スイミング・スクール(2/8)
◇
金曜日。母親の絵里は、国語テストで満点だった咲希を誇らしく思う反面、複雑な気持ちになった。
この子は、体を動かすより、じっくり考える方が得意なのね。
スーパーマーケットの惣菜コーナーに立つ娘を見つめて、ふと、そんなことを思う。
日中30度を越える暑さは今日も続き、西向きの窓を透過した光が、エスカレーターを上り下りする客の髪色を明るく染めている。
「ママ! パパにこれ買ってあげようよ」
弾んだ声に、絵里は視線を落として、咲希の手にある商品を見た。
[50円引き]とシールされたパッケージの中で、丸々とした唐揚げが買い物カゴに入るのを待ちわびている。
「いいわね。でも……パパは今晩遅いのよ。ご飯も済ませてくるって」
「そうなんだ……帰ってきて、スポーツニュース見ながら食べるかもよ」
「うーん、揚げ物は太っちゃうわねぇ」
母親を見上げていた娘は、不服そうに隣りの売り場に向かい、別の商品を品定めしていく。
夫の文哉は、15年に及ぶ記者職からこの春に営業部に異動した。
三月の大震災の余波だった。
「広告が一気に減ったから仕方ないよ」と顔では笑っていたが、名前そのままの文系気質の者に営業職が務まるのか、文章書きの仕事を離れられるのかと、妻の絵里は不安に思った。
「気分が変わっていいじゃない」
春先はそう励ましながらも、玄関に立つ夫を半信半疑で送り出した。
ところが、サラリーマンの適応力はたいしたもので、スーツとネクタイを嫌がることなく、目立った不平不満も口にせず、時計の針を進めている。
週に何度かの接待で、酒量は増えていたが、勤務時間が朝型にシフトしたこともあり、夕食に帰宅できる日も多くなった。一人娘の咲希には嬉しい変化だった。
六台のキャシャーを前に、店員が次々に商品のバーコードを捌(さば)いていく。
どこも長い列で、絵里はひとつ前に並ぶカゴに何気なく視線を落とした。納豆と梅干しが一パックずつ、それに発泡酒が一本。
ベージュの半袖シャツから枯れ枝みたいな腕が伸び、首から腰に向かう背骨が緩い孤を描いている。
主婦ばかりの店内には珍しい、老人男性だ。
にわかに発せられたタイムサービスのアナウンスで、その客が後ろを振り返った。
見覚えのある顔。でも、名前を知っているわけではない。
戦後の記憶を持つ年齢で、鼻の高さと白髪のボリュームに存在感がある。瞳は薄く濁り、目尻や額に刻まれた皺が「昭和」を過ごしてきたことを知らせていた。
瞬時に思い出せなかったが、絵里は老人の柔和な笑みで気づいた。
「みんなのひろば」だ。
スポーツクラブの中にあるその場所は、学校の教室ほどの広さで、子供たちが準備体操したり、レッスンを待つスペースだった。ガラス一枚を隔てたプール側の一面から、親が我が子を見守れる空間にもなっている。
老人は「みんなの広場」の長椅子に腰かけ、子供をいつも眺めていた。孫がいるのだろうと絵里は思っていたが、どうやらそうではなく、独りでやって来ては独りで帰っていく。水着姿の小学生を誰彼なく見つめる[侵入者]は、若い男だったら不審人物扱いされるだろう。しかし、高齢者に対して、母親たちは無頓着だった。
絵里は「こんなところで会うのも何かの縁」と思い、話しかけてみようとしたものの、相手は軽い会釈だけで頭の向きを戻した。
程なくして、レジの順番が回ってくる。
会計された品物が合計金額を表示し、絵里は彼の所作を直視しないよう努めたが、支払いに時間がかかり、否応なく目線を注いでしまう。
老人は小銭入れをポケットにしまうと、反対側のポケットをまさぐり、硬貨を一枚だけ追加した。ひとつひとつの動作が試運転のロボットのように覚束ない。
「あと、70円ですね」
客の列を気にした店員が、痺れを切らした気持ちを言葉に貼り付け、トレイ上の硬貨を置き去りにしたまま告げる。
老人はそれでも諦めず、小銭入れを再び取り出し、5秒、10秒と時間を費やした。
「あの……お貸ししますよ」
絵里は百円玉を彼に向けた。頭で考えるより早く、体が動いた。
「あっ、いや……わしは……」
「いいですよ、毎週お会いしてますから。次にお会いしたときに……」
顔馴染みの絵里を見つめて、老人は安堵と苦笑いの入り交じった表情を浮かべる。
「ありがとう……この次、必ず返します」
低く嗄れた声で深々と頭を下げ、節くれだった指で硬貨を受け取ると、もう一度、丁寧にお辞儀した。
(3/8へ続く)
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