ラベンダーの君と


 問.百合坂縁をひと言で表せ。


 私はその設問に、最適の答えを見付けられずに居る。


 百合坂縁。

 縁と書いてよすがと読む彼女は、非常に個性的で、奇天烈で、そして不思議極まりない人物だった。少なくとも、私の目にはそう映った。

 容貌からして非凡である。

 胸元まで伸びた色素の薄い髪。切り揃えられた前髪の下から覗く円らな瞳。それを縁取る長い睫毛。薔薇色の唇。

 少女人形と見紛うばかりの美貌。

 けれどその表情は、万華鏡のようにくるくると変わる。あどけない言動が、非現実的な彼女を現実の人間と認識させている。


 事実、年端も行かぬ少女なのだ。


 十五か、十六か。多く見積もっても十八。

 背丈も手足もまだ小さくて、未成熟な印象しかない。

 一回りも歳が離れていれば、仮令同じ人間でも未知の生き物に等しい。私は縁という少女を、実は小指の爪ほども理解していないのかもしれない。


 かららん。

 ドアベルが鳴った。扉が閉まると同時に、軽やかな跫が近付いて来る。

 十中八九、件の少女である。


「おなかが空いたの。おやつを頂戴、加賀美くん!」


 柔らかそうな頬を上気させ、少女は云った。


「うちは君の家じゃないのだけれど」

「あら、わたしは加賀美くんちのおやつが食べたいのよ」

「うちは喫茶店でもないよ」

「知ってるわ。本屋さんでしょう?」

「僕の家業を把握していてくれて嬉しいよ」

「どういたしまして」


 皮肉も通じない。

 縁の笑顔に、私は深く溜め息を吐いた。



 私の家業は本屋である。

 チェーン店でない、この頃数の少なくなった町の書店だ。新書も一応扱っているが、古書の方が多い。実際、客の殆どが古書目当てにやって来る。と云っても寂れた書店であるから、店内に客の姿はほぼない。

 それなのに、


 いつの間にか、少女は居る。


 店内から客が消えると何処からともなく現れて、茶だの菓子だのを要求する。そしていいだけ寛ぎ、本を一冊求めて嵐のように去っていく。

 否、嵐と云うより猫と云う方が的確か。気が向いたときにやって来て、飽きるとそっぽを向いて出ていく。

 けれど、野良猫と云うには彼女は美しすぎた。

 容貌だけではない。

 身に纏う衣服すら、豪奢で突飛なのだ。


 フリルがたっぷりあしらわれた、ランプの傘のように膨らんだスカート。丸い大きな襟のブラウス。襟元を飾るリボン。

 少女趣味を絵に描いたような出で立ち。

 その色彩は淡く、それでいて華やかなものだ。


 少女はスカートの裾を揺らしながら私に駆け寄り、カウンターの前の椅子に腰掛けた。

 古書の売買や商談に使う簡素な椅子も、縁に掛かれば高級なそれに見えてしまうから不思議だ。スカートをふんわり広げて座っている様はまさに精巧な人形のようである。

 縁はカウンターに肘を突くと、手の甲にすっきりとした顎を乗せた。そして、私の顔、いや、目を上目にじっと見つめた。潤んだ唇は綺麗な弧を描いている。なんだか不敵だ。


 私は再度深く息を吐き、眼鏡のブリッジを上げた。


「紅茶でいいかい」

「勿論」

「コンビニのロールケーキしかないけど、」

「構わないわ!」


 縁は肘を突いたまま自身の頬を両手で包んだ。浮かれている。そのうち鼻唄でも歌い出しそうな勢いだ。

 少女の機嫌を損なう前に、私は流しへと向かった。



 翡翠書房――私の店の屋号だ――は私の実家の増築部である。私が寝食を営む生活空間と密に接している。店のカウンターの、すぐ後ろの扉を開ければそこは流しだ。簡素な二口のコンロとシンクがあり、隅には冷蔵庫が、向かいの壁には食器棚が二棹据えてある。

