3話
川島修二は生物部の現部長であり、僕の幼馴染だ。
同じ病院で産声を上げて以来、およそ十四年の付き合いになる。
彼は生物部が世界に誇る生物の天才であり、つまりは筋金入りの生物オタクである。昆虫を始め、魚や鳥、爬虫類など、様々な生物に精通し、これまで様々な生き物を飼育してきた。その生物への情熱は『平成のファーブル』と称される(主に部内で)ほどである。
それに加えて、彼は標本を作るのが上手かった。
山で虫を採集したり、飼っていた生き物が死んだりすると、彼はそれが何であろうと見事な標本に作り上げるのだ。文化祭の出し物にすると、それは必ず好評を博した。
彼が作り出す標本の中で、僕が殊に好きなのは蝶の標本だ。
彼は男のくせに白くてほっそりとした指を持っていた。その指は蝶の羽や触角を傷付けることなく、優しく胸を潰す。そしてまつ毛のように細いピンで、永遠にその美しさを留めつけるのだ。
最初は何と惨いことをする奴だと思ったものだが、彼の繊細な手際や標本の美しさに、僕は魅せられてしまうのだった。
ただ、どんなに生物の扱いに長けていても、その対象が人間になるとてんで駄目だった。
彼は極度の人見知りと言うか、対人恐怖症なのだ。初対面の人間や大勢の人の目に晒されると、赤面して押し黙るのが常だった。
しかし、僕に対しては我がままで人使いが荒い。今度のことだって、東奔西走していたのは僕で、彼はずっと理科準備室に引きこもっていた。僕は彼と世間との仲立ちをする、外交官のようなものだった。
彼がこれほど他人との接触に臆病になったのは、おそらく、病弱な体質によるものではないかと僕は推測する。
彼は心臓に先天的な欠陥があった。
普段はそうと見えないのだが、事あるごとに体調を崩して寝込むし、体育はいつも見学。小学校の頃はそれでしょっちゅうからかわれていたものだ。そしてその度にいじめっ子を追い払うのが僕の役割だった。
ちなみに、寝込んでいる時の彼の愛読書はたいてい昆虫図鑑だった。彼の膨大な知識もこの体質によって培われたと言っていいだろう。こうして生物博士川島は、生まれるべくして生まれたのである。
「――遅いぞ、清水」
数歩先を歩く川島が振り返り、不満げに眉根を寄せていた。蝉の声が鳴り響く暑さの中、彼の白い額は汗一つかいていなかった。
その日、僕たちは学校の裏山を登っていた。細く痩せた木々ばかりが密集する森は薄暗く、蝉の声がまるで天から覆い被さってくるかのようだった。三十分も歩かない内に首や腋の下から汗が吹き出し、Tシャツがぐっしょりと濡れて背中に張り付いた。
「……遅いって言うのなら、片方だけでも持ってもらえないかな?」
僕は涼しげな川島の顔を睨みつけた。彼の荷物が飼育ケースを一つなのに対して、僕は水を張ったバケツを二つ抱えていた。一方のバケツの中には三匹のフナが、もう一方にはカエルが入っている。動く度にバケツの中で水が揺れ、思いの外バランスを取るのに神経を要した。
結局、僕たちは準備室で飼育していた生き物たちを山へ返すことにした。
しかし、蛹から羽化しない蝶だけは川島が家で引き続き飼育することになった。死んでも死にきれないと言っていただけに、最後まで羽化を待つつもりらしい。
「よく考えたら、どっちもお前が飼ってたんじゃないか。どうして僕が持たなきゃいけないんだ」
「僕は肉体労働は嫌いなんだ」
「何が嫌いだ、この野郎め」
「いいじゃないか、君のほうが身体が大きいんだから」
しれっとした顔で川島は言う。
確かに僕の方が頭一つ大きいが、それとこれとは関係ない。しかし、病弱な彼に重いものを持たせて山の中を歩かせたら、倒れる心配があった。
やはりどう考えても僕が持つのが妥当だ。いつも僕ばかりが損な役回りをさせられている気がする。
よっこいせ、とバケツを持ち上げ、僕たちは再び凹凸の激しい山道を登り始めた。
フナとカエルを採ったのは山の中腹にある小さな池だ。カブトムシを捕ったのは、そこよりもさらに上の、クヌギの生えている場所である。
この蒸し暑い上に蚊が飛び回っている劣悪な環境で、まだまだ歩き続けなければならないのだと思うと魂が抜けていくような思いだった。
「……思ったんだけどさ、放しに行くだけなら、わざわざこんなところに来る必要はないんじゃないか?」
ぜいぜいと肩で息をしながら、川島に訴えた。周囲から羽虫が寄って来て、鬱陶しいことこの上ない。が、両手が塞がっていて追い払うことも出来なかった。
「たとえば、学校の中庭とかさあ。あそこなら、池だってちゃんとあるし」
僕がそう言うと、川島はちょっと眉を吊り上げて、
「だめ」
と、きっぱりと言い切った。
「僕は生き物を返す時は、ちゃんと捕まえたところで返したいんだ。君だって、全然知らないところより、自分の生まれた所に返して欲しいと思うだろう?」
水槽の中で飼われたことなどないから、そんなことを聞かれてもよく分からない。だいたい、こいつら自分の生まれた所など覚えているのだろうか。
「……そもそも、僕は飼っていた生き物を放すのは嫌なんだ」
彼は首から下げた飼育ケースを胸に抱き、その中をじっと見下ろした。
カブトムシのつがいはお互いに寄り添い、腐葉土に埋もれてピクリとも動かない。つがいの名前はヘラクレスとヘレナである。二匹は気持ちよさそうに昼寝をしているようだった。
「一度飼い始めたら、死ぬまで飼うべきだ。好きな時に捕まえて、好きな時に返すなんて、あまりにも身勝手だ」
川島の声は低く、静かに怒っているようでもあり、深く悲しんでいるようでもあった。彼はあまり表情が変わらないので周囲からは感情のない奴と思われがちだが、本当は万華鏡のようにくるくると感情が入れ替わる男だ。だから面倒臭いのだけれど、そばにいてやらなければならないと、僕はいつも思ってしまうのだった。
確かに、彼が飼っている生き物を途中で放り出すようなことは一度もなかった。僕が記憶している限り、死ぬまで飼い続けるか、そうでなければ標本にした。
今回、廃部が決まったら、彼は無理にでも全部自分で飼おうとするだろうと思っていた。だから、彼がフナやカエルを山に返すと言い出した時、僕は密かに驚いた。
「……でも、仕方がないだろう。部がなくなってしまうんだから」
「分かってる。だからこうして放しに来たんだろう。ただ、どうしても残念でならない、というだけさ……」
そう言って、川島は静かに目を伏せた。
あの、本当に死んでしまいそうな、儚げな横顔だった。僕はちくりと胸の奥に痛みを感じた。
何とかしてやりたいものだと思うのだが、何ともならないものは、何ともならない。
「無力だなあ……」
僕は川島に聞こえないよう、そっと呟いた。
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