パパ・グランデの葬列

 ――井戸の底になにかが落ちた。


 頭をわし掴みにしていた手が離れると、ホホはゆっくりと顔をあげた。

 口からこぼれるよだれをすする。

 泥の苦味が口のなかにわだかまっている。

 顔面を垂れる前髪のすきまから、太陽のひかりが射した。視界で青黒い点がまだらに点滅する。ホホは目を伏せた。

 彼がその縁にしがみつく枯れ井戸の底には、数匹のミミズが落ちていた。日のあかりにきらめいている。

 ホホはふと口のなかに指を押しこんだ。奥歯に引っかかったミミズをつまみだし、外に放る。宙にくりだしたミミズは、仲間を追って、乾いた井戸の底に落下していった。

「――ホホ、ホホ!」

 どこからかグワカマヨの声が聞こえた。

 その拍子に、それまでホホをとりまいていた子どもたち――この宮殿に仕える官吏の息子たちだった――が離れた。

 凝血色の金剛鸚鵡といえば、「パパ」の愛鳥。

 おしゃべりなこの鳥に告げ口されたらたまらないと、彼らは早足でその場を去っていった。

「ナンダ、ホホ、マータミミズ食ベテタノ? ソウイウトキハオレ様ニモ言エッテ! ズルイ、ズルイ!」

 勝手知ったる顔でホホの肩に止まり、グワカマヨは口のまわりのにおいをくんくんと嗅いだ。

「アッ、ソウダ! パパ―『パパ』ガヨンデイルゾ、ホホ! モウパパカンカン! オレ様ノオドリヲミテモ、歌ヲキイテモ、機嫌ガ直ラナイ!」

 ホホはうなずいた。

 顔についた泥をぬぐい、早足で歩き始める。行くべき場所は尋ねずとも明白だった。ホホがめざすべき場所といえば、何年も前からただひとつなのだから。

 朝日の射す回廊を抜け、あおと白色の化粧タイルを敷いた床にはだしで踏み入る、乳白色の薄い紗を重ねた扉のむこうに人影があった。ホホはめのまえの布をよりわけて部屋の奥を覗きこんだ。

 茴香ういきょうの香煙がけぶるむこうに寝台があり、その傍に男のすがたがあった。

 ホホはほほえんだ。

 小走りで近づいて、突然、ホホは頬をはたかれた。力なく床にくずれおちるが、たいして傷ついた様子はない。再度そのおとがいを上向かせたとき、その眼睛はかわらず瀝青の輝きを放った。

 立ち上がって、寝台に並べられた衣装を手に取る。

 ホホの仕事は男の身の回りの世話をすること。朝の支度を手伝わなければならなかった。

 目にも綾な衣装ばかり、銀の蚕糸で織ったシャツ、紫貝で染めたゲートル、ケツァールの翼を飾ったびろうどの外套マント――そのひとつひとつを、ホホは下着姿の男に着せていって、君主らしく飾り立てていく。

「パパ、パパ、オレ様、ホホヲ呼ンデキタ。エライ? エライ?」

 しつこく周囲を飛び回る鳥に男がうなずく。すると、グワカマヨは「キャ―ッ!」と、黄色い声をあげた。

 ホホはほんのすこし苦笑した。磨きぬかれた長靴をかかげもつ。それを穿かせるための足は枯れ木のような細さだ。豚革の手袋を身につける手は、幾重もの深い皺からなる。

 さいごは仮面だ。それを男の顔にはめれば、木製の仮面は、太陽光を浴びて雷光石のように輝いた。

 男の、そのすがたかたちは老人にほかならない。

 飾り立てられ、動作はなめらか、腰も曲がってはいないが、あきらかに老人といえるいでたち。彼がいつから老いはじめたのか、あるいは生まれながらに老いているのか。彼の生きた三〇〇年は実際のところ謎に包まれている。

 赤い仮面、白膚の老君主、パパ・グランデ。

近親相姦のすえに一族は絶え、精子には種がなかったために、みずからの系譜に連なるものはいない。

まったくの孤独の君主。

 それがホホの「飼い主」だった。


 ❂


 ホホはくらやみのなかを歩いている。

 みおろす足は記憶よりもずっと小さい。

 痩せ細った腕には篭を抱いている。濡れた腐葉土を踏みしめるたび、篭のなかでとうもろこしの種がザラザラと揺れあって波打った。

 みあげる空は薄ぐらく、森は薄暮の青にみちている。蘇合香のにおいと獣の生臭さがホホの鼻を刺激した。ホホは父の服をまとい、じぶんが着られているような居心地の悪さをもてあましながら、ぼんやりとした闇のなかを歩いていた。

