5話


 川島が遠くの病院に入院したことを知ったのは、始業式の日だった。

 夏休みの終わり頃から、川島は体調を崩して姿を見せていなかった。もちろん、始業式にも出ていない。でも、そんなことはよくあることで、また元気になって学校に来るだろうと僕は思っていた。

 始業式が終わった後、森先生に職員室に呼び出された。そこで初めて川島が入院したことを知らされた。

 先生の机の上に、川島の蝶の飼育ケースが置かれていた。

 先生は以前から川島が入院することを知っていて、僕に蝶を預けてほしいと頼まれていた。そして、僕には入院については黙っていて欲しいと、口止めされたのだと、先生は苦しげな表情で打ち明けた。

「心臓が、だいぶ悪くなっていたらしい。長い間療養する必要があるから、遠くの病院に入院しなきゃいけなかったんだ」

 先生はそう言って、手許の飼育ケースを撫でた。中の蛹は、やはり死んだように沈黙している。

 僕は先生から病院の連絡先を聞き出し、飼育ケースを抱えて職員室を飛び出した。そして学校の公衆電話に硬貨を落とし、ボタンを押した。

「そんなに具合が悪くなっていたなんて、知らなかった。どうして僕に黙っていたんだ」

 川島が出るなり、僕は受話器に向かって怒鳴りつけていた。

 そばを歩いていた数人の生徒が、ぎょっとしたような表情で振り返る。僕はそんな事には構わず、川島の返答を待った。

「……ごめん。本当は、あの時言おうと思ったんだ」

 長い沈黙の後、受話器から川島のか細い声がこぼれた。あの時とは、きっとラムネを飲んだ時だ。彼の真剣な、思いつめた瞳が脳裏によみがえる。

 あの時、どうして僕は彼の異変に気付いてやれなかったのだろう。

 津波のような後悔が押し寄せた。

「それなら、何で言わなかったんだ」

「……君にさようならと言うのは、ちょっと、辛いじゃないか」

 僕はとっさに答えることが出来なかった。苦くて熱いものが胸の中に込み上げて、口を開くと、それが溢れ出してしまいそうな気がした。

「……そんなに心配するなよ。すぐに死んでしまうとか、そういうことはないのだから。その内、帰ってくるよ」

 川島はさっぱりとした調子で言うが、平気な振りをしているのだとすぐに分かった。

 彼よりも先に泣いたりしたら、僕は卑怯だ。ポケットの中で拳を握りしめて、震える声を押し殺した。

「……今更だけれど、まだ、僕に出来ることはあるだろうか?」

 受話器の向こうから、戸惑いの気配が伝わってきた。彼は少し間を置いて、ぼそぼそとか細い声で言った。

「……君にあげた蝶の羽化を、どうか見届けてほしい。僕の代わりに」

 言葉の後にこぼれた吐息が、微かに震えていた。僕たちはもうそれ以上、何も言わなかった。




 川島からもらった蝶の飼育ケースは、自室の窓際に置いている。今は窓から差し込む月明かりを浴びて、灰色の蛹がつやつやと輝いていた。

 「起きろ、メアリ」

 彼がそうしていたように、優しく囁いてみる。蝶は応えてくれなかったが、僕たちが夏を過ごした理科準備室に戻ったような、甘酸っぱい懐かしさが込み上げた。

 僕は蛹の中の蝶が見る夢を想像する。

 きっと、蝶は夏の夢を見ているのだ。

 僕と彼が過ごした、美しい夏の夢を。

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蝶の夢 矢口 水晶 @suisyo

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