スイミング・スクール(4/8)
「ねぇ、近藤さん、わたしたち、毎週こうして見学してるけど……」
宮川がゆっくり落ち着いた声色で絵里に語りかけ、一呼吸置いてから「もう三年生なんだから、本当は送り迎えだって必要ないのよね」と続けた。
たしかにそのとおりだった。
初心者クラスということもあり、親は我が子にお伴しているが、「見学」は義務ではない。子供がひとりで通い、母親は違う時間を過ごしてもいいはずで、自宅との往復が心配なら、森田みたいに娘を置いて帰っても構わない。
絵里は前方をぼんやり見つめ、過保護になりがちな自分の姿勢に思いを馳せた。
25メートルプールの向こうで生徒がコーチに一礼する。男子と女子がちょうど同じ数だ。小学校二・三年の限定クラスでも、身長にバラつきがある。
前の子に倣い、咲希がビート板を持って水の中に入っていく。
三年生だったら25メートルは泳げていい。まして、二年以上もスクールに通っているのだから、泳げないのが不思議だ。森田親子は習い始めて一年、宮川親子は三ヵ月。それなのに、咲希と同じレベルだなんて。
絵里はジーンズの腿に肘を置き、左手で頬杖をついた。
四人一組のグループが三ヵ所でレッスンを始め、咲希はコースロープを外したプールの真ん中にいる。ひとりひとりが同じ秒数潜っていき、ビート板を抱えたコーチが指示を続けた。
「……この前ね、森田さんにご馳走になったの」
宮川が周りを気にしながら絵里に体を近づけ、「旦那さんの事業が調子いいみたいで、最近、羽振りがいいのよ」と声を潜めた。
「事業って、不動産関係よね?」
相手の香水を強く感じる距離で、絵里も小声になる。
「そう、ディベロッパーよ。駅の反対側に、建売住宅が出来たでしょ?」
新聞の折り込み広告やフリーペーパーの情報を思い出し、絵里はこくりと頷いた。公務員宿舎跡を民間が買い上げ、新興住宅地として震災後に売り出された物件で、交通の便と緑豊かな環境を謳っていた。
「実はね、森田さんの家族がそこに引越すのよ。4LDKだって」
何人かの子供がいったんプールサイドに上がり、「ヘルパー」という名の補助用具を背中につけ始める。
「ご馳走されたのって、いつ? 二人だけで?」
「先週よ。子供が学校の時間に、たまたま駅前のロータリーで会ったの。そこで、ランチでもどう?って誘われてね……」
肩口を絵里に密着させて、宮川はレッスンの行方をないがしろにしたまま続けた。
「わたしと森田さんの二人きり。そのときに新居の話を聞いたのよ。腕時計も高そうなのに変えてたわ」
「いつ頃、引越すのかしら?」
「夏休み中のはずよ……愛美(まなみ)ちゃんは学校が遠くなるわね」
宮川に同意しつつ、「先週」という時間が絵里の心に引っかかった。明らかに、月謝を貸した後だ。
広場の近くにやって来た咲希のグループがクロールの練習に入っていく。
森田の娘の愛美がコーチの立ち位置まで泳ぎ着くと、間髪入れずに咲希がスタートした。息継ぎせずに一直線に進んでいくが、ゴールのわずか手前で失速し、釣り針に掛かった魚みたいに顔を上げて動きを止めた。
「……咲希ちゃん、頑張ってるわね」
宮川が声のトーンを丸める。
「腕はクロールになってるけど、ブレスが出来ないのよ」
「うちもそうよ。ここの教え方って、ちょっと温(ぬる)いんじゃないかって思っちゃうわ」
それにしても……と絵里は思う。
知人をランチに誘う前に、借りたお金を返すのが常識じゃないかしら。マイホームとか時計とか……羽振りがいいなら、財布に月謝代くらい入れておくのが親の務めじゃないの?
森田が消え去った出口を見つめて、絵里は唇を噛んだ。
(5/8へ続く)
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