Epilog 時間の矢

~10年後~

 腕時計を見る。現在の時刻は、


 2025年7月25日 金曜日 PM1:25


 今日は、俺がこの世界に戻ってきてからちょうど10年後にあたる日だ。


 誰も知らない、俺だけの記念日。

 そう、今日は、俺の帰還記念日なのである。



「オウ、またあとでな」


 俺は今、ポッキー率いるバンド仲間たちと打ち合わせをしたあと、彼らとはホテルで別れてから、明日開催されるCD発売イベントの主催者たちと顔を合わせるために、ひとり会場へと足を運んでいた。


 道すがら、あの世界から戻ってきた時のことを思い出す。


 戻って目が覚めたら例のごとく裸だった。その帰り道をトボトボと歩いていると、下校途中の山下桜ちゃんとばったり出くわし、事情も聞かれぬまま即刻通報された。白い原付に乗った警官が駆けつけ、拳銃片手に両手を押さえられてからのミランダ警告。なので最初にたどり着くことになったのは、思い出深い懐かしの我が家ではなく、正門通り二丁目の交差点脇の朝永交番で、資料が乱雑に押し込まれた事務棚に囲まれた狭苦しい6畳ほどの取調べ室であった。


 公然わいせつの罪を問われ、有無も言わさせない強引な取り調べが進んでいくうちに、俺の確保に携わった小澤と名乗る巡査が素性に気づき「班長! こ、こいつ……二ヶ月ほど前に北に拉致された朝永区歳在住の時生翔30歳独身であります! 現にホラこの写真」「なにい!」と、その流れで呼び出された県警本部の偉いさん方がどっさりとこの交番へと詰めかけ、予想を超える事態に発展していたのに思わず足が震えた。


 事実は異なると懇々と説明を加えたつもりだが、洗脳された可能性があると疑われているので、誰も俺の言葉を信じようとしなかった。TV局が呼ばれ、緊急記者会見が開かれる。真夜中まで続いた会見は特番が組まれ、放映時間終了まで全局で流されていたとタマゴッチが後に語っていた。

 そんなすったもんだがあった後、ようやく解放された俺は、すっかり日の明けた朝方の道を歩いて帰り、この世界に到着してから12時間後に親と涙の再会を果たすことができたのである。


 それからの10年間、なんとか生きながらえてきたものの、身からでた錆を落とすのは色々と大変で、一筋縄にいかずかなりの時間を要することとなった。

 しかしながら、悪いことばかりではなかった。 

 親には土下座して謝ったらすんなり許してもらえたし、三年がかりでポッキーたちと連絡をとって謝り、結果的に専属マネージャーとして雇ってもらえることにもなったし、音楽関係の仕事柄、世界を股に掛けたピアニストとして活躍している萌とも再開を果たすことができたし、今や大日本大学基礎物理学研究所の所長になったドクにも会う機会を増やすことができた。


 俺は、自分のことを知るために、己を一度、どん底に突き落とす必要があった。どのタイミングかは人それぞれであり、目下俺の場合、それが10年前に起きた、ある不思議な出来事によって過去を旅した時、というわけだ。あの得がたい経験が、どん底から這い上がる力を俺に与え、思いや行動を変えてくれた。そうした意味で、あの時空を超えた旅は本当によかったと今でも思う。そのおかげで失われた16年間を取り戻すことができたし、生きる目標が生まれたのだ。


 人ごみの流れに従い、一階に飲食店やブティックを構えた小高いビルが立ち並ぶ片側三車線の県道沿いの道を歩いていると、50メートルほど先の交差点の角に建つ10階建てのビルが見えてきた。CD発売イベントは、そのビル9階のレコードショップにて行われる予定だ。


 あれから翔の姿は見ていない。

 ということはつまり、俺を追ってこの世界来なかったということである。ドクが禁じたのか、発明が追いつかなかったのか、いずれにしても、この世界と繋がる手段がないのが決め手となったのであろう。内緒で持ち込んだあの指輪は、この世界に持ち込めなかった。


 ほとぼりが冷めたあと、ドクの原点である朝永中学の旧校舎二階の実験室に行ってみたことがある。だが寂しいことに、あの世界では当たり前のように作られていた巨大加速器やウェーバー・バー改、量子分解器といった、個人レベルでは到底作れない代物はなかった。ドクに聞いても、似たようなものは作ったことはあるが、そんな大掛かりなものは作ったことがないと言っていた。過去の世界に旅をしたことを何度も話して聞かせるが、悲しいことに、信じてはくれなかった。


