スイミング・スクール(6/8)

「それで、森田さんには会えたの?」

ソファに座る夫の文哉が、妻の持ち帰ったチラシを手に尋ねた。咲希は父親の隣りでバラエティ番組を見ている。

夏休みが始まって最初の週末。たったいま、家族三人で夕食を摂り終えたところだ。

「ううん。会わなかったわ。ハウジング会社の人に捕まりそうになったから、『また家族で来ます』って帰ってきたの」

「会えなかった」ではなく、「会わなかった」――絵里は言葉を慎重に選んだ。

「……じゃ、今度、みんなで行ってみるか」

キッチンで食器を洗う絵里から夫の表情は見えないので、発言の本気度合が分からない。しかし、結婚してからずっと、文哉はマイホームを買うことに消極的で、現在(いま)のマンションも賃貸だった。

茶碗を拭きながら、絵里は記憶の引き出しに手をかける。

ここに越してきたのは咲希の小学校入学の時だ。今年で三年目。いまのところ、不便も不満も感じてないけど、一戸建てにせよマンションにせよ、そろそろ住宅の購入を真剣に考えるべきじゃないかしら。定年から逆算すれば、ローンを組むのもギリギリの時期だわ。

リビングに戻り、夫と斜めに向き合う一人掛けソファに座って、漫然とテレビ画面を見た。

「それにしても、この時期に新築はなかなか売れないだろ」

「森田さんは思いきったわよね」

絵里は、宮川から聞いた「羽振りの良さ」を伝えようとしたが、言葉を足さずに娘に目線を向けた。

咲希は親の会話が気になるのか、チラシに印刷された地図を眺めている。

「賃貸の方が小回りが利くし、これから先、何があるか分からないからなぁ」と文哉。

パートナーの落ち着いた話し方は、言葉を覚えたての子に接するみたいに一語一語聞き取りやすいが、絵里には「小回り」の意味がピンとこない。

地震や原発事故で「これから何があるか分からない」には同意できるものの、それは不動産を得る選択とは別問題なのでは?

そんな考えとともに、絵里は建て売り住宅の瀟洒な門扉を思い出す。

もし、あのとき、新居から出てきたのが、森田本人だったらどうしていただろう……。たまたま通りかかったふりして、お金を返してもらえるよう仕向けたかな。いずれにしても、貸し借りを忘れるような人とは深く付き合いたくない。幸い、小学校では別のクラスだし、スイミング・スクールも咲希が進級すればレッスン時間が変わるわ。

「家を見に行くにしても、そこは森田さんのご近所になっちゃうからダメよ」

にわかに現実めいた妻の言葉に、文哉は苦笑いを浮かべ、娘にアイコンタクトした後でチャンネルを替えた。

「まぁそれに……この物件は高過ぎるな」

真顔で答えた夫に、絵里はその場しのぎの笑みで応え、あくびする我が子を入浴に誘った。



7月最後の月曜日になった。今日は水泳の進級テストが行われる。

母親をコーチ役にした「浴槽特訓」で、咲希は水中で息を吐く方法を覚え、息継ぎのコツを掴んでいた。

「手を大きく動かして泳ぎなさい。焦る必要はないからね。25メートルなんかあっという間だから、大丈夫よ」

玄関でスニーカーの紐を結ぶ娘に、絵里は最後のアドバイスを送る。会社にいる夫からも「頑張るように伝えて!」のメールが届いていた。

絶対に合格するわ。親子でこれまでたくさん練習したんだもん。

母親は自分自身にも言い聞かせ、玄関の鍵をかけながら深呼吸した。


絵里と咲希は「みんなのひろば」に早く着き、壁にかかった時計を繰り返し見ながら、レッスンの開始を待った。

冷房の効いた室内は、猛暑を避けるシェルターになっている。

集合時間の数分前に、宮川の後ろから森田親子が姿を見せた。

母親の森田は七分丈のパンツにアロハシャツを着て、たったいまバカンスから帰ってきたような格好だが、愛美は急いで着替えたらしく、水着の肩の部分がねじれている。

今日こそはお金が返ってくると信じていた絵里は、何も行動を起こさない森田に落胆し、胸をぎゅっと掴まれる息苦しさを覚えた。

とにかく、今日はテストに受かることが重要――気持ちを入れ替え、母親たちの他愛もない世間話に加わった。

やがて、先週とは別のベテランの女性コーチが子供たちを呼び寄せ、「さぁ、進級テスト、頑張ろうね!」と気勢を上げ、準備体操を始めた。

テスト前の緊張を隠せずに、子供たちの多くが強ばった表情で親の様子を窺う。



(7/8へ続く)

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