願い


揺れる箱の中で、目の前に広がる景色は暗く、泣いていた。

いつものように目まぐるしく移り変わっていく景色を、何を見るでもなく見つめていた。

片手に濡れた傘を持ちながら。


いつもの駅で降りた時、後ろから肩を叩かれた。

「はよ、憐」

おはよう、と振り返った目の前にいた真白に、同じように返しながら、心の中では別の気持ちが広がっていた。

「りんたは?」

「えっ…」

考えていたことを言われて驚いて真白を見上げた。

そんな私に真白は少し驚いたような顔をした後に続ける。

「あー、…いや、いつもお前ら一緒にいるから今日はどうしたのかと思って」

「うん…」

そう返して、その次の言葉が出てこなかった。

「なんかあったの?」

何の気もないようにさり気なく聞く真白。



彼は幼い頃からいつも皆んなの中心にいるような人で、明るく、優しく、いつも一番最初に人の気持ちを考えてしまうような人だった。



「んー…やっぱり、あたしが間違ってたのかも」


嘘をついて、彼を好きじゃないままに、彼のそばにいることを望んでしまった。


「…たとえお前が何か間違えたとしても、あいつは変わらないと思うぞ」

「うん。わかってる。わかってるから…」

余計辛い


真白の顔を見ると、言葉が消えた。


なんて顔をしてるんだろう


私を見るその表情だけで、彼が何を思っているのかが伝わりそうで。



けれど私には、何もわからない。


それがまた腹ただしかった。



「真白…?」

今何を考えてる?



そう言おうとしたら真白の手が私の頰に伸びてきた。

「真白…」

どんどん苦しそうな表情になる真白の手が、私の頰にそっと触れた。



同時にヒヤっと冷たい彼の手に驚いた。




「なんて顔してんだよ…」

彼の顔と比例したように苦しそうな彼の声に、自分の心臓がギュッと掴まれたように感じた。


「え…」


なんて顔をしてるんだろうと思ったのは私で、

苦しそうな表情をしてるのは真白。



「そんなに苦しいならもうやめろよ…」




苦しい?私が?


誰の気持ちも理解できない私が


苦しい?


苦しいなんて思ってない。


「苦しいなんて…」


彼の手が私の頰をなぞった時、気がついた。

自分が涙を流していたことを。



「違う…

私が苦しいんじゃなくて…

真白が…。


違うの…なんで…」



私の言葉が彼に届くたび、彼の眉間の溝が深くなっていく。悲しい顔になっていく。

それを見るのも辛くて、言葉が詰まる。


また私が…



その瞬間景色が変わった。

私の頰にあった真白の掌が耳の後ろに、私の首にある。


真白の顔が見えなくなる。

彼の後ろにあった景色が私の目の前にある。




何度電車が横を通り抜けただろう。


どれだけの人が私たちを後ろに歩いて行っただろう。


今は何時だろう。


授業は始まってしまっただろうか。


彼は、

学校にいるのだろうか。




そんな別の何かが私の頭をよぎった。





「そんなの…当たり前だろう

自分の大切なやつがそんな、苦しそうに、悲しそうに泣いてるんだから…

自分も同じ顔になるに決まってるだろ」



「違うの…」


彼の腕をそっと押して、彼を見上げた。



こんなに温かい彼に、こんなに悲しい顔をしてもらうような価値など、私にはない。



「苦しくないのよ。苦しいのは私じゃないの。

私が…太陽を傷つけたの…

だから、真白にこんなに優しくしてもらえるような…」

「憐」


私の言葉を遮るように、真白が私を見つめて言う。


「言ったろ。お前が何をしても、俺はお前の側から離れたりしないって。」

「真白…」


彼のその言葉で時間が戻されたかのように、幼かったあの頃を思い出した。



「それに、今更お前に愛想つかせたりなんてしねーよ!