 今でも時々思うことがある。ひょっとしてあれは夢ではなかったのか、と。


 石畳に響く無数の足音が意識の表層に上ってくる。

 歩行者信号の青が点滅をはじめていた。


 ――間に合うか。


 えんじ色のネクタイをずり下げ、アタッシュケースを小脇に抱えて走りはじめる。人ごみの熱気と急な加速運動に一瞬にして汗が吹き出る。新調した茶色の革靴が馴染まず足が痛いのを我慢して走る。しかし、交差点を渡る手前を右に曲がろうとしたところで足が滑り、横滑りになって転んだ。滑り止めのない靴底が仇となってしまった。

 歩行者信号に無情の赤が灯される。

 それでもまだ何人か、どさくさにまぎれて横断歩道を渡っていた。

 起き上がって再び走る。

 クラクションがビルの谷間に鳴り響き、周りの視線に串刺しにされる。横断歩道を渡りきる手前のところで、迫りくる圧迫感を右に感じ――


 キイイイイイイイイイ、ドンッ!


 激しい衝突音と共に弾かれた我が身がボロ雑巾のようになって、転がり、仰向けになって止まった。自分の身に起こった惨事よりも、会社に迷惑を掛けてしまうといった気持ちが先立つ。


 ――やっちまった。身の丈にあった物を買えば、こんなことにはならなかったのに。


 タイヤが激しく擦られる音が聞こえる。加害者は逃げるつもりだ。追いかけようにも体が動かない。自分の体がどの様な状態なのかもわからない。アスファルトの熱が夏用スーツを容易く通り抜けて伝わるのを感じる。痛いのか熱いのかよくわからない。痛覚が正常に機能していないのかもしれない。人集りの影によって遮られたところが少しだけ気持ちがいい。

 薄っすらと目蓋を開け、


 ――ッ!


 目を剥いた。

 見開かざるを得ないとは正にこのことだった。目の前に、この世界にいるはずのない、あいつが立っている。割れたサングラスの隙間に、過去の世界で苦楽を共にしたあいつがいるのだ。


「か、翔……?」


 朝永中学の制服を着たそいつは、最初に呼んだときこそ見知らぬ人に声をかけられたときのような表情をしていたが、徐々に理解の色が深まり、


「……翔子、なの?」


 確信した、というよりも俺がこいつを見紛うことは、あり得なかった。


「おお……やっぱそうか」


 あのとき見たままの風体だった。


 翔が時を超え、ついに俺を追ってきたのだ。


「オメーの格好からして、あの後ドクに言って俺を追ってきたンだろ? 今度はタイムマシンでも発明したのかアイツ?」


 信じられないモノを見るような目で頷く翔。


「バカなのは相変わらずだな……今、いつなのか知ってンのか? あれから10年後、オメーからだと26年後の世界。今は2025年。ここはお前の知ってる、翔子のいない世界なンだぜ」


 今さらながら痛みが追いついてきた。特に胸の辺り。あばら骨が折れているのかもしれない。


「あれからみんなに許してもらって、どうにかこうにかアイツラのツテで音楽業界の職もらって、曲りなりにも生きてきた。が、どうやらオメーとの再開と引き換えに運を使い果たしちまったようだな……ゴフッ」


「翔子!」


 翔が駆け寄り、喀血に苦しむ俺を抱きかかえる。


「もう、翔子じゃねーだろ……それにしても、よく俺だとわかったな」


 あの世界で観測されたとき俺の性別が確定した、とドクが言っていたのをおぼろげに思い出す。俺とこいつの量子がからんでいるとしたら、エンタングルの性質上、俺が女になることは必然の結果だったといえる。それにこいつは、何ら情報も持たない状態で、男である俺を直感だけを頼りに探り当てることができた。


