スイミング・スクール(7/8)

「みんなの広場」からコーチと生徒が退出すると、頃合いを見計らったように老人が入口に立った。

登山帽ふうのハットとアースカラーのシャツを着て、木製の杖をついている。

前屈みで全体を見渡し、絵里の姿を労せず見つけると、口角を緩めて部屋に入ってきた。

「これ、長く借りてて申し訳ない」

他の者の目線を避ける様子で、老人は女の子向けキャラクターのポチ袋を差し出した。

「ちょっと、体調を悪くして……今日もいまから病院でな。しばらく水泳教室は見られんですわ」

くぐもった声でそう続けた後、無念さをにじませた眼差しを絵里に向けた。

「わざわざ、このためにだけ……すみません。お体、お気をつけて」

老人は柔らかな笑みを繕ったものの、明らかに生気がなく、これから病院に行くというより、病院から抜け出てきた感じだった。

それから、小さく手を振り、広場から静かに立ち去る。

あっという間の出来事に絵里は気持ちの整理がつかないまま、宮川の隣りに座った。宮川の横には森田がいて、老人の来訪を少しも気にかけることなく、ガラス越しのプールを見つめている。

「……お知り合い?」

短く問いかけた宮川に、絵里は「ええ、まあ」とだけ答えた。

「あのおじいさん……この下の幼児クラスに、お孫さんがいたらしいの」

一拍置いてから宮川が「誰かがそう言ってたわ」と右側に並んだ母親たちを見回した。

すると、「震災後に、孫の家族が大阪に越していったのよ」と、見学に集中していたはずの森田が振り返り、それ以上の会話を期待しないそぶりで目線を戻した。

老人が独り暮らしではなく、せめて奥さんと一緒だったらいい。いつか、大阪の孫と暮らせるといい――絵里は二日酔いに似た胃の重みを感じながら、森田に何も応えず、レッスンに向き合った。


生徒の検定カードを重ね持ったコーチが監視用の高椅子から手を上げ、一度入水していた子供たちがプールサイドに上がっていく。

進級テストの始まりだ。

母親たちはおしゃべりを止めて目を凝らした。水辺のいっさいの音が聞こえないので、コーチと子供の一挙一動で進行を把握していくしかない。

テストは至ってシンプルで、クロールで25メートルを泳ぎ切れれば合格だった。タイムは合否に関係なく、形がよほど悪くない限り、上のクラスに進級出来る。息継ぎを何回しようと、途中でスピードが落ちようと、プールの底に足を着かなければいい。

黄色いコースロープがプールの端から端に渡され、5つのラインを作っていたが、テストに使用されるコースは中央の一本だけ。見学者からおよそ30メートル先のスタート地点に年若いコーチが立ち、ゴール地点に女性のベテランコーチが陣取った。

子供たちは母親を視界の先に留める向きで体操座りし、自分の順番を待っている。

ベテランのコーチが手を上げると、最初の受験者が立ち上がり、プールサイドに両手をついて足から水に入った。まだ「飛び込み」を習ってないので、きっかり25メートルを泳ぐ必要がある。

水泳帽に重ねていたゴーグルを装着し、今度は子供の方が右手を上げて、「準備OK」のサインを出した。

スタート地点のコーチがホイッスルに息を吹き込み、体が動き出す。

男の子は難なく最後まで泳ぎ終え、さも当然とばかりにプールから上がり、自分の母親にVサインした。

1、2分の間を置いて、二人目がチャレンジする。

前の子よりも手足の動きがぎこちなく、息継ぎも不完全だが、時間をかけてゴールにたどり着いた。

絵里は、順番待ちの子供たちの頭を端から順に数えていく。

十二人の生徒のうち、愛美が十番目で、咲希が十一番目だ。

ベンチに座る母親たちは、あたかも自身がテストを受けるみたいに物音を立てず、たまに隣り同士で顔を見合わせるものの、二言三言のやりとりしかない。

「さぁ、今日はどうかしら……」

絵里の横で、ノースリーブのワンピースを着た宮川が薄手のカーディガンを羽織って身構えた。広場はエアコンが強めに稼働し、見学者は肌寒いくらいだ。

間断なく、宮川の息子が泳ぎ始めた。

一回一回、同じ分量の水を掻き、男の子らしい大きな動きで全部の距離をこなした。

「おめでとう!凄いわね」

明らかな上達ぶりに驚きを隠せず、絵里は宮川の横顔に言った。

やがて、凹凸のないのっぺりした水面は、公平な条件で受験者を受け入れ、30分もかからないうちに九人がテストを終えた。いまのところ、不合格者は二人だけ。

残り三人のうち、まず、森田の娘がプールに入った。



(8/8へ続く)

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