ラブレターを君に


 少女が再びうちへやって来たのは、きっかり三ヶ月後のことだった。


 春が過ぎ、季節は夏に移り変わった。店の外では蝉の声が絶え間なく響いている。


 かららん。

 ドアベルの音。扉に目をやると、彼女は居た。


 切り揃えられた前髪の下から覗く円らな瞳。それを縁取る長い睫毛。薔薇色の唇。

 色素の薄い髪は、前に会ったときより伸びていた。


 生成色の、三段フリルのワンピース。斜め掛けしたキャラメル色のポシェットに、レースの付いた短い靴下。薔薇模様の丸い靴。手には可愛らしいデザインの紙袋と畳んだ日傘を提げている。


 汗ひとつ掻いていない、涼しい顔。

 人形は口を開く。


「今日のおやつはなぁに?」


 あどけない声。

 恋しく思っていた声だ。


「マドレーヌだよ」

「マドレーヌっ? わたし、大好きよ!」


 云うなり、縁は軽やかな足取りで駆け寄り、私の目前の椅子に腰掛けた。


 紅茶とマドレーヌを盆の上に載せカウンターに運ぶと、縁は一冊の本のページを捲っていた。


『夜光虫』。

 先日発売された、分島晶午の最新作。

 ついさっきまで私が読んでいたものだ。


「お茶が入ったよ」

「あ、うん……ありがとう」


 何処かぎこちない様子の縁は、本を閉じるとカウンターの端に置いた。


 不思議に思いながらも、私は二客のティーカップとマドレーヌの載った皿をカウンターに並べる。

 私が椅子に掛けるのを待って、縁はティーカップに手を伸ばした。それを口元へ運ぶと、ゆっくり睫毛を伏せた。すうと香りを鼻腔に含み、口を付ける。細く白い喉が小さく動く。そしてひと言、


「美味しい」


 と云った。


 私もカップに手を伸ばし紅茶を口に含んだ。ふわりと芳醇な香りが鼻に抜ける。口内に広がる、僅かな渋味。その奥から、仄かに甘味が追い掛けてくる。

 縁に目をやると、マドレーヌを小さな口で食んでいた。一口齧ってはもぐもぐと咀嚼し、飲み込む。それを繰り返している。小動物のようだ。


 不意に、目が合った。

 マドレーヌに齧り付いたまま、縁はぱちぱちと睫毛を上下させている。その様子に思わず噴き出してしまった。柔らかそうな頬がみるみる紅くなる。

 マドレーヌを嚥下した縁が、血色のよくなった頬をぷうと膨らませた。不満を訴える眼差しは却って微笑ましいくらいだ。


「もう、笑わないで!」

「ごめんごめん」

「むぅ……!」


 縁はますます頬を膨らませた。

 そしてぷいとそっぽを向いた。猫のような仕草だった。

 どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。


「ごめんよ、縁」

「ふん。加賀美くんなんてもう知らない」


 困った。

 普段はお菓子や紅茶で機嫌を取るのだが、残念ながらどちらも既に献上している。そもそも今回の場合、それが逆効果なのは目に見えている。子ども扱いしないで! と、更なる怒りを買うだろう。

 どうしたものかと考えを巡らせていると、縁が横目で私を見た。視線がかち合う。そして、ぷっと笑った。


「変な顔」

「え、」

「だって、真剣に困ってるんだもの。なんだか可笑しくて」


 ころころと笑いながら、縁は云った。

 すっかり機嫌が直っている。泣いた烏がなんとやら、まるで子どもである。

 呆れる傍ら、安堵もした。胸を撫で下ろす私を知ってか知らずか、


「いいわ。許してあげる」


 少女は尊大ぶって云った。


 縁は優雅な仕草でティーカップに口を付けた。

 音もなく紅茶を吸うその姿は絵になった。映画のワンシーンだと云われたら信じてしまいそうだ。そのくらい遜色ない。

 ひと口だけ紅茶を嚥下した縁は、静かにカップをソーサーに置いた。

 そして、ついでに、と云いながら、膝の上の紙袋をカウンターの上に置いた。


「はい。お土産」


 縁はにこやかに云って、私の目前まで紙袋をずいと滑らせる。

 可愛らしいデザインのそれには、ふたつ折りの茶封筒らしいものが入っていた。取り出してみると、それなりの重量がある。外観から察するに、ハードカバーの本くらいのサイズか。