 やがて彼はひらけた場所に出た。

 目についた倒木に腰かける。皮が厚く苔むしているおかげで、それはクッションを敷いたようにやわらかかった。

 ホホは膝の上に篭を置いた。とうもろこしの種のいくつかを手にとったとき、正面にあったイラクサの茂みが揺れた。そのなかから、のっそりと、一匹の巨大な竜蛇ククルカンが姿を現す。黄色い羽毛、赤い鱗。全身が放つ虹色の光沢――そして、レモンの葉の清々しい香り。

 竜蛇はホホの手のにおいを嗅いだ。そして、くわえていたミミズをホホの唇に押しつけた。彼は首を横に振って、それを拒んだ。

 肥えたミミズは地面に落ちていった。下草に埋もれ、光を浴びてぬらぬらと青黒く光った。それがみょうにまなうらに焼きついた。

 竜蛇はホホが与えたとうもろこしの種を食べはじめる。ホホは笑い、竜蛇の口に手を差し入れた。濡れた牙を撫でる。その牙がけっしてじぶんを傷つけないことを知っている。とうもろこしの種を放りこんでやると、厚い舌がべろりと頬を撫でた。

くすぐったさに身をよじり、ホホは木の上に倒れこんだ。その拍子に篭が落ちる。 とうもろこしの種が地面に広がった。

 影がおちた。ホホのちいさなからだの上に、巨大なからだがあった。ホホは腕を伸ばしてあたたかな鱗に触れた。身につけた父の服がずりあがり、どこからか飛んできた黄金虫が一匹、むきだしになった肋骨にしがみついた。

 昆虫のか細い手足が皮膚に絡みつき、うごめく。

 すると、竜蛇がその黄金虫をぱくりとくわえた。彼の牙はいともたやすく昆虫を噛み砕いた。ぱりぱりと音を立てて、玉虫色の砕けた翅が鎖骨のくぼみにまで落ちてくる。まるで宝石に飾られたよう、とホホは思う。

 竜蛇はホホの全身をくまなく舐めた。陰毛さえ生えていない下腹を、舌の先でぐるりとなぞる。すると突然、ホホは不安になった。からだのずっと奥、じぶんさえも知らなかった器官が、その存在を主張するように―熱く、脈打ちはじめていた。

 

 ホホは最初、あまりの痛みに声もなく泣きじゃくった。すすると竜蛇は人の子にすがたを変えた。それは白い肌をしていたが、ホホの死んだ父親とまったく同じ顔をしていた。苔むした倒木の上で抱きかかえられながら、「父親」の放った精によって、ホホは竜蛇のつがいとしての運命を教え込まれた。

 すなわち、子を孕まされたのだった。


 ❂


 ホホは目を覚ました。

 黄金虫がブンブンと、低い位置を飛び回っていた。

 熱風が、音もなくあたりに吹きつけていた。ホホは豪奢な寝台のそば、ひび割れたタイルの上で、子犬のように丸まって眠っていた。ゆっくりと身を起こすと、生ぬるい汗がうなじをつたい、背のくぼみを流れていった。

 ホホは膝立ちになって、寝台を覆う天蓋布をつかんだ。内側をのぞきこみ、男の様子をうかがう。ふだんから、ホホは眠る男を観察することを好んでいた。

 しかしその日、男は眠っていなかった。

 男が腕の痺れを訴えるのに、ホホはうなずいた。その腕を手にとって、夜着の袖をまくる。そして、ひらかび、皺と薄い皮が重なる腕をやさしく撫でさすった。

冷たい肌だった。

これまで、と言いつけられるまで、ホホは按摩を続けた。

 そして翌朝、彼は灼けつく日のなかでふたたび目を覚ました。

「ホホ、ホホ! パパ、パパガ大変!」

 グワカマヨの声を聞きつけ、ホホは慌てて寝台をふりかえった。男は目を覚ましていて、寝台のふちに腰かけていた。

しかし苦しげに上半身を屈めている。

 その口もとから鮮血がしたたっていた。


 その日を境に、男の体調は悪化の一途をたどることになる。

 一月半後にはついぞ寝台から起き上がることもかなわなくなった。「パパ・グランデ」が死病に罹ったという話は、秘密裏に、しかしまたたくまに宮殿中が知るところとなった。三〇〇年を生きる君主にもきたるべき黄昏があった。そのことはすくなからず宮殿の者たちに衝撃を与えた。

 早々、ホホは部屋から追い出された。各地の名だたる医師、祈祷師が招集され、いれかわりたちかわり、男の部屋を訪れた。あらゆる生薬が施され、芥子湿布で全身を覆われ、時には瀉血さえも試みられた。祈祷は昼夜を問わず続いた。元来白いはずの壁は、祈祷師の焚いた火によってみるもむざんに黒ずんでいった。

