激突! 6冊の『オリエント急行』

 さて、では実際に小説を読んで、個人的に気になる場面の翻訳が、それぞれの『オリエント急行』でどう違っているかを見ていきましょう。

 本企画は「未読の方に、それぞれに合った『オリエント急行』を選んでもらう」というのが趣旨のため、ネタバレには抵触しないよう記述や表現を抑えて書くよう努力しますが、もし断片的な情報を繋ぎ合わせて事件の全体像が見えてしまったら、そのときは申し訳ありません、とあらかじめお詫びしておきます。

『オリエント急行殺人事件』もしくは『オリエント急行の殺人』は、大きく三つのパートに分かれています。翻訳によって呼び方は「第○部」(ハヤカワ、光文社、偕成社、新潮)「パート○」(角川)、単純にギリシャ数字だけ(創元)、など様々あるのですが、最多数の「第○部」で統一して書くこととします。探偵「Poirot」の表記については、「ポアロ」が最近の主流のようですが、私個人的な好みもあり、「ポワロ」で統一させていただきます。ルビについては、引用元に倣います。ただ、偕成社文庫だけは児童書ということで、一定水準の漢字には全てルビが振られていますが、引用文についてはルビは省略します。

 また、引用する文章、単語は、通常の書籍ですと「段落下げ」をして表記するのが普通ですが、ウェブ上では閲覧する機器によって表示に差が出てしまうため、一行空けて表記して、末尾に引用元のレーベルを括弧で表記します。



「第一部」

 冒頭、シリアで事件を解決したポワロが、駅のホームでフランス軍の中尉と語り合うシーンです。ここで、ポワロのことを描写する地の文があるのですが、ハヤカワ文庫は、その場面をこう書いていました。


  痩せた小柄な男(ハヤカワ)


 ん?「痩せた」? ポワロは確かに「小柄な男」ですが、「痩せた」というイメージはあまりありませんが……。同じ場面を、他の翻訳で参照してみましょう。


 小がらな男(創元)

 小柄な男(角川)

 小柄な男(光文社)

 やせた小柄な男(偕成社)

 小柄な男(新潮)


 偕成社のみ、やはり「やせた」という特徴を記していました。ということは、「痩せた」という表現は原書にも記載されていると考えてよいかもしれません。他の四社は、すでにあるポワロのイメージを忖度して、「やせた」に相当する単語をあえて訳さなかったのでしょうか?

 余談ですが、世間一般において広まっているポワロのイメージで、訂正しておきたいものがひとつあります。実は「ポワロはフサフサ」なのです。ポワロの頭髪が寂しくなるのは晩年になってからで、バリバリ働き盛りのころはフサフサです。恐らく、ポワロの身体的特徴として「卵形の頭」というのが定番で語られますので、そこから「卵→ツルツル→ハゲ」というイメージが先行してしまったのではないかと思います。2017年公開の映画『オリエント急行殺人事件』で、ケネス・ブラナー演ずるポワロがフサフサだったのも、だからイメージと違うということではないのです。2017年版に遡ること43年前の1974年に公開された『オリエント急行殺人事件』でも、アルバート・フィニー演ずるポワロはフサフサでしたし、おなじみテレビドラマ『名探偵ポワロ』でデビッド・スーシェが演じたポワロもフサフサ(他の二人よりは控えめで、「フサフサ」と表現するには物足りないかもしれませんが)です。シャーロック・ホームズのインバネスコート同様、原作にはないけれど広まってしまったイメージなのかもしれません。フサフサなのに頭の形が「卵形」と、そこまで特徴的に分かるというのは、恐らく髪をぴったりと頭皮になでつけているからなのでしょう。

 偕成社文庫の挿絵でも、ポワロは見事なフサフサに描かれています。そのポワロの頭部事情に忠実な挿絵を入れた偕成社の訳で「やせた」と書いているということは、もしかしたら他の作品も読み込むと、「ポワロは小柄で痩せている」ということがはっきりするかもしれません。それじゃあ、偕成社の挿絵でポワロの体型はどう描かれていたかというと、これは痩せても太ってもいない中肉中背として描かれていました。世間一般のイメージに最大限譲歩したのでしょうか。