 縁の視線に促され、封筒の包みを開く。半分に折られていた部分を伸ばし、封を見る。封にはふたつ糸巻きが付いていた。私は糸を解き片方に巻き付けて開封する。

 封筒の中に手を入れ、最初に触れたものはマットな質感のなにかだった。さらりとしたそれは、恐らく本の装丁だろう。つまり、中身の分厚いこれは想像した通りハードカバーの本らしい。

 取り出してみると、見たことのない意匠の装丁だった。


 濃紺の地に、薄青の光の粒が散りばめられている。

 夜空に光る星か、水面に揺らぐ海蛍か。いずれにしても、幻想的なデザインである。

 そこに、銀色で文字が箔押しされている。


『夜光虫』、分島晶午。


 私がついさっきまで読んでいた本だ。

 なのに何故だろう、


「装丁が、違う」


 私の手元にある『夜光虫』は、黒地に白い印字の極シンプルな装丁だった。

 自分の分のティーカップを脇に避け、二冊を並べる。

 見比べてみると、書体こそ同一だがデザインの違いは明らかだ。


 縁は小さく笑んで口を開く。


「数十冊しか刷られなかった、未来の稀覯本よ。特別なお得意様に贈るためのものだから、市場には出回らないの」

「どうしてそんな貴重な本を、どうして僕に? そもそも、どうして君が?」

「それはね、」


 少女は一層口角を上げた。


「わたしが特別なお得意様だから、かな」


 特別なお得意様。

 出版業界に伝でもあるのか。


「わたしはもう一冊持ってるの。だから、あげる」

「でも、……貰えないよ」

「あら、どうして? 好きなんでしょう、分島晶午」

「そうだけど……」


 私の煮え切らない態度が気に入らないのか、縁は薔薇色の唇をへの字に歪めた。


「わたしからの贈り物は受け取れない?」

「そういうわけじゃないんだ。だけど、」

「もう! なんなの!?」


 沸点を超えたらしい少女は、勢いよくカウンターの天板を叩いた。ティーカップの中の紅茶が波を立てる。彼女の顔を見れば、頬をぷっくり膨らませている。


「大人しく受け取りなさいよ、加賀美くんのおたんこなす!」

「おた……!?」

「要らないなら売っちゃえばいいじゃない、本屋さんでしょ!? 将来高値で売れるわ、きっと!」

「う、売らないよ!」

「なら受けとるのッ?」

「う、うん」


 思わず頷いてしまった。

 よくわからない理屈で捲し立てる縁の勢いに負けた。そう思うよりない。天板に載る未来の稀覯本を見つめ、私は溜め息を吐いた。


 一転して満足そうな顔になった縁は、分かればいいのと云いながらティーカップに手をやった。紅茶を一口嚥下して、ふうと一息。いちいちが絵になる。

 暫く眺めていると、ふたつの瞳が私を捉えた。上下する長い睫毛が大きなそれをより際立たせている。


「なぁに?」

「……いや、なんでもないよ」

「ふうん。変なの」


 見惚れていた、など。

 口が裂けても云えまい。


 彼女から受け取った『夜光虫』をカウンターの内側にしまい、紅茶を啜る。口に含んだ紅茶は幾分か冷めていた。


 縁はふたつ目のマドレーヌを食んでいた。半分まで食べ進めると、


「そうだ、加賀美くん。なにかおすすめの本はなぁい?」


 と唐突に云った。


「この前来たとき、本を買わなかったでしょう? どうせなら、加賀美くんのおすすめが読みたいなぁって」


 そういえば、三ヶ月前彼女はなにも買わずに帰ったのだったか。

 私は徐に立ち上がり、新書の書架へと足を向けた。


 新書の書架は、古書のそれほど密度がない。書籍の背が棚を埋めてはいるものの、質量は古書をうんと下回っている。書架の数自体、古書の四分の一もないのだ。