 それでもめざましい効果はなかった。

容態は日増しに悪くなった。そしてある日を境に、それまで出入りをしていた人々がぱったりとだえた。

「パパ、ウルサイ! ッテ、全員追イ出シタ! パパノアンナ大キナ声、オレ様ヒサビサニ聞イタゾ!」

 そしてホホは部屋に呼び戻されたのだった。

 一部始終を語ってきかせるグワカマヨの横で、男はそれまでどおり寝台に横たわっている。ひさかたぶりに目にしたその顔は、ホホの記憶よりずっとやつれていた。

 これまで通りの生活が再開され、ホホはかわらず男の世話をした。特別なことはなにもない。男はホホの要領の悪さにたびたび小言を漏らしたし、ときには厳しく叱りつけた。以前とかわったことといえば、男が癇癪を起こすようになったくらいで、彼は自由の利かないからだをとみに腹立たしく感じているようだった。

 男が癇癪をおこすたび、グワカマヨは怯え、くるくると宙を飛び回って逃げようとした。ホホは黙ってほほ笑んでいた。彼のことをかわいそうだと思っていた。けれども命あるものは、いつかは劣化とともに潰えるものだ。そう在るしかないとホホは考えている。

 一匹の蜂が迷いこんできたのは、たえず砂嵐の音が外から響いてくる、そんな日の昼下がりだった。

 屋内にはとろけるような熱気が充満している。砂塵に汚れた天窓からは、黄色みがかった、ざらついた光が射した。ホホは床に座ってぼんやりとひかりをみていたが、ふときこえた羽音に目をやった先――横たわる男の傍で蜂が飛んでいるのを発見した。

 男の床ずれのために膿んだ肉のまわりを、蜂はぶんぶんと飛び回った。やがてある一点に着地する。はじめ、ホホはその虫を腕で振り払うべきかと考えた。しかしすぐに思いなおす。へたに刺激して男を刺されたらたまったものではない。

 逡巡の末、ホホは慎重に寝台へ上がった。

 男の腰に巻かれた、きめの粗い包帯の上で、蜂はじっと翅を折りたたんでいた。

 尻の先からわずかに針がみえている。

 透明な翅は油につやめいて輝いた。

 ホホは男の足にまたがり、身をかがめてよつんばいになった。背骨のくぼみを汗が垂れてゆく。血脂と排泄物のにおいが熱気でよどんでいた。ホホは汗ばむ手を掛布で拭いた。

そっと、ひび割れた唇を蜂に寄せる。

 そしてぱくりと、蜂を口に含んだのだった。

 弾かれたように寝台を飛び降りて、ホホは宮殿の庭まで駆けていった。庭は砂煙で曇り、なにもみえなかった。

ふるえる唇をそっとひらき、舌を外に突き出す。蜂はホホの舌でしばらくじっとしていたが、やがては飛び立った。

 しかしその瞬間、猛烈な風が吹き荒れた。

嵐のなか、蜂がちりぢりに砕け散ってゆく。

 そしてホホ自身も吹きすさぶ風に巻きこまれた。

 嵐がやんで、顔を上げたホホのくちびるの端から、唾液と血の混ざったものが、とろりと滴った。砂塵がちかちかと光を乱反射して瞬き、渦を巻いていた。ホホは熱砂をはだしで踏みしめ、埃のむこうで揺れる陽炎をみた。


 ――なにをつくっているんだ。

 ――墓か。いったい、だれの墓だ。両親か。

 幼いホホが砂の上で膝を抱えている。かれのめのまえには小石が積み上げられ、それは風にあおられて今にも倒れそうに揺れていた。

 ――おまえ、名前はなんだ。

 木の上にいた、むらさきの鳥を指さした。

 ――カラスクエルボ

 首を振る。

 じゃあ、ホホか、と男が聞く。

 ホホは笑ってうなずいた。


 ひび割れたタイルの上であぐらを掻き、ホホは抱えた皿を何度となくひっくり返した。赤豆がばらばらと床に散り、それらが成す模様をながめては、思うような結果にならないと豆をかきあつめる。そして、また地面にぶちまける。

 豆はしだいに欠け、いびつな形になっていった。

 扉を覆う紗幕のむこうから、老人の声が朗々と響く。

 隣の広間は官吏や男にゆかりのある者、権力者でごった返している。籐の椅子に腰かけた男の述べることばは、三百年に渡って彼が所有した財産、その行く末について語る。

 ホホは黙って、幼い頃、母に教えてもらった占いをくりかえしていた。かさついた指で豆をつかみ、碧色の皿に戻す。豆はひからびていて、握った先からぼろぼろとくずれてはまた欠けていった。