 次は、列車に乗ったポワロを見送った中尉が、あまりの寒さに震える場面です。ここで中尉の台詞があるのですが、各翻訳の当該部分を引用します。


「ブルルル」(ハヤカワ)

「ブル、ル、ル、ル」(創元)

「ぶるるる」(角川)

「ぶるるる」(光文社)

「ウウゥ、さぶ……」(偕成社)

「ブルルルル……」(新潮)


「ブルルル」って、体が震える状態を表す擬音ですよね。カギ括弧で囲われているので、これは地の文の擬音ではなく、間違いなく中尉が口にして発声した言葉のはずです。周囲を見回すときに「きょろきょろ」と声に出すようなものです。創元は、わざわざ「ル」の間に読点を打っており、キタキツネを呼んでいるみたいになってしまっています。六社中、五社までもが、しかも最近の新訳である角川と光文社も、擬音のような「ぶるるる」(期せずして全く同じ訳になっています)という台詞を言わせているということは、これも原書にある表記なのでしょうか? そう考えると、唯一「空気を読んだ」というか、口にしておかしくない台詞に翻訳したのは偕成社だけですが、これが子供向けの翻訳だと思うと少し面白いです。子供向けこそ「ブルルル」とか言わせそうなものなのに。



 いよいよ事件が起き、死体を検めている場面です。刃物で刺された死体の傷口を見て、「女性がこのような深い傷をつけることは可能か?」を討論したときの台詞に、時代というか、今の感覚で読むと面白い表現が出てきます。


「女というのはそういうものです。カッとなると、馬鹿力を発揮する」(ハヤカワ)

「女というのはそんなものです。夢中になると、ばか力を出すものです」(創元)

「いかにも女らしい。怒り狂った女はものすごい力を出しますからね」(角川)

「それが女のやりかたですよ。かっとなると怪力を発揮するんです」(光文社)

「女というものは、そういうものです。怒りくるうと、すごい力を発揮します」(偕成社)

「女というものは、そんな風です。女は、いざとなると糞力くそぢからの出るものでしてね」(新潮)


 いざというときに発揮する力を様々な言い方で表現していますが、特に新潮の「糞力」は、今はもう、漫画『キン肉マン』の「火事場のクソ力」くらいでしか目にしない言葉でしょう(『そのキン肉マン』自体も、かなり古くからある作品ですが)。



 次は、その直後の場面。被害者が前々から命を狙われていた事実があったため、犯人は個人ではなくギャングなどの組織なのではないか? という意見が出て、その手の反社会的組織が邪魔者を始末することを「アメリカ的に」表現した言葉です。


“バラされる”(ハヤカワ)

『バラされる』(創元)

(角川)

られる』(光文社)

〈ばらす〉(偕成社)

“やっつけられる”(新潮)


 いずれも「殺される」の隠語表現ですが、光文社の「られる」は、なかなか現代的な表現です。それと比べると、新潮の“やっつけられる”は、やはり古い訳文のせいか、ちょっと首をひねってしまいます。そう考えると、新潮より一年早い、つまり古いはずの創元の訳文は凄いですね。先ほどの比較でも「ばか力」と現代に使ってもおかしくない言葉を使っていますし。創元が古い翻訳でもまだ現役で刊行し続けている理由が分かる気がします。



 次は、ポワロが関係者のひとりに尋問する直前のシーン。自信家のポワロは、数々の難事件を解決した実績のある探偵として自分の名前は、その関係者も当然知っていただろうと思っていました。ところが、その関係者はポワロのことを知らず、「洋服屋の名前かと思った」と言われ、ショックを受けたときの台詞です。


「信じられん!」(ハヤカワ)

「信じられん!」(創元)

「まったく、なんたること!」(角川)

