路地裏のスクルージ

陽澄すずめ

路地裏のスクルージ

 冷たい風が、切り裂くように頬を掠めていった。鼓膜まで凍りつかせる音を立てながら、その風はひゅるりと狭い路地を通り抜けていく。それを追うように視線を動かすと、往来を行きかう人々の姿が目に入った。

 あぁ、ちくしょう。

 男は擦れた声で呟いた。しかしその言葉は誰の耳に届くこともなく、白い水蒸気となって空気中に霧散した。

 背中をもたせかけたレンガの壁が、既にほとんど残っていない彼の体温を根こそぎ奪い取っていく。パン屋の壁ならかまどの熱で少しは温かいのではないかと予想して選んだ場所だったが、まったくの期待外れだった。

 それもそのはず――と、男は後になって気づいた。路地をつくる壁と壁の間に見える大通り。そこを歩く人々は皆、色とりどりの包装紙で飾られた大きな包みを手にしていたのである。誰もが明るい顔をして、軽やかな足取りで家路を急いでいた。

 今夜はクリスマス・イヴか。

 パン屋の壁が死んだように冷たいのは、休業日だからか。もっとも、例えかまどに火が入っていたとしても、この壁が身体を温めてくれたかどうかは彼にはわからなかった。

 ひゅるり、とまた一陣の風が駆け抜けていった。男はぼろぼろの上着を掻き合わせ、膝を抱き寄せた。もはや手足にほとんど感覚はなく、冷たい石畳に載せた尻はじんじんと痺れていた。

 もう何日も、何も口にしていなかった。いちばん最近食事にありついたのはいつだったか。それも思い出せないほどに、思考が麻痺していた。空腹感も度が過ぎると、身体の中心にぽっかりと穴が開いたような感覚になるのだ。自分自身を保つために重要なものがすっかり抜け落ちている。体力だとか気力だとか、そういったものが全てその虚無のような穴に吸い込まれて、跡形もなく消えてしまった。そんな気がした。

 まもなく陽が落ちる。

 見上げた空は小さく切り取られていたが、どんよりと厚い雲に覆われていることだけはよくわかった。今にも雪が降り出しそうな鈍色の空だ。クリスマスに雪とは、世間の人々にとってはさぞ幸運なことだろう。しかし彼にしてみたら、今宵の生存確率を下げるものでしかない。雪を避けられる場所を探して移動するほどの体力は既に、彼には残されていなかった。

 クリスマスに死ぬ男の話があったな。彼はぼんやりした頭でふと思い出した。

 あれはどんな話だったかな。冷血な守銭奴の男が三人の精霊に出会って――

 いや、違うな。死んだんじゃなかったな。三人目の精霊がその男に無残な死に方をする彼自身の未来を見せて、新しい生き方を提示するんだ。

 いずれにしても俺とは似ても似つかない男の話だ、と彼は自嘲気味に小さく笑った。今日を生きるためのパンすら買えない彼が守銭奴であるはずもなかったし、新しい生き方どころか生きることそのものを選ぶ余地さえ残されてはいなかった。不公平だ、と彼は思った。金持ちの男には未来への希望が与えられるのに、何も持っていない彼にはそもそも明日の陽の目を見ることすら怪しいのだ。

 どちらかと言えば、と男は小さく息をついた。俺には『マッチ売りの少女』の方がよほど近い。雪の降る夜に誰からも見向きされず、一人で寂しく死んでいく少女の方が。あの哀しいだけの物語は、一体何を思って書かれたのだろう。あの少女の人生には、はたしてどんな意味があったのだろう。

 俺の人生には――と彼はそこまで考えて、ふと自分がすっかり死ぬつもりでいることに気がついた。そして同時に、死ぬことに対して何の感慨もないことに――生に対して何の執着もないことに、気がついた。

 俺は寂しい人間だな。彼はまた自嘲気味に口元を歪め、目を閉じた。次にこの瞳が厳しい現世を映すことはもうないだろう、そう思いながら。


 しかしそれから幾ばくも経たぬうちに、男は再び目を開けた。人々の喧騒でも風の音でもない、別の何かが聴こえた気がしたのだ。

 彼はその音を発したものを探すようにわずかに視線を動かしたが、辺りは先刻より濃い闇に沈んでおり、自分の手足の輪郭すら曖昧だった。

 気のせいだったかと再度まぶたを閉じかけた瞬間、同じ音が今度は先ほどよりもはっきりと彼の耳に届いた。

 ――にゃおん。

 彼は重たい首を動かし、目を凝らした。すると闇に融けるような黒い身体と、そこから金色に浮かび上がる二つの眼を、彼はようやく捉えたのだった。

 それは、黒猫だった。

 死神の使者が、とうとう俺を迎えに来たか。不思議に光る金色の眼を見つめながら、男はそう思った。

 だが、悪くない。猫は嫌いではなかった。なぜなら彼自身が、野良猫のような生活を送ってきたからだ。世間から弾かれた日陰者という意味合いにおいて、彼と野良猫は似たもの同士だった。

