スイミング・スクール(5/8)


咲希の一学期終業日の前日、絵里は午前中にヘアサロンで髪を切り、駅前のカフェに寄った。

撹拌したミルクがアイスコーヒーの中で蜘蛛の巣みたいに拡がっていく。何かの暗示みたいに、ゆっくり静かに。

ヘアサロンで読んだ週刊誌の記事が気になってしかたない。それは、放射能汚染の恐ろしさを詳細に綴ったもので、震災からまだ四か月という事実を改めて思い知らされた。

原発事故の爪痕があるのに、次は首都圏直下型地震? いったいいつ、この暗闇から抜け出せるの?

自分の人生よりも、母親の絵里はは娘の咲希が大人になってからを案じた。

彼女が子供を産み、その子供が親になる頃は、夫も私も生きていないだろう。自然災害について、社会情勢について、私たちはあまりに無力だ。死にゆく者は、新しい時代を生きる者に正しい何かを遺すべきなのに……。

カフェを出るとき、カウンターに置かれたフリーペーパーが目に留まった。例の建売住宅を紹介していたタウン誌で、表紙には擬人化した猫のイラストが描かれ、[夏のダイエット特集]とある。

絵里は自動ドアを背に、空を仰ぎ見た。

南の海上で台風が発生し、一面を厚い雲が覆っている。明朝には八丈島に上陸し、今日の気温はさほど上がらないらしい。それでも、湿度が高いせいか、開襟シャツの首周りがねっとりする。

まもなく、咲希が学校から戻る時間だが、外出を伝えてあるので、少しの留守番は問題ない。

このまま足を延ばして、駅の反対側に行ってみよう。もしかしたら、森田さんが新居の近くにいるかもしれない。夏休み前のスイミング・スクールはあと一回。奢ってもらう必要はないけど、お金を返してもらうのは当たり前のこと――そう自分を納得させて、絵里は目的地を定めた。

ロータリーを半周し、東口から駅の構内へ。人の往来は少なく、キオスクと自動券売機の間で駅員がポスターを貼り替えている。

改札口正面のハンバーガーショップのガラスでヘアスタイルをチェックした。夏向きのショートを、おしゃれにうるさくなった咲希は何て言うだろう? スルーしてほしい気持ちと褒めてもらいたい気持ちを半々にして駅の階段を降り、商店街のアーケードに入った。

通りの左右では、前に家族三人で来たお好み焼き屋が全国チェーンの居酒屋になり、向かい側の手芸店も100円ショップに様変わりしている。

歩きながら、絵里は森田とのやりとりを反復した。

「また来週!」と言って去った森田に「次の月曜日は祝日だから、レッスンはお休みよ」と書き送ったメールだ。

スクールがないことを念のため知らせる親切心に加え、貸したお金を忘れさせないためだった。その一言を添えようと、文字を書いては消し、結局書けずに送信した。

そして、「再来週に会いましょうね!」 と、丸一日後に返信された文面を読み返し、相手の心中(しんちゅう)を推し量った。

私だったら、「教えてくれて、ありがとう」くらい書くわ。それに「月謝を借りたままでごめんなさい」とも。


アーケードを過ぎ、郵便局の角を曲がった場所で[モデルハウス展示中]の幟(のぼり)が風に揺れていた。雨風にさらされ、陽射しを浴びているせいか、染料がすっかり色褪せている。

少し行くと、公園の横に更地があり、歩道沿いにテントが見えた。運動会で設営される、白い三角屋根を四本のパイプで支えたものだ。

長テーブルとパイプ椅子が二脚。机上に住宅販売用のチラシが置かれているだけで、人は誰もいない。

背後から自転車のベルが迫り、絵里はテーブルに体をつける格好でチラシを取った。

前方に見える家々がキャッチコピーとともに写真に映り、簡略化された地図にアルファベットが振られている。裏面を見ると、四軒の間取りはほぼ等しく、テラスの位置やバルコニー面積の微妙な違いが価格に100万円単位の差を作っていた。いちばん近くの物件がA棟で、他の三軒と異なり、二階の一室を納戸にしている。

すれ違う女性に軽く頭を下げ、絵里は新築の建物を眺めた。ウッド仕様のポーチを植栽が彩り、門扉はデザイン重視のシンプルな造りだ。

角地に建つD棟は、他よりもゆったりした趣で、表札部分に[売約済み]のシールが貼られていた。

心臓が胸を叩く。

それに呼応するように、内側から玄関ロックを外す音が聞こえた。



(6/8へ続く)

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