第22話


 足元すら覚束ない暗闇。

 湿り気を帯びた生臭い腐敗臭。

 一歩踏み出せば床板がギシと軋み、耳を障る。

 そんな不気味な一切を意識の隅に追いやり、少女は静かに……死人のように、歩みを進める。心は冬の湖のように恐ろしく静まりかえっていた。


 リビングのキャンドルは、部屋の隅の一つだけが生き残っていた。血と苔が染み付いた部屋が、朧気な光に照らされる。

 ギィ、というドアの開く音。顔を左に向ければ、長身な黒人の少年が佇んでいた。

 写真立てに飾られていた少年だ。背が高く、他の子供に比べれば随分と大人びて見える。少年は目があったかと思うと、くるりと踵を返し、ドアの向こうの暗闇へと消えた。

 誘われるように、少女は暗闇の中に踏み込んだ。長い廊下がずっと続いていて、ぽつぽつと置かれたろうそくの火が足元を照らしている。

 廊下の一番奥にも部屋があり、そこにも一人の人影があった。光量が足りず黒いシルエットになっているが、先ほどの少年とは背格好が違う。髪を左右で結いあげた、小さな女の子。小さな手を振って、少女を呼んでいる。


 かつてここにいた子供たちの残像が、壁の血塗れのようにこびりついた魂が、自分を動かしている。

 逆らおうという考えは全くなかった。むしろ、自分らしい考えは水に溶けるように薄れている。意識はしっかり持っているものの、夢を見ている感覚に近かった。

 今はただ、メアリ達に誘われるままに、体が勝手に動いている。

 それでいいのだと、魂が理解している。これは、メアリの意趣返しだ。自分は、メアリの悔恨を晴らす為の器だ。

 だから、死人に徹する。

 恐怖も、生きたいという願いも、今は心に止めるだけにしておけ。

 体は、メアリ達が導いてくれる。


 --ほぎゃあ。


 廊下を進んでいると声がした。視線を落とすと、ハイハイをする赤ん坊が脇のドアの僅かな隙間に消えていく。

 赤ん坊の消えたドアを開ければ、それは元は応接間として利用されていたらしき場所だった。大きなソファと背の低いガラステーブルが部屋の中央に鎮座している。

 もちろんそこも他の部屋と同じく、腐食しきって廃墟同然だったが、少女の目を奪ったものはもっと別のものだ。


 応接間の壁には、異様なものが飾られていた。花柄の壁紙が乱暴に引き剥がされ、沢山の縄のようなものが太い釘を打たれて飾られていた。

 近づき、その一つを手に取ってみる。さらりとした手触りで、すぐにそれが人間の頭髪だと気づいた。

 まるで子供が取ったトロフィーを並べるように、写真を飾って思い出を残すように、二〇を超える頭髪が提げられている。

 老婆は、最後まで愛したらしい子供達をこうして飾っているのだ。頭髪の色と数を見れば、どれだけの子供が犠牲になったのかを思い知らされる。


 その時だった。


 --うしろ。


 耳元でメアリが囁いた。とっさに振り向くと、老婆が恐ろしい勢いで突進してきていた。その手には、巨大な肉切り包丁の鈍い輝き。


「ばぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼︎」


 涎を滴らせながら、少女めがけ肉切包丁を振り下ろす。少女は咄嗟に、壁の毛束を引っ掴み、受け止めた。

 数多の血で錆びた包丁は、髪を切り落とすだけの切れ味がない。しかし勢いのままに、少女は老婆にのし掛かられる。

 フライパンを押し当てられた顔の左半分は、皮膚がただれてケロイド状になっていた。醜く腫れ上がった顔をさらに醜悪に歪め、老婆は吠える。


「それに触るな! 汚い手で触れるな! それはアタシの愛だ! アタシの娘達だぁぁぁ!」


 絶叫し、肉切り包丁を持つ手に更に力を込める。束ねた髪の毛が、ブチブチと音を立てて切れていく。

 老婆の鬼気迫る表情が視界を埋め尽くす。しかし次に瞬きをすると、少女の視界の端にジーンズとスニーカーを履いた誰かが佇んでいた。

 少女は体をよじらせて、肉切り包丁を左にそらした。鈍い刃が髪の上を滑り、少女の左手を貪った。人指し指の付け根が切り裂かれ、ごきん、と骨が砕かれる。とてつもない鈍痛が、少女の人間らしさをずたずたに引き裂く。