 しばらくの間じっと男のことを静視していた黒猫は、やがて彼のほうにするりと近づいてきた。にゃおん、と甘えたような声を出して彼に身を擦り寄せる猫を見下ろしながら、やけに人に慣れた猫だと思ったとき、彼は気づいた。

 その黒猫は野良猫などではなく、飼い猫なのだ。その証拠に、首にはリボンが巻かれている。しかもそのリボンは、宵闇のせいで地の色こそわからないが、金糸で縁取られた上等のもののようだ。

 このリボンひとつで、何日か分の食料にありつけるかもしれない。何の警戒もなく身を寄せているこいつをつかまえて、リボンを剥ぎ取り、金に換えに行くんだ。今まで何度となくやってきたじゃないか。猫どころか街行く人々から金品をかすめ取って、生活の足しにするなんてことは。

 そうは思ったものの、男の身体は少しも動かなかった。わずかに残された力を振り絞ればあるいは、猫をつかまえることぐらいできたかもしれない。しかしそれでも、動くことができなかった。ある一つの疑問が、彼の身体を縛っていたのだ。

 ――はたして、どんな意味があるのだろう。そんなふうにしか繋ぐことのできない、この卑しい人生には――と。

 もはや指先に触れる黒猫の身体があたたかいのかどうかさえ、彼にはわからなかった。

 やがて猫はすり抜ける風とともに、光る街の中へと去っていってしまった。


 いつの間にか、辺りはすっかり静まり返っていた。ただどこかの家から漏れてくる楽しげな声だけが、聴こえよがしに男の耳に届いた。

 路地から見える往来には、既に人の影はない。冴え渡った空気を煌々と照らす街路灯の明かりが、彼の吐く息でぼんやりと霞んだ。

 もう終わろう。

 そう思ってまぶたを閉じかけたとき、再び何かの音がそれに制止をかけた。

 次は何だ。自分の邪魔をする音の正体をつかもうと耳を澄ますと、今度は目のほうが先にそれをとらえた。

 建物の陰から現れたのは、あたたかそうなぼんやりとした明かりだった。それは路地の端から徐々に顔を出し、いちばん大きくなったところでぴたりと止まり――

 再度、音を発した。

「ルルちゃん?」

 少女のものと思しき高い声の後、躊躇うような足音が光とともに男のほうへと近づいてきた。そしてゆらゆら揺れるそれが彼の顔を照らしたとき、はっと息を飲む音が空気を震わせた。

 男は明かりに顔をしかめながら、凍ったように立ちすくむ少女の姿を眺めた。

 ひと目見て、上流階級の家の子だとわかる娘だった。十歳前後だろうか。小さな身体を覆う丈の長いマントはいかにもあたたかそうで、首元には毛皮のマフラーが巻かれていた。揃いの毛皮の帽子に包まれた顔は白く、小さな手に携えたカンテラの灯が怯えたような瞳の中で揺れた。

 しばしの沈黙の後、少女はおずおずと口を開いた。

「あの……こんばんは」

 白い息が少女の唇からこぼれては立ち昇り、そして消えていくのを虚ろな目で見上げつつ、男はじっと口を閉ざしていた。少女はそれに尻込みながらも、二の句を継いだ。

「……ルルちゃんを――黒猫を、見ませんでしたか? このくらいの大きさで、首にリボンを、しているの」

 勘弁してくれ。

 男はもはや、目の前の少女が身につけた毛皮の値段に思考を巡らすこともしていなかった。自分はただ、静かに眠りたいだけなのだ。彼女が拡げた手の幅はちょうど先ほどの猫と同じくらいの大きさを示していたが、そのことを教えるのも億劫だった。

 男が黙っていると、少女は更に言葉を続けた。

「あの、今日はクリスマス・イヴで、パパが帰ってくるから……パパは船乗りなんですけど……だから、久しぶりに家族が揃うから、ルルちゃんも一緒じゃないと……」

 少女の声は途切れ途切れで、言葉尻はついに消え入ってしまい、それと入れ替わるようにして今にも泣き出しそうな表情が彼女の顔に浮かんだ。

 その少女がどれほど猫を探し歩いているかは知らない。外にいる時間なら男のほうがずっと長いだろう。加えて彼女には帰る家もあれば家族もいるが、彼には何もない。彼女に同情する理由は何ひとつとて存在しないのだ。しかし――