 私は食器棚からケーキ皿とティーセットを取り出し、闖入者をもてなす準備を始めた。

 湯を沸かし、ティーポットとカップを温める。紅茶に煩い縁のせいで、ゴールデンルールがすっかり身に付いてしまっている。

 茶葉を選ぼうと食器棚に向き直り、そして気付く。

 食器棚の一角を占める、紅茶の缶。

 アッサム、ルフナ、キャンディ。

 ニルギリ、ディンブラ、ヌワラエリア。

 私は平素、紅茶は飲まない。この茶葉たちは、全て彼女のために集めたものだ。気紛れにやって来る、猫のような少女のためだけに。

 キャンディの缶を手に取る。軽い。蓋を取ると、三分の二ほど減っていた。それだけ縁のために紅茶を淹れたということだ。


 私は、いつの間に――

 彼女にこんなに気を許していたのだろう。


 それだけではない。

 私は、彼女を、


 ……思考を無理矢理中断した。


 あり得ない。

 許される筈がない。

 私と彼女は一回りも離れている。

 それに彼女は、


 まだこどもだ。


 薬缶がぴいと音を立てたので、慌てて火を消した。



 私は盆にティーカップとロールケーキを載せ、カウンターへと戻った。

 縁はカウンターの前には居なかった。店内を見回すと、書架のすぐ脇で本を手に佇んでいた。小豆色の、分厚いハードカバー。タイトルはこの位置からは窺えない。装丁を見るに、古書ではなく新書である。

 縁は表紙をひと撫でし、ふうと小さくて息を溢した。物憂げな表情に、不覚にも胸が疼く。

 不意に縁は顔を上げ、此方を見た。

 滑らかな白い肌。薔薇色の唇。上下する睫毛。大きな瞳が煌めく。

 本当に人形のような顔をしている。印画紙に焼けば有名なタブローにも見劣りしないだろう。

 しかし、口を開けばやんちゃな――外見の年齢より遥かに幼い、子どもそのものだ。それなのに、どうしてか指先の仕草だけは大人びている。

 彼女は外界ではどのように振る舞っているのだろう。こうも傍若無人なのだろうか。私はいつも不思議に思っている。


「あら、お茶が入ったのね。ありがとう」

「あ、ああ……」


 人形は人間の表情を浮かべ、本を書架に戻した。そして軽やかな足取りで駆けてくる。

 椅子を引き腰を下ろした縁の前に、ティーカップと皿に移したロールケーキを置く。縁はフォークを私の手から奪い取るや、柔らかなスポンジを思い切り突き刺した。細切れにされたロールケーキは次々と小さな口に運ばれ、質量を減らしていく。私は彼女の向かい、いつも腰掛けているせいでやけに草臥れた椅子に腰を預けると、紅茶に口を付けた。


 私には紅茶の味はよくわからない。

 熱く、ほんのり渋味のある香り高い液体。

 ただ、縁と飲む紅茶は美味しいと思う。砂糖も入れていないのに、不思議と甘く感じるのだ。


 カップの中の波紋をじっと眺めていると、視界がじわじわと曇り始めた。私は眼鏡を外すと、カーディガンの裾でレンズを拭った。


 かちゃん。


 目前で銀色のなにかが動いた。それは考えるまでもなく、縁の手の中のフォークだ。ぼやけた視界の中心で、少女が戦慄いた。


「か、加賀美くんって、……」

「うん?」


 縁の震える声に息を呑む。

 沈黙が空間を支配する。

 時計の秒針が厭に大きく聞こえる。

 背中に冷や汗が滲み出す頃、縁はすうと息を吸った。そしてひと言、


「可愛い!」


 と叫んだ。


 暫く意味が分からず惚けていると、縁はずいと顔を近付けた。レンズなしでもピントが合うほどの距離。思わず大きく身を引いたが、ひんやりとした掌に両頬を思い切り掴まれ叶わなかった。


「加賀美くんって意外と若いのね。予想外だわ。三十路って云っていたから、もっとおじさんだと思ってた」

「歳のことは云わないでくれないか、これでも気にしてるんだ」

「あら、どうして?」

「どうしてって……」


 頭が痛い。

 理由など、本人に云える筈がなかった。


 縁の手を振り払い、私は再び眼鏡を掛けた。

 レンズ越しにぷっくり頬を膨らませた縁が鮮明に見える。人形のような顔が一気に人間らしくなる。


「と、とにかく、可愛いと云われても男は嬉しくないよ」

「まあ、最上級の褒め言葉なのに」

「女の子に対してはそうだろうけどね。少なくとも僕は喜ばないよ」

「なァんだ、そうなの」


 急に興味を失くしたように、縁はつまらなそうな顔をした。ロールケーキをぱくりと口に放り込み、むぐむぐと咀嚼する。こくん、と小さな喉が動いた。フォークを皿の縁に置くと、ティーカップを手に取り両手で支えながら口を付ける。