 そんな数少ない新書の書架の一番奥に、下段だけ棚板を一枚外して大判の書籍を納めている。図鑑や児童書、画集など、店内で唯一ジャンル分けされていない区画だ。

 その中から私は一冊の本を迷いなく抜き取った。


 横長の、夜空が描かれた表紙。

 夜露に煌めく草花、瞬く星。

 天を走る列車を、ふたりの少年が見上げている。

 宝石を散りばめたような、美しい装丁。


 児童書としては比較的大きなそれを、縁に手渡す。

 本を受け取った彼女は、小さな感嘆の息を溢した。


「綺麗……」

「だろう?」

「『銀河鉄道の夜』ね。とても好きなお話だわ」


 縁は表紙を開き、ページを捲る。

 ページが進むに連れて、縁の表情がみるみる明るくなった。幼い子どものように瞳をきらきらと輝かせる彼女を見て、この本を勧めてよかったと思った。


「本当に素敵。どうしてこの本を?」


 挿絵にすっかり目を奪われている様子の縁は、本に視線を落としたまま問うた。


「前に、宮沢賢治が好きだって云ってたろう。なら、文庫や全集は揃えているだろうと思った。でも、この本は文章は文庫なんかと同じだけど絵本だから。この本なら、君は持っている確率はそう高くない。それになにより、」


 不意に、縁が顔を上げた。

 無垢な瞳が、私の顔を見上げている。


「この本は、君によく似合う」


 縁は暫く惚けたように瞬きを繰り返していた。けれど幾度目かの瞬きのあと、長く黒々とした睫毛に縁取られた円らな瞳が、溢れんばかりに大きく見開かれる。白く滑らかな頬は、上気したように紅く染まった。薔薇色の唇が美しく弧を描く。艶やかなそれがうっすらと開いて、


「それはとても光栄だわ」


 大人びた言葉とは裏腹に、彼女の顔は

 いたいけな少女の満面の笑みだった。


 思わず息を呑んだ。


 どくどくと逸る鼓動。

 全身を巡る血液が沸騰しているのではないかと錯覚するほど、身体が熱を持っている。

 血流の音すら知覚してしまいそうだ。


 ひゅうと勢いよく酸素を取り込む。本当に呼吸を忘れるところだった。


「わたしって、加賀美くんの目にこんなに素敵に映ってたのね」


 不意に、縁が云った。


 その言葉が妙に照れ臭くて、擽ったい。

 羞恥心を散らすように髪を掻き乱し、観念して深く息を吐いた。


「そうだよ。君はいつも――きらきらと、輝いている」


 解き放った言葉に、少しだけ後悔した。

 青臭く、あまりに拙い。勿論本心なのだけれど、吐露してしまったことに対しての面映ゆさが勝っていた。

 居た堪れなくなって、私は自分の爪先に目を落とした。


「……嬉しい」


 ぽつり。

 鼓膜を揺らした縁の声に、反射的に顔を上げた。

 頬を紅く染め上げた彼女の、柔らかく優しい微笑。


「わたしにも加賀美くん、きらきらして見えるから。お揃いね、わたしたち」


 彼女の言葉に、微笑みに、心臓が騒いだ。


「この本、頂くわ。お幾ら?」

「お代はいいよ」


 ポシェットに手を掛ける縁を制し、私は云った。


「え、でも……悪いわ」

「未来の稀覯本のお礼だよ」

「だって、それは――」

「君が僕にあの本を贈ってくれたように、僕だって君に贈りたいんだ。プレゼントさせてくれないか、この本を」


『銀河鉄道の夜』。

 幻想的な、美しい挿絵の一冊。

 君に、似合いの。


「……わかった。ありがとう、加賀美くん」


 困ったように眉を下げ、彼女ははにかむ。平素よりほんの少し大人の貌だった。


 本を裸で持ち帰らせる訳にもいかないので、一旦縁から本を預かり、うちの紙袋を着せる。もっと気の利いた包装が出来ればいいのだけれど、生憎とお誂え向きのものはうちにはない。