「信じられん!」(光文社)

「とても信じられません!」(偕成社)

「こりゃ信じられん!」(新潮)


 ここで異彩を放っているのは角川の訳です。「信じられない」という言葉を使用せずに、「信じられない」ポアロの心中を見事に表現しています。しかも、ここでも熊倉一雄のポワロをイメージして訳された台詞だろうことが窺えます。恐らく直訳は「信じられん!」で正解なのでしょうが、いささか乱暴な言い方に聞こえてしまい、ドラマでの熊倉の慇懃な演技にはイメージが合いません。



 ポワロは捜査のため、現場となった客室に入りますが、その部屋は窓が開けっ放しで寒風が容赦なく流れ込み、凍えるような寒さとなっていました。ここでポワロが口にした台詞が……。


「ブルルル」(ハヤカワ)

「ブルルル」(創元)

「ぶるるる」(角川)

「ぶるる」(光文社)

「ブルルル……」(偕成社)

「ブルルル……寒い!」(新潮)


「ブルルル」第二弾です。第一弾の中尉のときは「意訳」していた偕成社も、ここではとうとう「ブルルル」と言わせてしまいました。しかも主人公のポワロに。唯一新潮だけが「寒い」と台詞らしい台詞を言わせていますが、かえってその前の「ブルルル」が目立つ格好になってしまっています。ここでまた出てきたということは、原書もこうなっているのでしょうね。私も今度、寒い日に言ってみることにします「ブルルル」



 次は、事件現場でポワロが証拠品や犯人の遺留物がないか、室内に目を走らせる場面の描写です。


 ポアロの視線がコンパートメントのあちこちに飛んでいた。鳥のように鋭く輝く目だった。その目でじっくり見ていけば、何ひとつ見落とすことはないだろう。(ハヤカワ)


 ポワロは、部屋のなかを鋭く見わたした。目は、鳥の目のようにぎらぎら光っていた。その眼力に会っては、なにものも隠しおおせるものではない。(創元)


 ポワロは客室内に視線を走らせた。まるで鳥の目のように鋭い眼光である。この眼差まなざしから逃れられるものなどありはすまいと人は思うだろう。(角川)


 ポアロは客室内に目を走らせた。鳥の目のように鋭く輝いている。なにものも見過ごしにはされまいと思われた。(光文社)


 ポワロは、まるで鳥のようにするどく輝く目で、客室の中をあちこち見ていた。なに一つ見落としそうになかった。(偕成社)


 ポワロの鋭い目が、部屋の中をすばやく見回しはじめた。鷹のように光った鋭い目だ。この強い目に睨まれたら、何物も所在をくらますことは出来ないだろう。(新潮)


「鳥のように」「鋭く」「光る」というのが共通のワードとして登場し、「その目からは何も逃れられない」ということをそれぞれの翻訳で表現しています。こういう描写って作家としても書き甲斐がありますし、翻訳者の腕の見せ所なのではないでしょうか。

 他が「だろう」「思われた」などの推定表現を用いている中、創元だけが唯一「隠しおおせるものではない」と断定しています。推定表現がほとんどを占めているということは、原書もそうなっているのでしょうが、創元だけは断定することによって、名探偵であるポワロに対して絶対の信頼感を表しているように思えます。また、新潮だけが「鷹」と書き、鳥の種類を指定しているのも面白いです。



「第二部」

 ポワロが「トランク・コール(長距離電話)」という言葉を言い間違えて、相手(「デブナム」あるいは「デベナム」もしくは「デベンナム」)にそれを正される場面です。


「あ、それそれ、お国のイギリスでは、ええと“カバン電話”と言うんでしたな」

 メアリ・デブナムは思わず苦笑した。

「カバンじゃなくて、トランクよ。イギリス風に言うと、トランク・コール」

(ハヤカワ)


「そう、そう。英語で言うポートマントー(旅行鞄)・コールというやつです」

 メアリー・デベナムは、おもわず笑った。

「トランク・コールですわ(後略)」

(創元)


