後編
「じゃあさ、今度は前向きなこと考えましょうよ。——もし、有希さんに今何かしてあげられるとしたら、何をしてあげたい?」
ルイが、いたずらっぽい目をして涼に問いかける。
「今更、何もかも遅いけどね——
そうだな。まず、ポットを買ってあげたい」
「ポット?」
「うん。
別れる少し前に——彼女、俺に新しいポットが欲しいって言ったんだ。
俺は、いつも使ってるのがあるだろって言ったんだけど——その時の彼女は、いつになく真剣に俺を説得しようとしてた。
ポットを変えると、飲み物の美味しさが違うんだ、って。
ポットが何台も増えたって意味がない……そう俺は答えた。
その時も、彼女はそれ以上何も言わなかった」
「あんたほんとにバカね。なんでちゃんと話聞かないのよ!?」
ルイはどうにも頭にくるようだ。
「まあまあルイ。——涼くんは、彼女がなぜポットを欲しがったのか、その理由は思い当たらないのかい?
例えば、二人でお茶なんか飲んだ時、飲み物の味について何か話したこととか?」
タクが穏やかにそう質問する。
「——もしかしたら」
しばらく考えた涼が、ふと話し出した。
「水が綺麗で有名な観光地に、二人で旅行したことがあった。
その時、俺は行く先々でコーヒーやお茶を口にするたび、美味いなぁって言いっぱなしだったんだ。
本当に、飲み物の味が違うんだ。甘みが引き出されて、まろやかで。水が違うって、こんなに味に影響するものなんだな……なんて、有希に向かって何度も話したんだった」
「もしかしたら——そんなことと、何か関係あるんじゃない?」
クマがにこやかに呟く。
「そうだ……。
最近、あの旅先のコーヒーの味を、ふと思い出して。いつもあんな美味いコーヒーが飲めたら幸せなのにな……って呟いたことがある。
きっと、彼女はそれを聞いてたんだ。
そのすぐ後だ。彼女がポットを欲しがったのは」
「——あなたの喜ぶ顔が見たくて、ポットを買い換えたかったのかもしれませんね。有希さん」
柊は、そう優しく微笑む。
「こうやって、彼女が言いたかったことを思い返せば……もっともっとたくさんのことがつながるんでしょうね、今みたいに。
そして、彼女の心がどれだけあなたに向いていたのか、よくわかるはずだわ」
ルイも静かに呟いた。
「他には? じゃあ……彼女と一緒に何かしたいこととか」
タクがそうたずねる。
「そうだね。——クリスマスの準備を、ふたりで一緒にしたいな。……料理も、飾り付けも、全部ね」
「今までは、彼女が一人でやってたんですか?」
「そう。俺は何も手伝わなかったし、そんなことには全く関心がなかった。
年末は毎年仕事の量も半端じゃなくて——俺は、それでいいと思い込んでた。
彼女の作った料理も、ケーキも、飾り付けも——あまり覚えていないんだ」
「——そういえば、今日はクリスマスですもんね。
あなたが一緒に手伝ったら、どんなに喜ぶでしょうね、彼女」
ルイは、今度は怒らず、頬杖をついて優しく答える。
クマもヒゲを撫でながら、憧れの視線を宙に浮かせて言う。
「そういうの、いいよなあ。俺も家にカミさんがいるけどさ、彼女は全然マメじゃないから。俺の獲物を待ってるだけさ」
「……獲物?」
「あ、気にしないで涼さん! クマさんはよくこんなふうに言い間違うから」
柊が慌てて取り繕う。
「あー、そうだった。獲物じゃなくって、ケーキとチキンだな」
「もう、クマのバカ!」
「なんだよルイ、そういう君だってよくボロ出すじゃないか——」
「ほらほら、いい加減にしなよ二人とも!」
タクが例のごとく仲裁に入り、涼に向かって真面目に問いかける。
「涼くん。
もしも、もう一度彼女とやり直せるチャンスがあるとしたら——君は、彼女になんて言いたい?」
「うーん……ちょっと考えさせて?」
涼は、真剣に悩みながら言葉を探す。
「——『君を、大切にする』、と」
「あら、プロポーズじゃないの?」
「いや、違うよ。プロポーズなんて、まだまだできない。
俺は、彼女を笑顔にしてやれる男なのか。
彼女が、これから俺と一緒に人生を歩みたいと思ってくれるのか。
その二つがはっきりしてからじゃなきゃ、プロポーズなんてできっこない。
——それが、痛いほどわかったんだ」
「素敵ですね。涼さん。
あなたの本当の気持ちが、僕たちの心にも深く沁みました。
今のあなたは、きっとこれまでの人生の中で一番素敵な顔をしてますよ」
「ありがとう。
みなさんのおかげで、俺——自分の心が、やっとはっきり見えた気がします。
こうやって彼女の話ができて——まるで有希と一緒に楽しい時間を過ごしたような、温かい気持ちになれました。
今日は、俺の今までの人生で最高のクリスマスです」
涼は、堪えきれずに溢れた涙を手の甲でぐしぐしと擦り、笑顔でメンバーに感謝を伝える。
「それはよかった、本当に。
——そうそう。今日はお越しいただいたお客様に、特別なプレゼントがあるんですよ」