「……そういう猫なら……さっき見た」

 喉から漏れ出た声に、男は自分で驚いた。だが少女の顔に希望の光がぱっと灯ったので、彼は言葉を続けざるを得なくなった。

「……この路地を抜けて、大通りに出て行った。それほど前じゃない」

「本当ですか? ありがとうございます……!」

 少女は泣き笑いの顔で礼を言うと、くるりと踵を返して大通りへと駆け出した。

 これでようやく眠れる。男は少女の背中を眺めながら息をついた。

 彼女に黒猫のことを教えたのは、決して同情からではなかった。とにかく解放されたかったのだ。彼をこの世に繋ぎ止める何もかもから。

 今までの彼であれば、あのような金持ちの娘にただで情報を渡すなどということは考えられなかった。相手の欲しい情報を引き合いにパンでもブローチでも、何か身になるものを要求しただろう。

 だが今の彼にとっては、それらのものにもう意味などなかった。せこい取り引きでこの汚い命を繋ぐよりも、一刻も早く現世と彼とを繋ぐ唯一のもの――彼が手にした黒猫の情報――を放棄して、身軽になりたかったのだ。

 少女の姿がちゃんと大通りに消えるのを確認してから、目を閉じよう。そう思って男は小さくなる彼女の背中に視線を注いでいた。

 しかし彼女は、なぜか路地の終わる直前でぴたりと足を止めた。そして振り返り、あろうことか再び彼のほうへと駆け寄ってきたのだ。

 何だ。まだ何かあるのか。

 カンテラの灯がまた目の前で揺れている。男は苛立ち、傍までやってきた少女を睨みつけるように見上げた。彼女はそれに臆することなく、口を開いた。

「あの……寒くないですか?」

 何を今さら、わかりきったことを。いいからもう、放っておいてくれ。

 男はただ白い息をくゆらせることで、その問いかけに応えた。それを肯定と受け止めたのか、少女は一人で小さく頷いた。

「あの、これじゃあ、あまり役に立たないかも知れないけど……」

 そう言って彼女は自らの首に巻いた毛皮のマフラーを外すと、男のすぐ傍にしゃがみ込んだ。そして半ば強引に、それを彼の首へと巻きつけたのだった。

 あまりに突然のことで、男は身じろぎひとつできなかった。

「メリー・クリスマス。あなたに少しでも、あたたかい朝が訪れますよう」

 囁くような声が耳元で鳴り、眼前の白い顔に笑みが浮かんだ。

 少女のやさしいまなざしは逸らすことなく彼に注がれ、彼の心をも照らし出す。

 彼女の瞳にはたゆまぬ慈しみと、ほんの少しの哀しみの色が灯っていた。

 それは男に、幼いころ母に手を引かれて見た聖母像を思い出させた。あの、何もかもを許し、誰しもを等しく包み込むような微笑みを。

 やがて少女は立ち上がり、マントの裾を少し直すと、今度は振り返ることなく大通りへと消えていった。


 男のいる路地はすっかり闇に融けていた。いつの間にか風も止んでいる。ただ時だけが音もなく、夜の深いところへとひたすらに足を進めているのだった。

 既に男の意識は夢かうつつかもわからぬところを行き来していた。しかし不思議と、もう寒さは感じなかった。

 少女の巻いてくれた毛皮のマフラーが、彼を守ってくれている。そんな気がした。

 以前もこんなことがあったかも知れない。男はぼんやりと思った。

 あれはいつのことだったか――思い出そうとするよりも早く、そのときの出来事がくっきりと彼の脳裏に蘇ってきた。



 とても寒い、冬の日だった。

 彼は幼い弟の手を握って、家路を急いでいた。色とりどりに踊る街並みはいかにも楽しげで、彼の足取りもいつもより軽かった。

 首元には、母の編んでくれたマフラーがある。決して上等ではない毛糸で編まれたものだったが、それを巻いているだけで何だか誇らしげな気分だった。

 弟がいるのとは反対側の手には、ヤドリギの枝が握られていた。通りの並木の枝が見事な赤い実をつけていたので、ひとつ手折ってきたのだ。これをプレゼントしたら、母は喜ぶだろうか。その気持ちが彼の足を更に急かすのだった。

 家に着き、粗末な扉を開く。

 狭い台所では、母が珍しくオーブンを使っていた。

 ――あら、おかえりなさい。寒かっただろうに。今日はクリスマス・イヴだから、市場のお肉屋さんが余った肉を特別に分けてくれたんだよ。

 七面鳥じゃなくって鶏の手羽だけどね、と付け加えた母は、それでも嬉しそうに微笑んだ。

 食卓には、珍しく父の姿があった。

 ――今日は炭坑の仕事を早めに切り上げて帰ってきたんだ。

 無口な父はそれだけをぽつりと言うと、彼と弟の頭をくしゃりと撫でた。

 このところ父は、少しでも賃金を稼ぐために遅くまで帰ってこないことが多かった。久々の家族揃っての夕食に、彼は嬉しくなった。

 彼は弟にそわそわと目配せし、後ろ手に隠したヤドリギの枝を母の目前に差し出した。

 そして二人で声を合わせて、言った。


 ――メリー・クリスマス!



