ちょっと不思議なジャズバー"F's Bar"へようこそ

aoiaoi

前編

「いらっしゃいませ」

「——こんばんは。

 こんなとこに、バーなんてあったっけ?店の扉が気になってつい入っちゃったんだけど。……今まで少しも気づかなかったよ」

「皆さんそう言われるんですよ」

 まだ若いバーテンダーの青年は、そう答えて美しい微笑を浮かべた。


 クリスマスの夜。

 涼は、あてもなく彷徨うように、人混みの街を歩いていた。

 もうひと月ほど——まるでロボットのように一日の仕事を終えると、こうしてふらふらと街を彷徨いながら夜を過ごしていた。


 愛していた人に、別れを告げられた。

 プロポーズしようと思っていた。

 彼女に贈るリングも、密かに用意していた。


 あの日——自分の告白の前に、彼女から別れを切り出された。


 2年間、一緒に暮らした。

 彼女は、いつも自分の横で穏やかに笑っていて——

 これからもずっと自分の横にいる。

 そう思い込んでいた。



 立ち止まると、涙が溢れそうで……でも、歩き続けると寒くて……

 とうとう足が前に進まなくなり、座り込もうとしたその目の前に——地下へと下りる、石を組んで作った小さい階段があった。


 階段を降りきったところに、温かいオレンジ色のライトに照らされた小さな扉が見える。

 古い大木から削り出したような、マホガニー色の穏やかな空気を纏った扉。

"F's Bar"——無造作な文字が、同じ色の木の板に掘られ、そのドアに打ち付けてられていた。


 涼は、その温かさに吸い寄せられるように階段を降り、ドアに手をかけていた。



 他の客の姿はまばらで、店内は静かだ。

 人恋しさに、涼は自然にカウンター席へ座った。


「ドライマティーニ……にしようかな。最近ずっと、何を飲んでも酔えなくてね」

「かしこまりました」

 青年は、静かにそう微笑むと、滑らかな動きでカクテルを作り始める。


 美しいバーテンダーだ。

 ほっそりとしなやかな身体に、白い肌。整った顔立ちに、涼しげな栗色の瞳と髪。バーテンダーらしい洒脱な制服も、よく似合っている。

 照明を落とした店内に、彼の纏う空気は繊細で透明な光を放つようだ。


 ふと、サックスの音色が流れ始めた。

 振り向くと、少しだけ高くなった小さなステージで柔らかなオレンジ色の照明を浴び、ジャズメンがセッションを始めていた。


「——ここ、ジャズバーなんだね?

 ああ、いい音色だ。落ち着くなあ。……なんだか俺、すごい隠れ家を発見したみたいだ。今日はちょっとついてるのかな」

「"Say it"っていうナンバーですよ。いいでしょう? 僕も大好きなんです。

 ——あなたは、とてもついてますよ。間違いなく」

「——そう?」

「ええ。あなた自身の口からそういう言葉が出たところで、もう運はあなたに付き始めているのですから。

 ——今、何かお悩みのようですが……ただ俯いているだけではないようですね?」


「うん。

 ——一ヶ月ほど前に、結婚したいと思ってた彼女に振られてさ。

 彼女に、謝りたい。……そして、お礼が言いたいんだ。

 振られた日から毎日、穴が空いた風船のように夜の街をふらついた。

 冷たい風や雨の中を、ただ歩き続けるうちに——思いが、少しずつまとまってきたんだ。

 俺が後悔しなきゃならないこと。感謝しなきゃいけないこと。

こんなにも、溢れそうになってる。

 けど……彼女は、俺の話なんか、もう聞いてくれないだろう……」


 涼の前に、静かにマティーニのグラスが置かれる。


 ライトグリーンの美しい液体をしばらく見つめ、一口飲むと、不意に涼はグラスを置いて顔を上げた。

「——そうだ。

 彼女の代わりに——君、俺の気持ちを聞いてくれない?」


 その頼みに、青年は嬉しそうな笑顔で答える。

「ええ、もちろん。喜んで。

 ——あ、僕、しゅうって言います」

「柊くんか。ありがとう。——俺は、三田涼みたりょう。涼でいいよ」




「——俺は、彼女の気持ちをちゃんと考えていなかったんだ……」

 グラスの底を見つめ、涼は話し出す。


「彼女——有希は、会社の同僚だった。

 小柄で、色が白くて、黒目がちの大きな瞳で。

 いつも静かに笑っていた。

 あまり目立たない子だったけど——穏やかな優しさと、笑顔の可愛らしさに、俺は少しずつ惹かれていった。

 恋をしている間は——それを思うだけで、胸が苦しくなった。

 告白して受け入れてもらった夜は、世界中の幸せを独り占めしたような気持ちだった。

 なのに……

 深く付き合うようになるうちに……彼女の笑顔が側にあることが、当たり前になった」


 涼は、ぐっとグラスを呷った。

 苦そうに顔をしかめ、空のグラスをカウンターへ置く。


「いつも優しい笑顔で側にいてくれる彼女の気持ちは、だんだん見えなくなった。

 彼女の喜びそうな場所でデートしたり、食事したり……最初こそそんな努力をしていた俺は、次第に思うようになった。——彼女は、俺のすることに決して文句を言わない女だ、と」