そう微笑むと、柊は店の奥に向かってスッと右手を上げた。
——と。
涼の背中に、ふわりと暖かな重みが加わった。
それと同時に包まれる、懐かしい匂い。
これは——
彼女のシャンプーの香りだ。
「——有希——?」
自分の背を包む女性を肩越しに振り向きながら、涼は半ば呆然とした声を出す。
「全部、聞いてたわ。フロアの奥の席で。
——嬉しかった」
有希は、涼の首に回した腕に優しく力を込めて、耳元で小さく呟く。
その声はわずかに震えて……彼女も、泣いているようだ。
涼は突然の展開に動揺しながら柊を見る。
「柊くん、なぜ彼女が——」
「今日、あなたがここに来るような気がしたので——有希さんも、前もってお招きしておいたんです」
「柊さんから連絡をもらったのよ。あなたが、今日ここで話すことを私に聞いて欲しいと言ってるから……って。——そうなんでしょ?」
有希も、それを全く疑っていない声で涼に問いかける。
「え? あ、ああ……そうなんだ」
涼は、狐につままれたような顔を必死にごまかしながら、なんとか有希にそう答えた。
ジャズメンのセッションが始まった。ハイレベルなジャズの生演奏が聴けるチャンスに、有希も大喜びだ。ステージのすぐそばの席で演奏に聴き入っている。
「柊くん、これは一体、どうなってるの——?」
カウンターに残り、まだ信じられないような顔をしながら、涼はもう一度柊に尋ねる。
「知りたいですか?——なら、ちょっとだけ」
そう言うと、柊は少しだけ涼の方へ頭を傾ける。
すると、髪の間から、何かが二つぴょこんと顔を出した。
茶色くて、三角の。
ふわふわと柔らかそうな。
……これは——狐の耳——!?
「そう、僕たちみんなそうですよ」
柊は悪戯っぽくそう言ってニッと微笑むと、ステージを指差す。
振り向くと——演奏するメンバーの頭から、同じ三角の茶色いとんがりが二つ、ぴょこんと顔を出したと思うと、一瞬でまたぴょこんと引っ込んだ。有希もそれには全く気づかなかったようだ。
柊は耳をヒョイと引っ込めながら、あんぐりと口を開けている涼に向かって種明かしをする。
「僕たちは、この通りの裏の細い路地にある、小さな稲荷の住人です。
あなたはここ1ヶ月、毎夜苦しい思いを抱えてこの通りを歩いていましたね。
その悲しみや、真剣さが——僕たちにも痛いほど伝わって来ました。
そして、有希さんもまた、同じ悲しみを抱えていることを知ったんです。
その願いが誠実で、真剣で——あとほんの少しの後押しがあれば、幸せになれる。
そんな人たちの運命の手助けを、ちょっとだけしてるんですよ、僕たち。
その気になれば、彼女の携帯に一本連絡を入れるくらい、簡単。
まあ、そんなにちょいちょい人助けはしないけど——気の向いた時にね」
柊はそう言ってウインクすると、美しく微笑んだ。
「今日は、あなたたち二人に素敵なクリスマスプレゼントを用意できて、僕たちも最高に幸せです」
ジャズの調べは、”We Wish You a Merry Christmas"から、『ジングルベル』、そして『聖夜』へ——。
その調べに聴き入る有希の横に、カシスソーダとマティーニのグラスを持った涼が静かに座る。
そして、その一曲を聴き終えるのを待って、有希に囁いた。
彼女にはっきりと届くように。
「——君を、大切にする。
これから君を何回笑顔にできるか。どれだけたくさんの笑顔を君にプレゼントできるか。
それを数えるのが、これからの俺の目標だ」
有希は、瞳に大きな涙の粒を作り——彼に答える。
「——私にも、目標があるの。
私の想いがあなたにちゃんと届くように、これからはもっと怖い女になるわ。——覚悟しといてね?」
そう言って子供のように明るく微笑む有希の肩を、涼は想いを込めて抱きしめた。
「——今まで言えなかったこと、全部俺に話して。一つも漏らさず、ちゃんと聞きたいんだ」
「ええ、もちろん。時間はたっぷりあるわ」
そのタイミングを見計らって、ステージのジャズメンから一斉に大きな声が上がった。
「メリー・クリスマス!!!」
カウンターの内側で、柊がクラッカーをいくつも派手に鳴らす。
二人は思わず耳を覆って微笑み合った。
”F’s Bar"のFは、FoxのF。
そんな店名の由来を知る幸運な人間は、涼を含めて数えるほどしかいないけれど——。
”F's Bar"の聖なる夜は、ゆっくりと更けていく。
世界で一番幸せな二人の想いと、ジャズの調べを夜空に漂わせながら。
ちょっと不思議なジャズバー"F's Bar"へようこそ aoiaoi @aoiaoi
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悪夢/aoiaoi
★74 エッセイ・ノンフィクション 完結済 1話
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