 一挙一動がいちいち絵になる。

 見惚れながら、つられて私も紅茶を啜った。


「加賀美くんは、」


 カップに口を付けたまま、縁は唐突に声を上げた。


「加賀美くんは、誰が好きなの?」


 本当に唐突だった。


「……は、」


 彼女の真意を測りかねていると、


「わたしはね、宮沢賢治。特に『注文の多い料理店』が好きなの。加賀美くんは?」


 ……。


 …………。


「……は?」

「だから、好きな作家。本屋さんでしょう? ひとりくらい、居ないの?」

「…………ああ、作家ね」


 勘繰ってしまった自分を呪いたい。

 そもそも目の前の少女は、恋だの愛だの色気付いてはいないのだった。


「僕は……そうだな、最近は分島晶午をよく読むよ」


 分島晶午は新進気鋭の小説家である。

 二年前彗星のように文壇に現れ、デビューから一年と経たないうちに有名な賞に数作ノミネートされた。しかしその素性は一切謎に包まれている。受賞こそしていないものの、重厚な本格ミステリはうちでもよく捌けている。


 分島の名前を出した途端、縁は大きな目をこれでもかと云うほどに見開き、静止した。瞬きすらしない。


「縁?」

「え、あ、うん。分島晶午ね、そっか、ふぅん。……面白い?」


 今の縁の様子の方が面白い、とはとても云えなかった。


「ゴシックホラーに通ずる構成が興味深いよ。書籍として流通している分は全部目を通したけど、テーマを人間の闇に絞っているのも作風によく合っているね。トリックの奇抜さに頼らないところもいい。文章も、新人とは思えないほど繊細で巧みだし、読後感は憂鬱だけれど慣れてしまえば逆に心地いい。最新作の『エウロパの角度』は特によかった。僕は好きだよ」


 素直に感想を述べると、縁はそう、と云ったっ切り黙り込んでしまった。


 なんだか居心地が悪くなり、視線を泳がせる。視界の隅では縁が、疾うに空になっているだろうティーカップに口を付け続けている。

 この空気だけがざわざわとした場を取り成す言葉が見付からない。視線をうろうろさせながら、私は懸命に言葉を探した。

 けれど上手い台詞は浮かばず、結局視線はカップの中に落ち着いた。微かに波打つ紅い水面には、私の凡庸な顔が映っている。


 そんなとき、少女は勢いよく立ち上がった。


「加賀美くん!」

「な、なんだい」

「わたしと分島晶午、どっちが好き!?」


 ……。


 …………。


「……はぁ?」


 突然過ぎて間抜けな声しか出ない。

 常々奇矯な子だとは思っていたが、この発言は予想だにしなかった。しかし目の前の少女の顔は真剣だった。縁はカウンターの上で両手を固く結んで、唇をきゅっと噛んでいる。その様子に、思わず身体が強張る。


「どっちが好きって、比べられるものじゃないだろう」

「どうしてっ?」

「だって……見知った女の子と新人作家とじゃあ分野もなにもかも違うじゃないか。同じ真魚板の上に載せなきゃ比べられないよ」

「むぅ……」


 人形の眉間に皺が寄る。

 縁は不満の二字を顔に書いたまま再び腰を下ろした。


「一体どうしたんだい。君らしくないじゃないか」


 そう云ってから私は、縁のことをなにも知らないのに気が付いた。何処に住んでいるのかも、素性も、なにも知らない。聞いたことがなかった。彼女の本当の歳すら私は知らないのだ。もしかしたら、百合坂縁という名前ですら本物ではないのかもしれない。