「ああ、そうだ。イギリス風にいえばスーツケース・電話コールですな」

 メアリー・デブナムは、思わず小さく笑みを漏らした。

「トランク・コールですわ(後略)」

(角川)


「そうです、英国ふうに言えばかばん電話ポートマントー・コールですな」

 メアリ・デブナムはつい小さく笑みを漏らした。「それを言うなら、トランク・コールですわ」

(光文社)


「ああ、そうです。イギリスで〈スーツケース・コール〉というやつです」

 メアリ・デベンナムは思わず、クスリとわらってしまった。

「長距離電話なら〈トランク・コール〉ですわ」

(偕成社)


「ああ、そう、イギリスで、“ポートマント――コール”というやつです。」

 デベナム嬢は、思わずクスクス笑って、

「トランク・コール(長距離電話)です」

(新潮)


「トランク・コール」の「トランク」を似たものに言い間違えたのですが、カバン、ポートマントー、スーツケース、と三種類の語が出てきました。「スーツケース」は我々日本人にも馴染み深い名前ですが、「ポートマントー」って、皆さん聞いたことありますか? 私も知らなかったので調べてみると、小型の旅行鞄をそう呼ぶことがあるらしいです。知りませんよねぇ「ポートマントー」。「トランク」と言い間違える言葉としては、日本人にも分かりやすい「スーツケース」というものがすでにあるのに、どうして「ポートマントー」なんていうマイナーは単語を使ってきたのか疑問ですが、これは恐らく原書がそうなっているからだと思います。ここは読みやすさと理解のしやすさを優先して、「スーツケース」と意訳しても全然問題なかったのではないかと思います。角川と偕成社は「スーツケース」と分かりやすくしてありますね。創元と光文社は「ポートマントー」をそのまま使っていますが、ルビや括弧でそれが「かばん」を言い表す単語だと分かるようにしてあります。一番大胆なのはハヤカワですね。“カバン電話”と「ポートマントー」も「スーツケース」も使わずに、完全日本語にすげ替えてしまっています。「トランク」も外来語として定着して、もう日本語みたいなものなので、これで十分通じると翻訳者は考えたのでしょう。実際そのとおりですし。

 そんな中にあって、新潮だけはルビも括弧も使うことなく、「ポートマントー」をそのまま出してきています。直後のデベナムの台詞を読むことで、「ああ、『ポートマントー』とは、『トランク』に類する鞄の一種を表す言葉なんだな」とようやく理解できます。これは不親切な訳だと言わざるをえません。



 次は、本編の中でも屈指の名シーン。犯人がポワロを挑発するような手がかりを残し、発見したポワロが、それを「犯人からの挑戦状」として受け止めるシーンでの台詞です。


「おやまあ」ポアロはつぶやいた。「こういうことか。挑戦だな。大いに結構。受けて立とうじゃないか」(ハヤカワ)


「うむ。やったな。挑戦だ。よし、さあ来いだ」ポワロは低くつぶやいた。(創元)


「なるほど……」ポアロがつぶやいた。「分かりました。私に挑む気なのですね。いいでしょう。受けて立ちますよ」(角川)


「なるほど」彼はつぶやいた。「そういうことか。挑戦というわけだな。けっこう、受けて立とうじゃないか」(光文社)


「なるほど。そういうことですか。挑戦というわけですね。けっこう。受けて立ちましょう」と、ポワロはつぶやいた。(偕成社)


りおったな! おれへの挑戦か。よし、応戦するぞ」

 と、ポワロはつぶやいた。(新潮)


 各社、趣向を凝らした翻訳をしており、どれも思わぬ「挑戦状」を受け取ったことで、静かに闘志を燃やすポワロの姿が目に浮かびます。特に角川の訳は、やはり熊倉一雄の声で再生すると非常にしっくりくる訳文です。

