断章、二
生きている。
――生きている!
もはやあの狭くきたならしい箱の中ではない。
彼は
あまりに眩しく、涙があふれた。目脂がしみ、鼻先がつんと痛んだ。それでも彼はひかりを凝視せずにはいられない。
彼は風通しのよい、ひび割れた、しかし清潔なタイルの上に横たわっていた。
風がとどろく。どこからか舞い込んだ砂塵が汗ばんだ膚や体毛に絡みつく。そして太陽の熱を全身に浴びている。
ひかりは痛いほどの熱量だった。
そのとばりのむこうに陽炎があった。
彼は目をしばたき、その正体をつまびらかにしようとした。徐々に輪郭がとらえられるようになると、ふいに、からだじゅうの血肉が沸き立つのを感じた。これまでの長いあいだ冷え切り、生きているかも判然としなかった肉体がめざめる。彼の腹奥に在る、いまいましい、あの器官さえもが鳴く。
彼はどうしようもない情動に駆られ、叫ぼうとした。
生まれながら声をもたない彼は、そのとき、たしかに何ごとかを口にしたのだった。無音の叫び。必死になって、ひかりのむこうの影を追い求める、そのために。
伸びきった爪が宙を掻く。何度も空を切った指先が、ふいに、なにものかに触れた。蠢動するいきもの。やわらかい羽毛の先端。そこに爪を立てれば、なめらかな鱗の感触が掌をすべる。彼は歓喜した。しがみつき、めのまえの羽毛にかぶりついた。歯を立てる。
もう二度と離さない。
血の味がした。舌が痺れた。彼は無心になってそれに噛みついた。レモンの葉の、清々しいにおいが鼻腔をつきぬけていった。
彼はしだいに力を失い、やがては床の上に放り投げられた。荒い息をついて、呆然と頭上をみあげる。
「正気に戻った」
男の声がする。
横たわる彼の真正面には老人がいる。その首には傷があった。傷口からはまあたらしい血が流れ出ていた。
「パパ、パパ。コレハ人間ダヨネ? オレ様、ツガイノ可愛イネエチャンヲタノンダ! アノ商人、間違ッテル!」
どこからか一匹の金剛鸚鵡が現れた。
かん高い声で騒ぐ鳥の相手をする老人を、彼は眺めた。先ほどまでしがみついていたはずのいきものは、影もかたちもなかった。この暑気であってもびろうどの
鳥はひとしきり老人にむかって文句を言い、今度は彼を覗きこんだ。そして、威嚇するように低く唸った。
「ドウミテモ、人間! スゴク痩セテイルシ、ニオウ! バッチイヨ、パパ!」
老人は無言でうなずいた。
彼の前で膝をつくと、検分するようにからだに触れてくる。彼は全裸だった。人攫いによって誘拐され、長いあいだ水も食糧もなく狭い木箱に閉じこめられ、商品としてどこかに運ばれていた。そのためにみすぼらしく痩せ細っていた。関節の節々が痛かった。腹と両足には乾いた排泄物がこびりつき、役割を果たせない乳首は炎症で膿んでいた。
老人は遠慮なく彼の足をこじあけた。そのとき、彼は清々しいレモンの葉が香るのを嗅ぎつけた。
まなうらに、薄暮の湿った森がひらめく。
太陽光にぬくんだタイルに投げ出した腕をかかげる。こぶしを開くと、いったいいつから握りしめていたのか、ひとひらの鱗があった。
手のひらからこぼれ落ち、やさしい赤色にきらめいた。
「めずらしい。竜の腹だ」
「リューノ腹?」
「神に見棄てられたこの土地では無用ないきものだ。そのまま南の港まで運ばれてしまえば
「オレ様ノミミズヲアゲル!」
言うが早いか、勢いよく飛び立った鳥はどこからかミミズをくわえて戻ってきた。生きたそれを老人の手に置き、誇らしげに胸を張ってみせる。
老人は溜息をついた。
「お前はほんとうに愚かでやくたたずだな、グワカマヨ。そういうときは人が食べられるものを持ってくるもんだ」
「ヒドイ! オレ様、ガンバッタノ二……」
老人の手でうごめくミミズをみて、彼の頭にある印象がよぎった。
よく肥えたミミズ。
赤色の鱗。傷ついた老人の喉もと。
彼は口を開いた。そして懸命に舌を突き出した。
「まさか」
老人は失笑した。
しかしそのうちにミミズが口のなかに落ちてきた。親に餌を乞う雛鳥のごとく従順に、彼はそれを受け容れた。噛む力がなかったために、唾液で喉奥まで流しこむ。
虫の粘膜は苦く、土の錆びた味が口内にわだかまった。
どうにかミミズを嚥下して、彼はその瀝青の眸で熱っぽく、老人をみつめた。
そこにいるのは人間だ。首に傷を負ったひとりの老人。
けれども彼の心には確信がある。
あの日出会い、ついには彼の人生さえも狂わせた「運命のつがい」。
その彼がここに在ることを。
「彼」は白膚の老人であり、竜蛇であり、時に目にみえないすがたをしているにちがいない。じぶんが箱のなかで長い旅をしたように、「彼」もまた魂の旅をしているのだと彼は思った。神である彼にとって時などないにひとしいのだろう。時間のらせんをくるくるとかけおり、かけのぼる。そのなかで同じような出来事をくりかえし、試行錯誤をしては、あるべき姿を捜し求める。
そのさなかで、何度だってじぶんと出会うのだ。
――運命のつがいであるがために約束された「運命」があるならば、きっとそうにちがいないと彼は思った。流転し、変質する生の奔流のなかでただひとつ確かな、出会いという運命。
爽やかな風が駆けてくる。彼のからだを撫で、老人のまとう外套や鳥の羽毛を揺らして、いたずらに去っていく。
突然、堰を切ったように老人が笑い出した。
「愚かだ」
ミミズを与えた手が、汚れた髪に触れる。
「―神のための腹ならば、私の子も産めるか」
なおも笑いを噛み殺しながら、老人がささやく。
「まさか。冗談だ」
灼けつくような日の光が天窓のガラスに砕け散り、真下の老人にふりそそいでいる。蝋色の膚は虹色につやめき、赤い仮面は雷光石のように輝いた。
目映い光を前にして、彼は目を細めた。
口もとにはほほ笑みがあった。
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