 こいつと俺は、元々量子レベルで繋がっているのかもしれない。


 再会の余韻に浸っていると、どういうことか、翔がいきなり態度を変えて指を差し、


「髭!」


 意味がわからなかった。


「は? 髭がどうした。男だろう、それくらい生やして当然じゃねーか」


 このような再会の場面では、感動して抱きしめ合うのが定石だ。だのに翔ときたら、俺の風貌が相当気に入らないらしく、続けて罵るように指摘してくる。


「茶髪! 不良! デブ!」


「イテテ……ウッセーな、傷に障ンだろうが。そんなことよりも俺を助けてくれよ」


「ヤダ! 帰る!」


「は? 意味わかんねえ。この状況からして未来の俺のピンチを助けるってのがオメーの役目だろうが。ちゃんとあの映画見たのか?」


 翔は首を振って申し出を拒み、


「だって翔子じゃないもん! おっさんだもん!」


「お前なに言って、」


「うるさいうるさいうるさい! 翔子がいないから僕は過去に帰る!」


「クッ、長ぇこと見ねえ間にバカさ加減に拍車が掛かりやがったかこのとっつあん小、」


 パシン。


 ぶたれた。怪我人なのに、本気で頬をぶたれた。ショックだ。再会の喜びはものの見事に消し飛んだ。


「て、テメーこの俺様に向かってなんてことしや、ぐわはッ」


 俺の口から盛大に吐き出された血が翔を赤い濡れ鼠にした。血みどろになった顔から白い目玉が飛び出し、


「うわあ、どうしてくれんの! こんな姿で帰ったらママに怒られちゃうじゃないの!」


「く、まだママとか言ってやがる……ウルセー! それもこれも全部オメーのせいだろうがッ!」


 こうして、互いに血まみれになりながらの殴り合いのケンカが切って落とされた。


 罵りあい、殴りあった。怪我のハンデなど気にもしなかったし、周りの目も、救急隊員の呼びかけにも応じることはなかった。

 思い出は、やはり思い出のままで閉じ込めておくのが一番よいのだと確信する。現に翔は「君になんか会わなければよかった」と言ってきたし、俺は俺で、それが売り言葉とわかりつつも「あの夏が帳消しになンなら死んだっていい」と感情をむき出しにしてそう言った。正に、水と油の性格が原因で別れた元カノと寄りを戻した直後にケンカするのと同じレベルで、手のつけようがない子供じみた、



「うわああああああああああああ!」



 飛び起きた。



「こ、ここはどこだ……?」


 視界がぼやけていたが、暗闇の中にいることを認識する。

 体が冷たい。なぜか頭痛もする。

 しかし、一体ここはどこなのか。

 仰向けに寝転んだ体勢のまま、慣れてきた目で辺りを見回してみる。


 杉の木のフレームに囲まれた夜空。左には木々の隙間からもれる民家の灯り。右には牛のような石像と石で作られたベンチ。首だけを持ち上げると、正面には参拝客のために灯りをともしている拝殿があった。


 どうやら俺は、どこかの神社で、事もあろうに参道のど真ん中で寝ているらしい。なにか夢を見ていたような気もするが、まったくといって思い出せない。


 なぜこうしていたのか。

 なぜここにいるのか。


 どこかで子供のすすり泣く声が聞こえた。

 ゆっくりと体を起こす。




「先生は僕がどんなに翔子が好きかってこと知らないんだ」


 大切なモノを失うことがこれほどまでに辛く感じるなんて思いも寄らなかった。僕は一生、彼女を失った悲しみに暮れ、泣き焦がれるのかもしれない。


「知っていたよ」


「だったらなんで翔子を止めてくれなかったの」


「残酷な言い方だけど、彼女はこの世界に留まることは許されなかったんだ」


「そんなの先生がなんとかしてくれればいいじゃないか! この卑怯者! 先生のバカ!」


 誰かのせいにしても、この悲しみは消えない。心の中では理解しているものの、感情がそれを許してくれない。


 先生に慰められつつ西門を通り、泣きながら坂道を上がって歳天満宮に差し掛かる。


「ったくうるせーガキだな、いったい何時だと思ってやがる……」


 ――ッ!!


 その聞き慣れた声に弾かれるように面を上げた。


 彼女がいた。


 この世界で苦楽を共にしてきた、彼女がいた。


 未来の世界に帰ったはずの、彼女がいた。



「しょ……」


 彼女は鳥居の前に立ち、頭に手を当て顔をしかめながらこちらの様子を窺っている。口さがない黒髪の美少女が、艶かしい裸体を惜しげもなく晒している。青白い月の光りに縁取られた曲線美が輝きを放ち、彼女の魅力を最大限に引き立てている。


 咄嗟の衝撃で言葉が出ない。彼女は、そうした僕の反応に苛立ったのか、


「アアン! しょの次はなンだってンだよクソガキ!」


 気に入らないモノは何でも難癖を付けるこの態度。間違いない。彼女だ。


「翔子!」


「はあ? ンだてめえ、俺にケンカ売ってンのか、ってうおおいッ!」


 彼女に駆け寄って、しがみつくように抱きしめる。


「戻ってきてくれたんだね! でもどうして、」


「オイ、いきなり何しやがンだテメー! コラ、オメーこいつの保護者か! 黙って見てねえでこのヘンタイをなんとかしろ、ふぎぎぎッ」


 翔子は暴れて僕を突き飛ばし、


「オメーのガッコじゃ見知らぬ女に抱きついてもいいって教えられてンのか、アンッ? それにさっきから、しょう子しょう子言いやがって、勝手に俺の名を決め付けンじゃねえッ!」


 彼女のその発言で、ようやく話がかみ合っていないことに気づかされる。


 違う人?