昔っから世話焼かされてるんだからな!何年の付き合いだと思ってんだよ。なめんな!」


何もかも吹き飛ばしてしまうような、昔から変わらない笑い方で、おどけたようにそう言う真白につられて、いつの間にか自分も涙が止まっていた。



「ありがとう」



そう言うと、何が!と笑って歩きだした真白の後を追って、駅を出た。



「あれ…いつの間にか晴れてんな。」



そう言って空を見上げた真白と同じように、明るくなった空を見上げた。






彼は今、何を思っているだろう。


彼も今、同じように空を見上げているのだろうか。




それは、ずっと私にはわからないんだろう。












「もう来ないのかと思った」


昼休み。結局遅刻した私に、遠慮がちに、戸惑いながら、微笑んで言う太陽を見て、きっと自分も同じ顔をしているんだろうと思いながら、彼に謝った。


「なんで謝るの…」

悲しそうに笑って私を見る。




ああ、また私は、君にこんな顔をさせてしまった。






屋上で、風が吹いている。


膝の上で、風に乗ってスカートが揺れる。


雨の匂いがする。


空でも、前の感情を引きずったりするのだろうか。


今は太陽が私たちを照らしている。


それは、どれだけ手を伸ばしても、手の届かないところにいる。

そんなことは、とうの昔に気づいていた。




「ごめんね」


もう一度


「憐…」


私の手を取って、ぎゅっと握りしめた。

その手は、とても暖かかった。

自分が暖かいのだと錯覚するほどに。



わかっていたのに。

自分がとても冷たいことを。


自分が冷たいから、この手を暖かく感じるのだと。




そして私は、誰も暖かくできないことを。




わかっていた。充分すぎるほどわかっていたはずなのに。





「別れて下さい。」


彼の目を見つめる。



みるみるうちに彼の表情が変わる。

まるであの時のように。

君が私を好きだと言ってくれたあの時のように。



けれどあの時とは正反対で、

彼の顔はどんどん苦悩に歪んでいく。

悲しみに歪んでいく。




そんな顔を見てまた胸が痛い。

私が苦しむ資格などないのに。


これで最後。

彼をこんな顔にさせるのは最後だから。


どうか許して。


誰に願っているのか自分でもわからなかった。

けれど、願わずにはいられなかった。



再び彼に笑顔を。



この世の全てを味方につけたような眩しい笑顔を。










けれど私が側にいてはそれを見ることはできない。

奪ってしまう。






そんなこと、もうしたくはないから。

お願いだから、あなたから離れることを許して。



あの時とは全く違うことを、今私は願った。












「どうして…?」

絞り出したような声で、一言だけ彼はそう言った。



「もう嫌なの」

「え…」

「太陽にそんな顔をさせるのが」



私の言葉に、はっとしたような顔をした彼を見て、

ああやっぱり離れた方がいい、と思った。









「全部嘘だったの」


そう言うと太陽は伏せた目を再び私に戻した。


「全部嘘だった。

太陽が私に好きだって言ってくれた時、私は太陽を好きなんかじゃなかったの。」



そう言うと、握った手が冷たくなった気がした。

これは私の体温だろうか。




少しの沈黙の後に、優しい彼の声。

「知ってたよ」


そんな思いもしなかった彼の言葉に、思わず彼の目を見返した。


「憐が俺のこと好きじゃなかったのなんて、知ってたよ。

それでもいいと思ったんだ。

俺のことを好きじゃなくてもいい。

俺は憐が好きだったから、憐が俺を好きじゃなくてもいいと思ったんだ。」



そう言ってまた私の手を強く握りながら目を見つめる。

彼の瞳はいつでも綺麗だ。



その中に映る私を見たくなくて、目を逸らした。



「俺が願ったんだ。

憐が俺を好きじゃなくても、それでもいいと思ったんだ。側にいたいと思ったんだ。


だから、別れるなんて言わないでよ…」



消えてしまいそうな彼の声に、また胸が痛む。




苦しい。

いつも私は彼をこんな顔にしてしまう。

そんなこと望んでいないのに。




「もう私がいやなの。

分からないの。

もう1年くらい経つけど、分からないの。

真白や夕汰と同じように太陽が好き。

でもそれが恋愛と違う気持ちなのか分からない。

昨日のあなたの気持ちもわからないの。


こんな私じゃ…

こんな、私と一緒にいたら、ずっと、今みたいな顔をさせる。それを、分かってて、今までと同じように、太陽のそばに、いれない…」



悲しくて悲しくて、

苦しくて、痛くて、自分ではどうすることもできないこの感情を、抑えるすべも私は持っていない。




いつの間にか涙が止まらなくて、嗚咽交じりになる言葉。


嫌悪感さえ感じた。

別れを一方的に告げているのは自分のくせに、

彼よりも先に涙を流す。


泣く資格なんてない。

そう思うのに、涙は止まってくれない。

なんて酷い女だろう。


私は自分が大嫌いだ。





「お願いだから、泣かないで…」

そう言って太陽は私の頰を拭った。


「ごめんなさい…ごめ…なさっ…」

ちゃんと伝えたいのに、言葉すらちゃんと出すことができない。



「憐…謝らないで…

俺が…

俺があの時憐に好きだなんて言ったから…こんな辛い思いさせちゃったんだ…

謝るのは俺の方だよ」



どうして

どうして君はこんな時でも

これほど優しいのだろう。


悲しいくらいに君は優しい。





「ちが…」



伝わらない。

どうしても伝わらない。

どんな言葉を言ったら私の心が君にちゃんと届くのだろう。



ぶんぶんと首を横に振り、彼の制服を強く掴む。

「違っ…違うの!違う…

太陽は何も悪くないの…っ!違うの

嬉しかったの…

私を好きだと、言ってくれてっ…

嬉しかったの…!

側にいたいと、思ったのは、私の方だし、辛い思いをさせたのも、私の方…!

だから…っ、太陽は悪くないっ…

謝らないで…!!

ごめ…ごめんなさい…っ」



太陽が私を強く強く抱きしめるのを、私は変わらず嗚咽交じりに、抱きしめ返した。



「わかった。わかったから…

憐の気持ちはわかったよ。

大丈夫だから、もう泣かなくていいよ…

お願いだから、泣かないで。謝らなくていいから…」




わかったよ


そう言ってくれる彼に、また悲しくなった。

私は彼を何も分かってあげられなかったのに。










どうかお願いです。

彼の笑顔が戻りますように。





そう願いながら、私は青空を見た。

変わらず輝く青空を。





私は彼に別れを告げて


私は彼の笑顔を願った

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あの時本当は少しも君を好きじゃなかった サシマ エイジ @eiji_sashima

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