 少女は頬を膨らませたまま、私を注視している。恨めしげなのに顔が可愛らしいものだから何処か面白くて、つい笑ってしまった。すると縁はますます頬を膨らませる。


「笑うなんて、酷いわ!」

「ごめんごめん、つい」


 苦く笑いながら宥めると、縁は形のいい眉をハの字に下げて、


「わたし、真面目に聞いてるのに……酷い」


 大きな瞳にみるみる薄膜が張っていく。

 これには流石に狼狽した。

 いい歳をした大人が、幼気な少女を泣かせる。

 なんて場面だ、眩暈がする。


「ご、ごめん。笑うつもりはなかったんだ。本当にすまない」


 縁は泣き出す寸前の顔で私を見上げた。

 潤んだ瞳が私を責める。

 私は仕方なく、目の前の少女と気鋭の新人作家を俎上に載せることにした。


「君と分島のことだけれど、結論を云うとやっぱり比べられないよ」


 縁はひゅっと息を吸った。

 異議を唱えようとする彼女を片手で制し、私は続ける。


「どうしてかと云うと、それは僕が人間としての分島をなにも知らないからだ。勿論君のことだって全て分かっているわけじゃないけれど、こうして面と向かって言葉を交わしている。だから君がなにか訴えるときどんな表情をしているのか分かる。でも分島はそうじゃない」


 縁はじっと私の話を聞いている。


「分島が書くのは小説であって、随筆じゃない。虚構なんだ。彼がなにを思いなにを感じるのか、読者には知る術はないんだ」


 努めて理論的に私は語る。

 言葉を砕き、噛んで含めなければならないほど、縁は馬鹿ではない。振る舞いこそ奇矯だけれど、実はものすごく知的なのだと私は考えている。


「……と、ここまでが建前なのだけどね」


 縁は幾らか水分の減った瞳をぱちくりさせた。

 私は特に気にせず続ける。


「比べられないとは云え、君はうちのお得意様だからね。そうでなくても、君のことは嫌いじゃない」

「ほんとう!?」


 嘘ではない。寧ろ、憎からず思っている。

 私は本音を隠したまま頷いた。

 途端に縁はぱっと顔を綻ばせた。


「嬉しい、ありがとう!」


 大袈裟に喜びを表現する縁に、私は少し戸惑った。こんなにまっすぐに感情をぶつけられた経験などない。

 縁は私の手を取り、包み込むようにしてぎゅっと握った。小さな手はひんやりとしていた。そして満面の笑みで


「わたしも好きよ、加賀美くん!」


 それは突然すぎる告白だった。


 一瞬にして雑音は消し飛び、少女の声だけが内耳で反響する。


「――は、」

「だって加賀美くん、好きでしょう? わたしのこと」


 不思議そうに首を傾げる縁。

 二の句どころかまともな言葉も出てこない。


「ふふふ。なんで分かったんだって顔。そんなの簡単だわ」


 あどけない顔がぐっと大人びて、蠱惑的な雰囲気を帯びていく。


「好意を持っていない我が儘娘の戯言に付き合うほど、あなたって馬鹿じゃないでしょう?」


 薔薇色をした唇が、美しく弧を描いた。


「それに、紅茶に疎いあなたがわたし好みの銘柄の茶葉を揃えたり、自分で滅多に食べない甘いお菓子を用意したり……ちょっと考えれば分かることよ」


 私の身体は、一瞬のうちに弛緩した。


 悪戯が成功した子どものように、縁はくすくすと笑った。


「でも、どうして? わたし、楽しみにしてたのよ。いつ云ってくれるかって」


 カウンターに頬杖を突きながら、片方の手で銀のフォークを弄ぶ。

 私は観念して告白した。


「だって、君と僕じゃあ歳が違いすぎるじゃないか。理性が働いたんだ」

「変なの。たった六つしか違わないじゃない」

「気にするさ。一回り以上違うんだ、――え?」

「え?」


 何処か変だ。齟齬がある。


 ……まさか、


「……縁、君、歳は幾つだい」


 背中を一筋の汗が伝う。


「二十四歳よ。今年で二十五歳になるけれど、云ってなかった?」

「聞いてないよ、ひと言も……」


 私は一層脱力した。



 からからとした少女の笑い声が店内に響く。お腹を抱えてて俯く彼女の目尻には、涙が溜まっているだろう。勿論、笑いすぎで。


「……そんなに笑わなくてもいいじゃあないか」

「だって、くくっ、ふふふ……!」

「君には分からないだろうけれども、僕は酷く葛藤し、煩悶したんだ。下手をしたらロリータ・コンプレックスのレッテルを貼られていたかもしれないんだぞ」

「あはは! でも、漸く分かったわ。告白してくれなかった理由」


 縁は飛び切り楽しそうに笑みを浮かべ、僕の頬をつっついた。


「自惚れでないなら、それはわたしのためでもあったはずよ。幼気な子どもに手を出す訳にはいけない。でもそれと同時に、待つつもりでもあったんじゃない? わたしが大人になっても此処に通い続けていたら。そうしたらきっと加賀美くん、あなたはわたしにちゃんと想いを伝えてくれていた。……違う?」