 ほとんどの翻訳が似たようなニュアンスで訳されている中、ここでも異彩を放っているのは新潮です。ポワロ、激おこです。「つぶやいた」とあるのに、台詞にエクスクラメーションマーク「!」が付いていることから、怒りを噛み殺しているかのような様子が想像できます。しかも、それまで一人称が「ぼく」だったのに、ここでいきなり「おれ」に変わる激高ぶりです(次の場面から、また「ぼく」に戻ります)。



「第三部」

 事件も佳境に入り、ある登場人物を詰問攻めにするポワロに対して、別の登場人物が激高して食ってかかるシーンの台詞です。


「身体中の骨をへし折ってやる、この薄汚い下司野郎」(ハヤカワ)


「きさまの骨をへし折ってやるぞ!」(創元)


「お前の体じゅうの骨を一本残らずへし折ってやるぞ。薄汚いくず野郎め」(角川)


「骨を一本残らずへし折ってやる、この思い上がった知ったかぶり野郎が」(光文社)


「からだじゅうの骨をへし折ってやる、このうすぎたない、ろくでなしめ!」(偕成社)


「この汚らわしい生意気野郎め! 貴様の骨を一本残らずへし折ってくれるぞ!」(新潮)


 こういう乱暴な表現を翻訳するのは難しいのではないかと思います。基本情報として共通しているのは、「残さず骨を折る」という暴力行為と、好ましくない人物を表す一般名詞で罵倒することですが、その言い方、選択もそれぞれ趣向を凝らしていて面白いです。「薄汚い下司野郎」(「下司」は「げす」と読みます。本文にルビが振られていなかったので引用もそれに倣いましたが、一般的でない漢字表記のため、これはルビを振ってもよかったのではないかと思います)「薄汚いくず野郎」「思い上がった知ったかぶり野郎」「うすぎたない、ろくでなし」「汚らわしい生意気野郎」日本語というのは実に豊かな表現を持つ原語だなと改めて思いました。

 そんな中、創元だけは「骨を折る」という行為しか表記せず、しかも「体中の」とか「一本残らず」などの具体的な骨折のさせ方も表記していません。古い時代の翻訳なので、あまりきれいでない言葉を使わないように配慮したのかと思いましたが、創元の一年後の1960年に出版された新潮で、すでにこの大罵倒ぶりです。この一年間に出版業界でいったい何があったというのでしょうか。


 事件は佳境に入ります。ポワロは得られた手がかりを組み立てて、驚くべき真実を明らかにするのですが、それを聞かされて困惑したある登場人物の台詞を、連続してはいないのですが、近い場面のため、続けて抜き出してみます。


「頭がくらくらしてきた」

「いったい、この列車で何が起きてるんです? わけがわかりませんよ」(ハヤカワ)


「頭がくらくらして来た」

「この列車は、いったいどうしたというのです? まるで精神病院じゃありませんか」(創元)


「頭がどうにかなりそうだ」

「いったいこの汽車じゃあ、何が起きてるんですかね? まったく何もかも狂ってるとしか思えません!」(角川)


「頭がくらくらしてきた」

「いったい、この汽車じゃなにが起きてるんです? まともな人間がひとりも乗ってないみたいだ」(光文社)


「ウウ、目がまわりそうです」

「列車内は、どうかしちまってるんじゃあないですか。まるでむちゃくちゃだ」と、母音を引きのばすようにしていった。(偕成社)


「うーん、ぼくは頭がクルクル回り出した。」

「一体全体この列車はどうしたというんです? まるで精神病院みたいじゃないですか?」(新潮)