 屋号の印字された紙袋を着た本を、再び彼女に手渡す。


「ありがとう。大切にするわ」


 彼女は、まるで宝物のように紙袋を抱き締めた。


 それが無性に、なにものにも喩えようのないくらいに、嬉しかった。


「じゃあわたし、そろそろお暇するわ」


 音もなく縁は立ち上がった。長いスカートの裾がふわりと揺れる。左手に日傘を携え、手提げの付いた紙袋の代わりに無味乾燥な紙袋を大事そうに胸の前で抱えている。胸の奥が柔く疼いた。


「お茶、ご馳走さま。とっても美味しかった」

「どういたしまして」

「次のおやつも期待してる」

「はは、期待に応えられるよう頑張るよ」


 どちらともなく笑みが溢れ、くつくつと笑い合う。そして緩やかに収束し、静寂が降り注ぐ。


「じゃあ、またね」

「うん、また」


 控えめな跫を立てながら、ドアに足を進める少女。かららんとドアベルが鳴ると同時に、夏の風が吹き込む。長い髪が風に揺れた。


「加賀美くん」


 背を向けていた筈の縁が、私に呼び掛ける。


「プレゼント、宝物にする。だから加賀美くんも、大切にしてね」


 少女と女性の中間の貌をして、彼女は云った。

 小さな笑みを残して、夏の陽射しの下へ駆けて行った。



 ドアベルが鳴った切り、店内は痛いほどの静寂に支配された。一抹どころではない寂しさが此処にはあるのだろう。

 また会えると、解っていても。


 そう云えば。

 カウンターの内側にしまった蒼い『夜光虫』、まだ目を通していなかった。自ら買い求めたものは既に読了している。客の少ない店だ、どうせなら読み比べてみようと思い立ち、手を伸ばした。


 装丁以外、目立った差違はないように思う。本文や書体、ノンブルのデザインに至るまで、黒い『夜光虫』と蒼い『夜光虫』は同一だった。

 ページを繰り、中程まで読み進めた頃。


「あ、」


 スピンの色が違う。


 スピンは、本の背の上部に綴じ込まれたリボン状の栞である。その色が違うのだ。黒い『夜光虫』のスピンは、深い青色だった。それに対して、蒼い『夜光虫』のスピンは淡い青色だ。

 装丁の意匠に合わせての合わせての配色だろう。デザイナーの拘りを感じる。


 スピンを背表紙に送り、再び本文を読み進める。

 二度目でも物語の世界に引き込まれる。圧倒的な筆力。分島の実力を思い知らされる。

 時間が経つのも忘れて没頭した。気が付けば物語も終盤で、あと数ページを残すのみだった。一気に読んだ。相変わらず、お世辞にも爽快とは云えない読後感。しかしそれが私には心地よい。

 本を閉じようとして、はたと気付く。

 見返しに、うっすらと影が見えた。

 一ページ捲る。すると、そこには。




 親愛なる加賀美くんへ


           分島晶午




 どうして分島が私の名前を。

 なんの関わりもないのに、親愛とは一体。

 どういうことだ?


 それに、この文字……


 線の細く、美しい字体。

 これは、女性の筆によるものではないのか。


 不意に、彼女の言葉を思い出した。


 ――ちょっとの間、来られなくなるの。

 ――締め切りがね……。


 締め切り、とは。


 そして、彼女が再びこの店にやって来たのはきっかり三ヶ月後。


 速筆で知られる分島なら、入稿から三ヶ月で製本から出版まで訳ない筈だ。


 ――わたしが特別なお得意様だから、かな。


 著者には当然、その本は贈られただろう。


「…………まさか、な」


 思い過ごしに違いない。

 椅子に深く腰掛け直し、背凭れに身体を預ける。

 天窓から、傾き掛けた陽光が注いでいる。


 眩しさに一瞬、目が眩んだ。

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ときめきに死す ららしま ゆか @harminglululu

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