 ぐうの音も出ない。

 胸の内を見透かされているようで、寒気すら感じる。


「――なぁんて、半分はわたしの願望なのだけれど」


 そう云って肩を竦める少女の顔が、初めて歳相応に見えた。


 背凭れに完全に身体を預けた私を、ぴんと背筋の伸びた少女が見下ろしている。その視線は、柔らかくあたたかい。


 非常に個性的で、奇天烈で、そして不思議極まりないと思っていた奇矯な少女は、想像していた以上に理知的で、論理的で、そして大人だった。


 外見と振る舞いと実年齢が乖離した少女が口を開く。


「ねぇ、加賀美くん」


 薔薇色の唇がゆっくりと弧を描く。


「加賀美くんは、わたしの何処を好きになったの?」

「は、」

「教えてくれない?」


 少女の顔が、強かな悪女のそれに見えた。


「……そんなこと、分からないよ。気が付いたら、心に君が住み着いていたんだ」


 本心だった。


「最初は変わった子だなぁ、くらいにしか思っていなかったんだ。けれど帰り際、毎回本を買っていったろう。泉鏡花に安部公房、夢野久作。どれも僕がよく読むものだった。そのときは君のことを十四、五歳くらいだろうだと思っていたから、随分面食らったよ。子どもが読みたがる本ではないから」


 初めて縁がうちにやって来たときのことを、今でもよく覚えている。パステルカラーの装飾過多な洋服の柄も、鮮明に思い出せる。そのとき彼女が発した台詞も。


 ――なんでもいいの。

 ――あなたのおすすめの本を、一冊下さる?


 アンバランスな娘だと思った。

 大人の言葉を喋る、幼い少女。

 私の目にはそれがとても奇異に見えた。


 戸惑いながら、私は一冊の本を薦めた。深い青色をした、飾り気のない装丁の文庫本。文庫にしては珍しい横書きのそれが、少女にはよく似合うと思ったのだ。


「『大切なものは目に見えない』、か……」

「『星の王子さま』ね。加賀美くんがわたしに最初に選んでくれた本」

「覚えていたのかい」


 縁は当然と云うように大きく頷き、


「何度も読んだわ、数え切れないくらい。今でも寝る前に読んでいるの」


 わたしにとって、一番大切な宝物だわ。


 そう、ふんわりと笑んだのだった。


「そう云う君は、」


 意を決して、問う。


「君は、僕の何処を好きになってくれたんだい。なんの取り柄もないこの僕の」


 知りたい。

 けれど知りたくない。

 相反するふたつの感情が、複雑に絡み合う。


 縁はきょとんとした顔をして、ぱちぱちと長い睫毛を上下させた。けれど次の瞬間には、口角を上げた。静かな微笑みに、飲まれる。


 少女の答えを、聞きたくないと喚く耳で私は待った。


「加賀美くん。いいことを教えてあげる」


 薔薇色の唇が囁く。


「本当に好きなものに、詳細な理由なんて必要ないのよ」


 さあっと目の前が白んだ。


「勿論、挙げようと思えば『ここが好き』って云える。幾つでもね。それはひとによって、外見だったり、優しさだったり、ものの好みが一緒なことだったり。けれど、それが好きの全てじゃないでしょう?」