 とも一瞬思ったが、胸の谷間に見えるほくろがその考えをすぐに打ち消す。


 この僕が彼女を見紛うことなんてありえない。


「冗談はやめてよ翔子……ホラ、僕だよ。翔だよ」


「だッ、だからオメーなんか知らねえ、つってンだろ!」


 最初は冗談を言って脅かそうという腹積もりだと思った。けれどしつこく問い詰めれば問い詰めるほど、本気で「知らない」と言っていることに気づき、


「じゃあ……君は、いったい誰なの?」


 そこではじめて、頑とした彼女の表情が崩れ、


「はあ? ンなの俺は――、お、俺は……アレ? えーと、俺って誰だっけ……? てか俺のことなんてどーだっていい! どこの馬の骨ともわからねえヤツに名乗るほど俺は安いじゃねえッ!」


 と、腕を組んでそっぽ向く。


 黒髪の長さにしても、切れ長の瞳にしても、口の悪さにしても、つっけんどんな態度にしても、彼女が翔子以外の女性であるはずがなかった。


 僕にはそれがわかる。けれど、彼女は僕のことをまったく覚えていない。あんなにお世話になった先生のことも。それよりもなにも、自分の名前も覚えてないのは、いったいどういうことなのか。それに加えて彼女は不可解な発言をした。この世界に来てから一度たりとも認めたことはなかった。彼女はいま自分のことを女だと認めている。


 この表情や仕草は、どうしても演技には見えない。ということは、つまり……忘れたのではなく、本当にはじめから、知らない。


 そこである結果が導き出される。

 思わず先生の胸ぐらを掴み、


「……わかった、きっと量子化のせいだ。どうしてくれんの先生! あんな壊れかけの装置で無理に決行するからだよッ、カッコつけて量子クロスオーバーってヘンな名前つけるからこうなるんだよ! 失敗してんじゃないのさ、このインチキマッドサイエンティスト!」


「く、苦しいよ翔くん。放したまえ……」


 突き返すように胸倉を放す。先生は咳払いして襟を正し、


「実験は成功したはずだ……けど彼女がこの世界にいるということは、もしかすると、あちらの世界が消滅してしまった可能性がある」


「しょ、消滅ッ!?」


 先生は重々しく頷き、


「量糸を渡っている途中で到着先の世界が消滅して、糸が切れ、この世界に戻ってきた、と考えるのが妥当だと思う。然るに彼女がこの世界に存在しているということは、もはや未来にいると言っても同然。一度未来に放たれた矢は二度とには戻れない、ということなのかもしれないね」


「よくわかんないけど、もうあっちの世界に帰らなくていいってこと?」


 先生が再び頷き、


「多分、彼女の過去の記憶は、その世界が消滅すると共に消えてしまったのだろう。だが彼女にとってはある意味、幸いだと言えるかもしれない」


 その答えを聞いて、夜空に向けてたとえ難い感情を爆発させた。

 彼女の元の世界が消滅してしまったというのに、身勝手にも程がある。しかし、この上ない喜びが、どうしてもその事に打ち勝ってしまう。


 彼女が、快哉を叫ぶ僕を横目に先生に近づいていき、


「近所迷惑ヤロウを叩きのめすスレはここですか」


 先生が薄汚れた白衣を脱ぎ、


「改めて、この世界にようこそ翔子くん。レディには少し大きいかもしれないけれど、これを」


 と言って、彼女を白衣で覆う。


「だから翔子じゃねえって何度も……ッ、な、なんで俺が裸なんだ!」


 彼女はようやく自分の状態に気づいて前を隠し、なぜか鋭い目つきで僕を睨みつけ、


「やいテメー、俺が裸だと知ってわざと抱きついてきたンだろ。この強姦未遂のヘンタイ小僧が! 覚悟はできてンだろうな!」


 と言って僕の胸ぐらを掴み殴りかかってきた。と思きや、なぜか彼女はそこで動きを止め、


「お、オメー……なんで、オメーがこれを持ってる?」


 彼女が、僕の胸に吊るしていたある物を見て驚愕する。

 そうこれは、僕が心を込めて贈ったプレゼント。

 彼女がこの世界に残していった指輪だ。


 彼女は恐る恐るそれに手を触れてきた。

 思い出したのだろうか。嬉しくなってまた涙がこぼれてきた。

 