 柊は、黙って優しく頷く。

「——酷いだろ、俺?」

 涼は、片手でくしゃっと自分の髪を掴むと、カウンターに肘をついて自嘲するように呟いた。


「——いつもそばにある幸せを、きちんと幸せだと思いつづけることは……簡単なようで、とても難しいことですね」


 微笑みを消さないまま、柊の明るい茶色の瞳が少しだけ伏せられる。


「……難しいこと……そうだな。

 でも、彼女を愛しているなら、それを当たり前にしちゃいけなかったんだ。

 油断したら、いつ手の中からこぼれ落ちてしまうかもしれない宝物だったのに——」



「——カクテル、お代わりをいかがですか?」

「あ——ありがとう。

 じゃ、カシスソーダを。——有希がいつも頼んでたんだ」


 涼は、わずかに潤んだ目をごまかしながら、無理やり笑顔を作った。



「俺は、彼女の笑顔が次第に影を帯びて行くことに、気づかなかった。

 気がつけば、自分の都合ばかりを考えていた。

 会う約束を、仕事のせいで簡単に流した。俺の決めたことを決めたようにやるのが、当然のことになっていた。


 そして、彼女が自分の気持ちを俺に話している時も——俺は真剣に向き合って聞こうとはしなかった。

 彼女が真剣に俺に投げかけた言葉をいい加減に聞いて、適当にあしらうことしかできなかった。

 その度に、彼女は静かに俯いて黙った。


 今になって、気づいたんだ。そんなシーンが何度もあったことに。

 彼女の瞳が、真剣に俺に何かを伝えたがっていたことに。

 あのときも、あの瞬間も、あの場面でも——彼女は、俺に何かを話そうとしていた。胸の中の思いを俺に知って欲しかったんだ、って。


 どうして俺は、彼女に本気で向き合わなかったんだろう。

 彼女が言えないまま心に押し込んだ数えきれない想いを、今はひとつひとつ聞きたくて……たまらないんだ。


 なぜ、過ぎてからじゃなきゃ気づかないんだろう。こんな大切なことに……」



「ええ、そうね。本当ならどついてやりたいところだわ」


 不意に、後ろから物騒な言葉が降ってきた。

 驚いて振り返ると、いつの間にかステージから降りたジャズメンのひとりが、サックスを手に持ったまま涼の背後に立っている。


 見た目は、すらりと長身で細身の美男子だ。彫りの深い顔立ちに黒縁のメガネ。緩くウェーブした黒髪を後ろで束ね、余った髪が色っぽく顔にかかる。

 その髪を長い指でかき上げながら、彼はため息交じりに言葉を続ける。

「ほんっと、男って最悪のところに来るまで気づかないのよねぇ。彼女が、毎日どんな思いであなたの側にいたのか——ちょっとは気づいたのかしら?」


「——え……っと?」

「あ、涼さん、彼はルイ。うちのサックス奏者です。演奏はこの上なくハイレベルなのに、口を開くとちょっと……ね」

「涼くん、はじめまして。ルイって呼んでね。しょっぱなからきついこと言ってごめんなさい。

 それよりなによ柊、今日は冷たいじゃない? 涼くんがイケメンだからって、もう贔屓?」

「やめてよルイ。涼さんびっくりしてるじゃない。——あ、勘違いしないでくださいね? 僕たち友達ですよ、ごく普通の」

「あら、そうかしら?」

「ルイってば!!」

 柊がぐっとルイを睨む。その怖くない顔に、ルイがプッと吹き出した。

 涼もつられて思わず笑う。


「——俺は、涼くんの気持ちもわからないではないなぁ。男は、いい女のそばだと安心しすぎちゃうんだよ、な?」

 そこへ、ドラムを叩いていた中年の男がのしのしと入って来た。大柄な体に、人の良さそうな瞳。あごと口の周りを盛大に覆うヒゲをもくもくと蓄えている。

「クマはいつも男の味方よね〜。女の繊細な気持ちなんてあなたには難しいわよね?」

 ルイがわずかに皮肉を込めて男に言う。

「あ、俺クマです。よろしく、涼くん。そうだなあ、女の子の気持ちはともかく、ルイの気持ちはさっぱりわからんな」

「あら、ちょっと何よ!?」


「まあまあ、その辺にしたら?」

 最後に加わったのはピアノ奏者だ。小柄だが筋肉質の体に、男らしく引き締まった顔。爽やかな雰囲気の男だ。

「涼くん、僕はタクと言います。どうぞよろしく。クマは男すぎて、ルイは女すぎるからさ、いつも喧嘩になるんだよ」

「タクさん、いつも仲裁ありがとうございます。ほんと助かります。——ごめんなさい、驚いたでしょ?」

 柊が苦笑しながらタクに礼を言い、涼に笑いかける。


「——涼さん。こんな僕たちでよければ、どうか続きを聞かせてください」


 メンバーのやりとりに、涼も思わず笑わずにいられない。

 笑顔を作ると、心が一気に力を取り戻すようだ。



「ありがとう——じゃ、もうちょっと俺に付き合ってもらえますか、皆さん?」


 涼はそう言って微笑んだ。


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