 縁は大きな瞳を僅かに細めて云う。


 つまりね、と大人の表情をした少女は笑みを濃くした。


「わたしはあなたをもっと知りたいと思った。だからあなたを好きになったの」


 縁の言葉がすうと胸に染みていく。

 卑屈になりつつあった心を、優しく矯正するように。


 惚けたように見えるだろう私を見つめて、縁はくすりと笑みを溢すと


「それとも、ひとつひとつ挙げた方がよかったかしら? 加賀美くんの好きなところ」


 意地悪な顔をして云った。


 顔が熱くなるのを感じた。歳甲斐もない。

 私はすっかり彼女の掌中である。


「い、いいよ……」

「そう? ざぁんねん」


 縁はくすくすと笑った。

 口角を上げたまま、縁は加賀美くん、と呼び掛けた。


「あなた、自分のことを凡庸だとか、そんな風に思っているでしょう」


 縁が私の目を射抜く。


 図星だった。


 特筆すべきところがない。平々凡々。人並み。――その通りだと思う。


「僕はなににも秀でていないからね」

「本当にそう思うの?」

「え?」

「加賀美くん、あなたひと月にどのくらい本を読んでるか把握してる?」


 考えたこともなかった。意識すらしない。それを素直に伝えると、縁は


「そういうことよ」


 と笑った。


 意味が分からなかった。

 私がさっぱり理解していないのを察知したのか、縁は眉を困らせる。そして云った。


「加賀美くんの読書量は、世間と比べてずば抜けて多いの。わたしも読む方だとは思うけれど、加賀美くんには到底及ばないもの。加賀美くんはきっと、読書家と云うより活字中毒のレベルだわ。書痴ね。古書の書架を何周も繰り返し読んでいるでしょう?」

「てっきりそれが普通だと思っていたけれど……って、僕は君に本の話をしたかい?」


 古書の書架には需要の少ない本が多い。誰にも手に取られない本がなんだか可哀想で、いつからか読むようになった。それが日課になってから久しい。

 果たしてそれを、縁に話しただろうか。


 少女はぴっと人差し指を立てて、


「観察は初歩中の初歩よ」


 にっと笑みを濃くした。


 美少女探偵は続ける。


「加賀美くんは書架の整理をしていないとき、いつもカウンターで本を読んでいる。わたしが来るたびに違う本を。加賀美くん、あなた古書の棚の左から順に読んでいるでしょう」

「そうだけど……でもどうして?」


 私の疑問符に、縁はひと言


「加賀美くんは几帳面だから」


 と答えた。

 ますます意味が分からない。


 呆れずに居てくれたらしい縁は、私の中で絡まった糸を解くための言葉を紡いでいく。


「此処の書架はどれも、作者は五十音順に、タイトルは発行年順に並んでる。とても正確に。だから書架を見れば分かるの、加賀美くんがどんな順で本を読んでいるのか。加賀美くんの性格を考えたら規則性があるってことは予想出来るし、右端下段の本の次に読んでる本が左端上段なら――」

「推して知るべし、か」


 なるほど、名探偵である。


 縁はふうと小さく息を吐いた。


「だからね、加賀美くん。加賀美くんは、凡庸なんかじゃないのよ。寧ろ非凡だわ」


 非凡な少女に太鼓判を押されてしまった。

 のみならず、


「だからもっと誇るべきよ!」


 縁はいつもの口調でそう宣言した。


 私は再び脱力した。


「――本当に、加賀美くんはもっと自信を持つべきよ」


 ぽつり、縁は呟いた。

 彼女は真剣な表情をしていた。

 その様子に思わず私は唾を飲む。


「だって、あなたはわたしが好きになったひとよ? それは自信の足しにはならない?」


 上擦った声。

 縁の言葉には、私の中に沈んだ澱を払う力があった。


「……うん、そうだね」


 私は小さく頷いた。

 私のことを好いてくれた、彼女のために。彼女に恥じぬように。私のことを、認められるようにならなくては。


 縁は私を見つめて、満足そうににっこり笑った。

 そしてすっくと立ち上がり


「じゃあ、次に会うまでにその後ろ向き虫を直すこと! 約束よ」


 私の手を取ると、小指と小指を絡めた。

 指切りげんまん、と歌う縁は、少女そのものだった。


「――って、次会うまでって、」

「ちょっとの間、来られなくなるの。締め切りがね……」

「締め切り?」


 ううん、なんでもない。

 縁はひらひらと両手を揺らした。

 答える気はないらしい。追求しても躱されてしまうのは目に見えているから、深追いは止した。


「お茶とケーキ、ご馳走さま。なるべく早く済ませるから、次は恋人らしくおうちデートしましょうね!」

「な……っ!?」


 顔面がかっと熱くなる。

 そんな私を余所に、縁は軽やかに玄関まで駆けて行く。


 かららん。

 ドアベルが鳴った。


 不意に少女は振り返って、


「かぁがみくん!」


 歌うように呼び掛けた。


 私は反射的に席を立った。


「好きよ。だぁい好き!」


 満面の笑みでそう叫ぶと、そのまま踵を返し駆けて行った。


 少女の背中が遠くなる。


 私は放心して、浮かせたばかりの腰を再び椅子に沈めた。

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