 はい、最初の台詞は、新潮のものを紹介したくて、あえて比較したものです。かわいくないですか?「うーん、ぼくは頭がクルクル回り出した。」

 二番目の台詞は、ポワロの推理によって導き出された列車内の異常事態を表現したものですが、創元と新潮が同じ「精神病院」というワードを使っているということは、原書に忠実に直訳するとこうなるのでしょう。新しい訳はそこのところに配慮した翻訳になっています。中でも児童書の偕成社は、かなりマイルドな表現に抑えている印象があります。それと偕成社だけ、「母音を引きのばすようにしていった」という詳細が加えられています。これも原書にあるものだけれど、他の五社は必要なしと思って省いたのでしょうか? 母音を引きのばす言いかたって、どんななんでしょうか? 当該台詞をそう表記してみると、「れぇっしゃぁなぁいぃはぁ、どぉうぅかぁしぃちぃまぁってぇるぅんじゃぁなぁいぃでぇすぅかぁ」みたいな感じなのでしょうか。どうかしてるのはお前だ、と突っ込まれそうです。



 さて、いよいよ事件が終焉し、名探偵は舞台を去ります。そのときの、ポワロ最後の台詞です。


「それでは」ポアロは言った。「事件の真相についての説明も終わりましたので、わたしはそろそろ退場するとしましょう……」(ハヤカワ)


「では、私としましては解決を洗いざらい提示いたしたのですから、このへんで事件から手を引かせていただきます……」

 ポワロがいった。(創元)


「それでは」ポアロが言った。「こうして推理もお聞かせしたことですし、私は事件から身を引かせていただくとしましょう……」(角川)


「それでは」とポアロ。「つたない推理をご披露したところで、わたしはこれにて退場とさせていただきます……」(光文社)


「では、みなさんの前でこうして、事件もぶじ解決したことですし、わたしは失礼させていただきます」と、ポワロはいった。(偕成社)


「では、わたしは、自分の解答を皆様方の前に残して、この事件から退場させていただくことを名誉といたします――」

 と、ポワロが言った。(新潮)


 見事事件を解決したにしては、ポワロの物言いが何だかそっけないと感じた方もいるかと思いますが、詳しく書くとネタバレになりますので、これには理由がある、とだけここでは書いておきます。

 こうして並べてみると、ポワロ最後の台詞が、「説明した」「提示した」「聞かせた」「披露した」「残した」といった言葉で締めくくられていて、ひと言も「解決した」と言っていないことに気付くと思います。唯一、偕成社だけが明確に「事件もぶじ解決」と書いていますが、これは媒体が児童書のため、結末をはっきりさせるためにそうしたのか、もしくは、あくまでこの事件は、ポワロの解答をもって「解決した」という含みのある書き方をしたのだと思います。『オリエント急行』を既読の人だけが、この最後の台詞が、突き放すようなそっけなさ、あるいはもの悲しさを持っていることの意味を知り得るのです。

 最後にここに触れておきましょう。新潮の訳は、この最後の台詞だけ、ポワロの一人称が「わたし」になっています。途中で取り上げた犯人からの挑戦のシーンでは「おれ」になっていましたし、新潮版ポワロは場面によって一人称を使い分ける人物のようです。このシーンが「ぼく」だと何だか軽いですし、最後に一人称を「わたし」としてびしっと決めて、新潮版ポワロは舞台を去ったのでした。



 以上、六社が出している文庫版を読み比べてみました。いかがだったでしょうか。

 翻訳というのは、ただ単に外国語を日本語に訳すだけでなく、「小説」として読めるだけの高度な日本語文章に構築しなおすという、途方もなく難儀な仕事だと思います。ある意味、いちから小説を書くよりも大変な仕事なのではないでしょうか。

 私のような外国語がまったく出来ない人間も、海外の優れた作品を読み、楽しむことが出来るのは、原書を訳して下さっている翻訳者の方々のおかげです。今回紹介した六冊はもとより、海外作品の翻訳に携わっている全ての方々に最大限の感謝と敬意を表します。また、「読みにくい」「カタカナの人物名が憶えにくい」と敬遠することなく、もっと多くの国内ミステリの読者が海外翻訳ミステリも手に取って、読んでくれることを願っています。


『オリエント急行』未読の方も、これを機会に自分に合いそうな翻訳を選んで読んでもらえたら、筆者としてこれほど嬉しいことはありません。

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この「本格ミステリ」が読みやすい! 庵字 @jjmac

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