「イイ結果、出ナイ? オレ様ガ手伝ウゾ!」

 グワカマヨがとことこと歩いてきて、嘴で豆の位置を変えようとする。ホホはやんわりとそれを止め、変わりに鳥のやわらかい胸を掻いてやった。

 しばらくして、両脇を側近に抱えられた男が部屋に帰ってくる。朝方にはじまった遺言の儀がようやく終わったのだ。

 とうに日は暮れていた。

 ホホはそれまで遊んでいた豆をグワカマヨに与えた。そして、厨房まで走っていった。一日なにも口にしていない男のためにと、ぐずぐずになるまで煮たとうもろこしを鍋ごと抱えて戻ってくる。

「ナア、パパ。オレ様ニハ? オレ様ニハナニカクレルノカ、ナア、ナア」

 部屋に戻ると、グワカマヨが男の枕元で飛び回っていた。男は答える気力もなく、憔悴した様子で横たわっていた。

 ホホはとうもろこし牛乳アトゥールを匙ですくった。男の口もとに差しだしたが、芳しい反応はない。ホホはまだあたたかなそれを指ですって、男の唇を丁寧に湿らせた。

「パパ、パパ、オレ様ニモ、ホホニモ、ナーンニモ無イノ? 残念ダナァ。オレ様モトウモロコシ畠トカ、キレイナツガイノ鳥トカ、欲シカッタナア」

 ホホはグワカマヨをそっと抱きかかえた。

 そして眠る男の顔を、長いあいだ、みつめたのだった。


 ホホは眠りについた。

 そして夢をみた。

 ホホは男と踊っていた。

 青空は澄み渡り、大地に果てはなかった。

 砂埃が立ち、風が猛烈に吹きすさぶ。あたりはまたたくまに嵐の様相を呈した。破裂する風はまるでにぎやかな花火の弾ける音。ホホは男の手をしっかりと掴んで、なおも踊りつづけた。

風や砂はふたりの足もとをすくい、その四肢をむざんにちぎりとった。

 からだが散り散りになって、ほうぼうに飛んでいく。

 まだ踊る。だんだん、からだの機能が死んでいく。目がみえなくなる。ものが考えられなくなる。指先や肌の感覚が消える。

それでも、彼と繋がっている確信がある。

 運命のつがいとは、そういうことだと知っている。

 言葉が伝わらずとも、意思の疎通がかなわずとも、たしかに繋がっている。ホホは彼を通して運命のつがいを夢みる。この身のひからびるような孤独を退け、もっとも 幸福であるための夢を。



 夜明。

 男はみずからその身を棺に横たえた。

 びろうどの布を敷き、白い蘭の花をまいた石の棺は窮屈そうで、ホホはじぶんが幼い頃閉じ込められていた木箱を思い出した。

 棺のなかを覗きこんで、口いっぱいにミミズを含む。

 男は苦笑した。腕を伸ばし、弱弱しく、ホホの鼻先を、汗に湿ったその黒髪を撫でつけた。

 ひんやりとした風がホホのうなじを撫でる。

 あたりには、清々しいレモンの葉のにおいが満ちている。死臭などどこにも感じ取れない。男の冷たい手を握れば、ひとことふたこと、囁きが返ってくる。

 感謝か、離別のことばか。あるいはもっと別の何かだったのか。声は掠れ、ほとんど聞き取れなかった。ホホはそれでもかまわないと思ってうなずいた。

 ――竜蛇の腹には、「運命のつがい」が存在するという。

 ホホはめのまえの男に出会ったことこそが、運命だと信じている。だからこれは永遠の別れではない。言葉を伝えられずとも、約束がなくとも。時空を越え、姿かたちを変え、彼はきっと何度だってホホに会いにきてくれるだろうから。

 そうしたら今度こそ。どんな形だって。

 

 ホホは死にゆく男を見送った。

 彼はこの土地を永劫に去った。

 けれども悲しくはない。きっと彼にはまた会えるだろう。

 らせんをのぼるように、同じような出来事をくりかえし、試行錯誤を重ねながら、ふたりにとってのあるべきすがたを探すのだ。たとえば時にミミズを拒んだり、それを丸呑みにしたりする。父の姿ではなく、老人の姿をとったりする。そうすればいつか至福は訪れるだろう。この身の孤独は永遠に退けられる。そのとき「彼」がめのまえにいることをホホは願っているし、確信さえしているのだ。

 

 ――東の海を越えた先、羽毛ある蛇たちの住まう国で、いつかまた。

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竜の腹 黒田八束 @yatsukami

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