「そうだよ……これは僕が君にあげた、」


 ところが彼女は態度を急変させ、紐ごと指輪を引っ張り、


「この泥棒野郎、これは俺ンだろーが! 返しやがれこのヤロウ! ふぎぎ」


 と強引に引きちぎり、奪還した指輪を左手の薬指に嵌める。


「思い出してくれたの……?」


 彼女は指輪を奪われないように抱えて半身になり、


「ウルセー! な、なんだかよくわかンねえが、俺の心がそう言ってンだ……と、とにかくこれは俺のモンで、一等大切な俺の宝だッ!」


 残った記憶の残滓ざんしに、体が反応したと言うべきななのだろうか。


 彼女の記憶は、もう二度と戻らないのかもしれない。


 けれど、僕はそれでもいいと思った。


 彼女が指輪を大事そうに抱えているのを見て心が温まる。

 科学では説明のつかない、彼女との強いつながりを感じて、心が温まる。


 僕と過ごした記憶がなくなったのは残念だけれど、どんな形であれ、彼女がこの世界にいるという事実だけで、僕は満足だ。彼女が側にいてくれるだけで、僕は満足だ。


 先生が寄ってきて、僕の肩に手を置き、


「きっと、彼女の粒子が指輪に残っていたのが原因で、この世界に繋ぎとめることができたんだろう。あの指輪に固執する理由はよく分からないけれど、とにかく……君が、彼女を救ったんだよ」


 僕は言った。


「先生、それだけじゃないと思うよ」


「どういうことだい?」


 先生が興味深そうな目で僕を見る。


 僕は、確信を込めてこう言った。


「僕にはわかるんだ。翔子と僕はね……きっと、量子でつながっているんだ」






 これは、僕が16年後のボクに恋をした物語。






 ひと夏のはじめに起った不思議なこの物語は、僕たち以外、誰も信じることはないだろう。


 将来、この夏に突如として現れたある少女との出会いについて、彼女と一緒に過ごした喜怒哀楽のたくさん詰まった短い日々を、やがて彼女に恋をして、最後にはフラれるといった、そんな、どうしようもなく青くさい夏の日々を思い出しながら、ペンを取り、多少のフィクションを交えながら、もちろん量子力学を交えながら、時間をかけて物語を綴って、本にしてみるのもいいかもしれない。


 ふたりの、からみあった量子がつなぐ物語、か。


 そうだ……


 もし、その物語に名前をつけるとしたら、どんな題名がいいのだろう。


 名前をつけるとしたら……そう、




 からむ量子の――





「かえる」





 彼女の言葉が、下層にあった僕の意識を浮上させた。


 そのセリフに思わず笑みがもれ、


「帰るって、どこに?」


 彼女は痛いところを突かれたような顔になり、


「ぐぬぬッ、オメーに関係ねえだろ!」


 と言って、白衣を翻して立ち去ろうとする。


「いや、あの、帰るもなにも記憶がないんじゃどこにも……あ、ちょっと待ってよ」


 長い黒髪をなびかせ、颯爽と歩みはじめた彼女の背中を慌てて追いかける。


 隣まで追いつくと、彼女が急に立ち止まり、


「なんか知ンねえが、オメーの顔見てっとなんかこう……イーッてなンだよな。とにかくこれ以上つきまとってきやがったらマジでぶっ殺す」


 彼女はそう言ってまた歩きだし、壁の高い家の角を足早に曲がった。



 これからはじまる物語は、彼女も、僕も、知らない物語。



「待ってよ、そっちじゃなくてこっちだよ」


「ウルセー! ついてくンなって言ってンだろクソガキ!」



 まずはあの時のように、僕を知ってもらうことから、はじめるとしよう。



「僕はガキって名前じゃないよ、翔だよ翔」


「オメーの名前なンて誰が覚えてやるかってンだこのバカケル!」


「あ、今名前で呼んだよね?」


「う、ウッセー!」


「ねえ待ってよお、先生もなんとか言ってやってよ」


「ナニッ、オメー先公だったのか! だったらこのクソガキを今すぐどーにか


 …………………


 …………


 ……


 おしまい☆彡

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からむ量子のアモルメカニカ ~恋愛力学~ ユメしばい @73689367

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