4話


 目的の池にたどりつき、僕たちはフナとカエルを水の中に放した。

 生まれ故郷に帰ってきた彼らは池に入るとすいすいと泳ぎ出し、僕たちの方を振り返ったりはしなかった。川島の配慮のお陰だろうか、のびのびと身体を伸ばすカエルの後ろ姿が、心地良さそうに見えた。

「ピョン吉、フナ男一号、二号、三号……長生きするんだぞ」

 川島は彼らの名前を順番に呼んで、名残惜しそうに手を振った。

 僕も彼に倣って手を振った。ちなみに、どのフナが一号で二号なのか、僕には見分けがつかなかった。

 少し濁った水の表面では、小さなアメンボがすいすいと滑ったり、トンボが突いてかすかな波紋を立てたりしていた。きっと見えないところにはもっとたくさんの生物が棲んでいるのだろう。

 この池の中では、とても小さな世界が完結しているのだろうな、と僕は思った。

「……前にここでフナを採ったのって、いつだっけ?」

 僕が何気なく訪ねると、川島は「今年の春だ」と即座に答えた。

 ああそうだった、と僕は小さく頷く。あの時もこうして二人で山を登ったのだ。

 当時は青い小さな花があちこちに咲いていて、綺麗だったのを覚えている。僕がその花の名前を訪ねると、川島は「オオイヌノフグリだ」と答えた。花は綺麗なのに、けったいな名前だな、というのが僕の感想だった。

「生物部としてここに来るのは、これで最後かもな」

 僕は仄暗い水面に小さく溜息を落とした。

 水面には僕の顔がぼんやりと映っている。しけったせんべいのような、不景気な顔をしていた。

「生物部も、この夏いっぱいだ。こんなことなら僕もメダカの一匹でも飼えばよかったかな」

 僕は川島の付き合いで入部しただけあって、部の活動にはかなり消極的だった。

 虫も爬虫類もろくに触れないし、理科準備室にいても持ちこんだ漫画雑誌ばかり読んでいた。はっきり言ってしまうと、放したフナたちに川島ほどの未練もない。

 けれども、こうして一年と半年籍を置いていた部がなくなってしまうのだと思うと、ぽっかりと胸の真ん中に穴があいたような、妙な喪失感があった。

 しばらく感傷的に池の縁に佇んだ後、僕たちはもう少し山を登ってカブトムシを放った。クヌギの上にちょんとつがいを乗せたのだが、彼らはフナたちのようにすぐさまどこかに消えることはなく、気だるそうに足を蠢かせていた。夫婦そろって夏バテかしら、と心配になる程覇気がない。一夏の短い付き合いだったが、僕たちはカブトムシにも別れを告げて、山を降りた。

 中身のなくなったバケツと飼育ケースは雲のように軽く、行きと違って帰りはあっと言う間だった。わずかに日が傾き、木々の奥で日暮が心細げに鳴いている。

 日暮れ時の山は、世界の果てに来てしまったように物寂しかった。

「……なあ、清水」

 山を降りたところで、ふと、川島が口を開いた。

 カブトムシを放してからは、二人とも言葉を忘れたように無言だった。彼の声を聞くのは、何だが久々な気がした。

「何?」

「この後……ちょっと付き合ってほしいんだけど」

 彼のまっすぐな瞳が、西日を受けて眩しかった。僕は魔法にでもかけられたように、目を反らせなくなる。

「うん、いいけど」

 そう頷くと、彼はほっとしたように表情を緩めた。

 蝉時雨の降る田んぼ道を、川島と並んで歩く。

 川島は物憂げな目で、黄金色の田んぼを眺めている。重く実った稲穂はどれもだらりと頭を垂れていた。秋の歩みはとても静かに、だが確実に近付いていた。遠い日暮の声が、じんわりと胸の奥に染みた。

 付き合って欲しい、と言うから何かと思えば、彼に連れて来られたのは学校の近くにある商店だった。

 陳列棚には調味料や駄菓子、カップ麵がまばらに並べられている。死にかけた蝉のような、うらぶれた雰囲気が辺りに漂っていた。

 店内と硝子戸で仕切られた居間では、婆さんが僕たちの来店に気付かずのんびりとテレビを見ている。この店は学校の生徒が放課後に駄菓子やジュースを買いに立ち寄る、ちょっとした道草スポットだった。かく言う僕たちも常連客である。

 僕たちは小さな冷蔵庫からラムネを取り出し、会計台の上にお金を置いた。一応声をかけたのだが、婆さんが気付いているのかどうか怪しかった。

 店の前にある古びたベンチに、川島と並んで腰かける。白っぽい夕暮の空が山の上に広がっていた。ラムネは光に透かすと、小さな気泡がきらきらと星のように輝いた。

「……ラムネって、夏の夜空を閉じ込めたみたいだ」

 ぽつり、と僕が呟くと、川島はちょっとびっくりしたように目を瞬かせた。

「珍しいね、清水がそんなロマンチックなことを言うなんて」

「別に、ちょっと思っただけさ」

 僕が顔をしかめると、川島はくすくすと小さく笑った。今日一日ずっと能面みたいだった彼の表情が、初めて柔らかくなった。僕は少しほっとした。

「付き合うって、ラムネを飲むことだけ?」

「うん。どうしても、飲みたくなったんだ」

「何だ。つまらないことだな」

「そんなことないよ。君と、ラムネが飲みたかったんだ」

 川島は、大切なことのように強く言った。そしてゆっくりとビンを模ったプラスティック容器を傾けた。まだ隆起しない柔らかな喉が、こくこくと上下していた。

「ラムネなんて、いつでも飲めるのに……」

 そう言ったすぐ後に、違うな、と思った。

 ラムネは夏の夜空だ。秋が来てしまったらどこかへと消えてしまう。

 今年はあと、何回ラムネを飲むことが出来るだろう。僕は手の中のラムネを揺らして、ビー玉を転がした。閉じ込められたビー玉が、真っ青な瞳になって僕を見上げていた。

「……さっきの話の続きなんだけれど」

「うん?」と僕は首を傾げた。

 彼も僕と同じように手の中のラムネを見つめていた。蝶を優しく殺す指が、濡れた容器の表面を撫でている。

「何の話だっけ?」

「君、さっき生物部もこの夏いっぱいだって言っていただろう? 二学期までだって」

 僕は小さく頷いた。彼は話の続きと言うが、僕はそんな些細なつぶやきなど、すっかり忘れていた。

「終わりが近づいてくると、出来なくなってしまうことばかりだと思うだろう? そして、そういうことばかり数えてしまうんだ。もう山へ行くのは最後だ、とか。メダカを飼えばよかった、とか。ラムネはあと何回飲めるだろう、とか……」

 川島が僕と同じことを考えていたことに、一瞬どきりとした。温い風が、微かに稲穂の海をさざめかせた。

「でも、近頃僕は思うんだ。そんなの、ただの思い込みなんじゃないかって。今と終わりの間の時間は、決してゼロじゃないんだ。残された時間の中で、出来ることはまだ沢山ある……君と、ラムネを飲むとか」

 彼はゆっくりとそう言って、静かに目を伏せた。

 蛹を見つめる悲しい目だ。頬に濃い影を落とすまつ毛が、か細い蝶の触角を想起させた。

 彼が繊細な紙細工で出来ているように、弱々しく思えた。僕は彼に触れたいのに、壊れてしまいそうで出来ない。薄い膜のような空気が、僕たちを包み込んでいた。

 日暮の声が、胸の中で深く響いていた。

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