 なぜ、今こんなことを思い出すのだろう。

 お世辞にも良いとは言えない人生だった。

 父が死に、母も倒れて孤児となってからは、こそどろのような真似ばかりをしてきた。あからさまに人に疎まれ、罵詈雑言や暴力を浴びたことも山ほどあった。必死の体で守った弟は、流行り病で呆気なく死んだ。それからずっと一人きりで生きてきたのだ。

 ひどいことばかりが目立つ人生だ。あまりに惨めで、この世に生を受けたことを恨んだ。

 自分を置き去りにした父や母を、恨んだ。

 それなのになぜ、こんなことを思い出すのだろう。

 なぜ、父の大きな手のあたたかさや母のやさしい笑顔ばかりが、浮かんでくるのだろう。

 あぁ――。

 消えゆく意識のなかで、男は思った。

 あの少女は、黒猫に会えただろうか。家族揃っての夕食を迎えられただろうか。

 きっと、あたたかい夜を過ごしているに違いない。

 なぜなら今夜は、クリスマス・イヴなのだから。

 遠く幻のように聴こえる楽しげな声に、家族に囲まれて幸せそうに揺れる少女の笑顔を見た気がした。

 彼は目を閉じ、あのとき彼女に返せなかった言葉を、そっと呟いた。


 ――メリー・クリスマス、幸せな聖夜を――……


 いつしか、雪が降り始めていた。

 天から降りてくる粉雪は、まるで天使の羽根のようにふわりふわりと宙を舞う。そして路地に横たわる男の身体を、ゆっくり、ゆっくりと覆っていく。

 男は静寂に身を包まれながら、やがて覚めることのない眠りに落ちていった。





「まったく、こんな日についてないな」

 ほう、と白い息をくゆらせながら、二人の警官はその狭い路地に立っていた。

 この街自慢の見事な石畳は、一晩じゅう降り続いた雪ですっかり覆われてしまっている。その雪もようやく止み、空は徐々に白みつつあった。夜明けの遅いこの街で、多くの住民はまだ夢から目覚めていないようだ。弱々しい明かりを灯すガス灯が、朝の訪れを待ち侘びるように立ち尽くしている。

 警官の足元には、雪に包まれた何かの塊がある。二人はそれを、面倒臭そうな表情で見下ろしていた。

 それは、一人の男の死体だった。パン屋の女将から連絡を受け、二人ははるばる詰所から駆け付けたのだった。

「おおかた酔っ払いか何かだろうが、こんな寒い日じゃあ凍死するのも仕方ないな」

 二人は胸の前でさっと十字を切り、一方は死体の脇にしゃがみ込んだ。身元を確認するために雪を払うと、みすぼらしい衣服が現れる。どうやら浮浪者のようだ。しかし――

「おや?」

「どうした?」

 ちょうどそのとき、太陽の光が路地に差し込んだ。それまで薄暗かった路地が、白い光で満たされる。清らかな日差しは、横たわる男の身体にも等しく降り注ぐ。

 彼の顔には、不釣り合いな毛皮のマフラーに包まれたその顔には――穏やかなやさしい微笑みが、浮かんでいたのだった。

 彼の全身を包む雪はあたたかな光を浴びて融け始め、きらきらと輝き出す。まるで朝の訪れを喜ぶかのように。

 男の傍らにしゃがんだ警官が、頬を緩める。

「こんなに幸せそうな顔をして。最期に何か良い夢でも見たんだろう」

 相棒の肩越しにそれを認めたもう一人も、頷き微笑む。

「そうだな。我々も早く仕事を片付けて、早く家に帰ろう。あったかい家族が待ってるんだ」

 二人は顔を合わせる。

「何と言っても今日は、クリスマスだからな」


 いつの間にか街は目覚め、家々の煙突からは煙が昇り始めていた。

 往来には、ちらほらと人の姿も見える。あちこちから明るい挨拶の声が聴こえ、街じゅうを満たしていく。それはやがて美しいハーモニーとなり、澄み渡った空にすっと昇っていくのだった。


 メリー・クリスマス――!

 メリー・クリスマス――……



―了―

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