スイミング・スクール(3/8)

たった百円だけど、また、他人にお金を貸してしまった……けれど、深々と頭を下げる礼節さは「八千円の相手」にはなかった。友人だし、同世代だから「助かるわ」の一言で終わるのも分かるけど、次に会ったときに返してくるのが礼儀じゃないかしら。まぁ、とにかく、今日のことは夫に黙っておこう。知っている人を助けただけよ。

絵里は心にそう決めて、咲希と家に帰った。



土日の雲の多さが一転して、月曜日は梅雨明けを思わせる青空が拡がった。

学校から戻った咲希に牛乳とドーナツを出して、絵里は両腕にUVクリームを塗り、ツバの大きな帽子を被る。水泳部だった学生時代は紫外線を気にするどころではなかったが、結婚して子供が生まれ、30代も半ばになると、しみ・そばかすが身近になり、ちょっとした外出でも日焼け対策を怠らなくなった。


熱射が照り返す住宅街を、母と子のふたつの自転車が駆けていく。

二車線の目抜通りを横断し、TSUTAYAを過ぎれば、目指す場所が見えてくる。

駐輪場は、すでにたくさんのサドルで埋まっていた。

絵里と咲希は建物から少し離れた場所でキーを抜いて、正面玄関に向かう。

一方通行路にある三階建てのスポーツクラブは、リフォームで外壁を若返らせていたものの、築30年の年季がフロントの壁やトイレの床といった微細な部分に表れている。水泳やフィットネス以外にも、ボクシングやミニゴルフなどのメニューで近隣住民に親しまれている一方、バブル時代の華やかさは遠い過去になっていた。

室内プールは地下のフロアだ。

更衣室を経由して「みんなのひろば」に行くと、子供たちが思い思いの時間を過ごしていた。

プロレスもどきでじゃれあう男の子。座っておしゃべりする女の子。その周りで、複数の保護者がいくつかのかたまりになっている。

出入口から対角線上にいた森田は、絵里の入室に気づくと、急な用件でも思いついたふうに隣りの母親と話し始めた。

平常心を装いながら絵里は近づいたが、森田は目礼のみで、会話にさも忙しいといったように別の者と談笑を続けた。

「ねぇ、近藤さん」

学校で同じクラスの宮川が絵里に話しかけてきた。

今年の春からスイミング・スクールに通い始めた男の子の母親で、齢(よわい)は40を過ぎていたが、エステやヨガの「自分磨き」でスマートな体型をキープしている。

「あなたが言ったとおり、うちもキノコ類を買うのを止めたわ」

言った後で、彼女は口をすぼめ、ブランドもののブラウスの前で腕を組んだ。TPOを心得たメイク、さりげないファッション……いかにも育ちの良さそうな話し方が母親仲間に好印象を与える。

「北関東の野菜も怖いし、キノコも買えなかったら、食べるものがないわね……うちは男の子だし、献立に困るわ」

宮川が鼻筋の通った顔をしかめ、別の小学校の母親も輪に加わると、ちょうど、時計の短針が[3]に重なり、コーチがやってきた。

「よぉっし、今日も元気に行くぞー!」

ホイッスルを短く二度鳴らし、最近まで体育学部にいた若々しさで準備運動を始め、「いち・に・さん・し」と全員をいざなっていく。

やがて、大人の会話が減り、コーチと生徒たちがプールサイドに移動すると、絵里は童話の「ハメルンの笛吹き」を思い出した。

強欲な王様のせいで、いちばん不幸になったのは連れ去られた子供だった――私が王様だったら、笛吹き男には有り余るほどの褒美を与えてあげたのに。


プールと広場を隔てるガラスは双方の音を遮り、見学者側には背もたれのない皮製の四人掛けベンチが並んでいる。

宮川に誘われるまま、絵里がそこに座ろうとしたとき、森田が出口に向かっていくのが見えた。

「皆さん、また来週ねー!」

サンバイザーを左右に振って、軽やかに階上に消えていく。

「森田さん……今日は幼稚園の行事があるんだって」と宮川。

森田家が四人家族なのは、絵里も知っている。スイミング・スクールの日は幼稚園の延長保育を利用し、レッスンが終わると急いで息子を迎えに行くのだ。

来週の月曜日は[海の日]のハッピーマンデー。スポーツクラブ自体が休みになる。そして、その次の26日が今月の最終月曜日で、進級テストが行われるはず。例年同様、8月の夏休みにスイミング・スクールはない。

「また来週ね」……森田さんは勘違いしているのかしら。いったい、いつ、お金を返してくれるの?

冷房の効いた部屋で、絵里は腋の下に汗をにじませ、胸のざわつきがもどかしさを押し上げた。

そうして、「はっ」と思い出し、見学者を中腰姿勢で見渡す。

……あの老人がいない。

出入口に近い「指定席」には別の者が座っていた。



(4/8へ続く)

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