短篇小説「スイミング・スクール」

トオルKOTAK

スイミング・スクール(1/8)

八千円――家族三人の外食二回分、夫の一日分の出張手当。

洗い物を確認しながら、絵里は24時間前と同じ思いに囚われた。

困っている人を助けるのは当たり前だけど、ちょっと軽率だったかな。

夫のトランクス、自分のカットソー、ユニクロで買った娘のTシャツ……それらを洗濯槽に少しばかり乱暴に入れていく。

そう、八千円あれば、娘にブランドものの服だって買ってあげられるのに。

液体洗剤を入れて全自動のスイッチを押すと、後悔の念がため息になった。


「森田さんに月謝を貸したのよ」

読売ジャイアンツの逆転劇を喜ぶ夫の横で、絵里はつぶやく程度の声で言った。

隠していたわけではなく、話すタイミングがなかっただけ。それに、お金は一昨日の月曜日に返ってくると信じていたので、あえて伝える必要もなかった。

「……ん、森田さん?」

夫の文哉は不意をつかれた表情で、テレビの音を消す。

もともと最小限に設定してあるボリュームは会話を邪魔しないが、映像のサイレント化は夫婦の慣習で、それは勉強中の娘への気遣いでもある。

「スイミングで一緒の森田さんよ。咲希の隣りのクラスの。ほら、運動会で挨拶されたでしょ」

「あー、月謝って、水泳のか?」

「そう。先週、貸したのよ。まさか、忘れてることはないと思うけど」

ソファから手を伸ばして、絵里はマガジンラックの雑誌を取り、無造作にページをめくった。話題を切り出しのは自分だが、あまり大袈裟に受け止めてほしくない。

「月謝って、いくらだっけ?」

「……八千四百円よ。森田さんに貸したのは八千円だけどね」

目線を誌面に落としたまま、軽く答えた。

そして、普段は口座引き落としなのに、スポーツクラブの都合で今月分だけ窓口払いになったこと、森田がたまたま現金を持ち合わせていなかったことを夫に伝えた。

「ま、お金は次に会ったときに返してくるだろ。それより、水泳教室の不手際が気になるなぁ」

「そうなのよ。経営がうまく行ってないんじゃないかしら。今年になってコーチが二人も辞めたのよ」

「なんか、やな感じだね……」

「森田さんもそんなこと言ってたわ。去年より子供の数が減ったしね」

結局、貸したお金は来週まで戻らない。夫に解決策を求めたわけではないが、絵里はもやもやした気持ちのまま、出窓の卓上カレンダーを見つめた。

大地震が起きて四ヵ月。

節電という単語が声高になったくらいで、ニュース報道も日増しに薄れ、東京に住む者は一年前とほとんど変わらない生活に戻っている。私だってそう……でも、スイミング・スクールのコーチが辞めたり、生徒の数が減ったのは震災の影響じゃないかしら。そう言えば、新学年が始まる前に転校した子もいたわ。

月日の経過をネガティブに感じながら、絵里は勉強を終えた咲希をリビングで迎えた。

もう入浴の時間だ。

お風呂場での[息継ぎ練習]が親子の日課になっていて、肩まで湯に浸かった娘は、コーチ役の母親の言葉に耳を傾けていく。

「水の中で、『ばっ』と叫んでごらん。そうすれば、顔を上げた時に自然に息が吸えるから。顔をつけて、いち、に、ばっ。“さん”のタイミングで水中で叫ぶのよ」

コーチの合図で、生徒はお湯に顔をつけ、ショートカットの髪を半分まで濡らした。

いち、に……勢いよく吐き出した空気が鼻先を中心に弾け、咲希は「ばっ」と同時に顔を上げて激しくむせた。

「それでいいのよ。焦らなければ大丈夫」

絵里が小さな鼻をつまむと、カールしたまつ毛の下で、草食動物に似た丸い瞳が不思議そうに見つめ返した。

かつて、スポーツクラブに咲希を連れていくことは、母親の絵里にとって楽しみだったが、この二年半で「楽しみ」はすっかり影を潜めた。

娘と同じように小学一年でスイミング・スクールに通い始め、高校の水泳部ではインターハイに出場するまでになった自分。それなのに、咲希はどうして泳げないんだろう。小学生の頃は泳ぎを習得するのが嬉しかった。でも、娘はそうじゃない。運動が苦手と言ってしまえばそれまでだけど、学び取るスピードが遅く、進級テストで足踏みしてしまう……。

お風呂から出て、母親は自分の体より先に娘の体を拭いた。

いつまでも掌の上にいると思っていたのに、二年後にはもう小学校高学年だ。自分の意思が行動を決めていく年頃だろう。

水泳は25メートルさえ泳げれば止めても構わないわ……絵里はそう自分を納得させ、使い終えたバスタオルをハンガーにかけた。



(2/8へ続く)

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