15メートル……腕の振りの差異で進路がずれ、指がコースロープにぶつかりそうになると、息継ぎが雑になったせいでスピードがにわかに落ちた。
歩くよりも遅い速度で、かろうじて前へ。
あと、8メートル、7メートル……母親が腰を浮かせ、ガラス窓に鼻の頭を近づける。
頑張って!頑張って!
もはや、水しぶきはほとんど上がらず、咲希の前後で、平らな水面が天井の照明を鈍く反射している。
水泳帽の不自然な浮沈とともに左腕が水に入った瞬間、すべての動きが止まった。
両足がプールの底につく。
母親たちのため息が漏れ、数秒置いて、森田が「あーあ」と嘆息の声を上げた。
「頑張ったじゃない。あと少しだったわよ」
消毒剤の匂いがする更衣室で、咲希の体を拭きながら、絵里は囁きかけた。
そそくさと着替えをすませた愛美は、次の予定に急かされる感じで、すでに姿を消している。
娘は口を結び、母親と視線を合わせないまま靴下を履いて、スクール用のビニールバッグを持つ。そして、階段を上りかけたところで、忘れものに気づいたように振り返った。
「……ママ、受からなくて、ごめんね」
空気の振動を拒む弱々しい声で、母親の瞳を見つめる。
「いいのよ。この次は、きっと合格するわ」
絵里は咲希の髪を撫で、精一杯の笑顔を作った。
フロントには中学生の男子があふれ、いつもと違う騒々しさが親子二人の歩みを遅めた。別のフロアで何かの試合を終えた集団だろう。それぞれの校名を刺繍したジャージ群がドリンクやスポーツバッグを持って時間をもて余している。
彼らの間をすり抜けて、絵里と咲希は出口へ急いだ。
「近藤さん、待って!」
突然に、斜め前から呼び止められ、母親は反射的に首を回した。
森田だった。
自動販売機の前の長椅子から立ち上がり、まっすぐ近づいてくる。
「月謝、借りてたわね」
濡れた毛先をしきりに気にする愛美の横で、森田は肩に下げたトートバッグを床に置き、一刻を惜しむ様子で茶封筒を取り出した。
「二学期から、咲希ちゃんとはレッスンが変わっちゃうけど、これからも仲良くしてね」
興奮した口調で娘の後頭部に手を添え、無理やり頭を下げさせると、相手の反応を待つことなく、小走りで建物から出て行った。
母親の後ろで、愛美が名残惜しそうに手を振り、友達に遅れまいと、咲希も慌てて左手を動かす。
絵里は身じろぎせずにその場に留まり、森田の背中が見えなくなってから封筒を開けた。
千円札三枚と五千円札。それに、五百円の図書カードと一筆箋が入っている。
[今度、新しい家に引越すから遊びに来てね。水泳もずっと一緒にがんばろう!]
ペン習字のお手本めいたきれいな文字に、絵里の耳たぶと両の頬が熱を帯びた。
いくつかの感情がかたちを成さないまま濁流し、心そのものを呑み込んでしまうようだ。
中学生たちの野太い笑い声が耳の奥底に響き、傾き始めた陽射しに目を細めた。
夏の光は正面玄関のガラスを黄白色に染め、映画館のスクリーンみたいに、森田のシャツのハイビスカスの花を残像として浮かべた。
「さぁ……うちに帰りましょう」
母親は娘の手をしっかり握り、駐輪場に向かった。
おわり
■単作短篇「スイミング・スクール」by T.KOTAK
短篇小説「スイミング・スクール」 トオルKOTAK @KOTAK
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