「ぢ、ぎぃっ--や、あ、ああああああああ!」


 少女の絶叫に応じるように、誰かの足はからんと何かを蹴飛ばした。

 無我夢中でそれを引っ掴み、左側に転がった老婆の体に叩きつける。

 肉を食い破る感触が手のひらに刻みつけられる。老婆の左の肩口に刺さっていたのは、壁に打ち付けられている太い釘だった。


「ぎゃがっ! このっ、くそがき! 糞餓鬼ィィィィィ!」


 半狂乱になった老婆が肉切包丁を振り回す。転がってそれを避けると、切られた左手に酷い痛みが走った。

 左手は真っ赤に染まり、心臓の鼓動に合わせてドクドクと血が流れ出ている。真っ赤な切断面の奥には白い骨が覗いていた。痛い。痛い。だけど、知ったことか。ここで潰えたメアリ達に比べれば、死には程遠い。


「あんた……なんだい、何なんだいぃ?」


 老婆も、少女を異様な物と感じとったようだ。狂気そのものだった目に、微かに怯えが見える。

 肉切包丁をゆらりと振り被る。その脇に、白いワンピースを着たメアリが現れていた。

 老婆の鬼気迫る剣幕の中、メアリはくるりと回ってワンピースの裾を揺らした。

 幽霊なんかじゃない。少女よりよっぽど輝いて見える、女の子の虚像。

 これは過去の光景なのだろうか? 今まで見てきたどれよりも幸せそうな顔で、メアリは笑う。


 --ねえ。鬼ごっこ、しよ?


 脳内に語りかける、そんな声。

 にこやかな顔でメアリが駆け寄ってくる。その後を追うようにして、老婆が奇声を上げて突進してきた。

 少女はメアリを避けて横に飛び退く。そこを老婆の肉切包丁が空振り、床に勢い良く突き刺さった。

 バキッと、明らかに他と違う危機的な音がした。床板の一部が砕け、老婆の体がつんのめる。


 --きゃっきゃ。


 笑い声を探して見上げれば、ソファの上に野球帽を被った男の子が立っていた。男の子はソファの背からぴょいと飛び上がると、老婆の脇へ着地する。そこには小さな穴が空いていて、男の子は驚き、穴をじっと見つめている。

 過去の光景が、自分がするべき事を教えてくれる。

 少女は渾身の力で、老婆の側の床板を蹴りつけた。

 腐食した床板は少女の力でもたやすく砕け、衝撃は波状的に周囲の板も道連れにしていく。

 耳をつんざくような轟音を立て、ガラスが砕けるように一気に、大きな穴が開いた。


 老婆の絶叫が、床下の闇の中に消えていく。大きな水音が上がったかと思うと、それ以降何も聞こえなくなった。

 耳が痛くなるほどの静寂が、再び屋敷の中を支配する。

 気がつくと、少女の拳は石のように固く握りしめられていた。苦心して拳を解き、穴の側でへたり込んだ。


「……はぁっ。痛……」


 ずっと止めていたような呼吸を再開すると、途端にちぎれるような痛みが戻ってきた。左手は今も血がとめどなく流れ、ブルブルと痙攣を続けている。肉が半分削がれた人差し指は、自分のものである実感を持つ事ができなかった。

 そして、背中にも無数の虫に食い破られるような堪らない痛みがある。体をよじって見てみれば、衣服の一部は焼け焦げ、雪のように白い肌が、真赤に腫れ上がりボコボコに隆起していた。

 恐る恐る触れると、皮膚がずるりとすべり、内側の膿んだ肉が露わになった。途端、何百本もの針を突き刺したような痛みが訪れる。


「ぃ、ぅ、~~~~~っ!」


 信じられない激痛に、体がビクビクと痙攣する。赤熱したフライパンを押し付けられたのだ。当然、老婆の顔と同じように、生命が危ぶまれるほどの火傷が起こっている。

 熱は感じないのに、それによって派生する痛みはしっかりと受けるのだ。我ながら、なんていう不揃いな体なんだろう。今この瞬間を思えば、痛みすら不要に思えてしまう。

 唇を噛み締めて、数度の深呼吸。痛みを耐えれるようになった頃には、白いワンピースのメアリが、少女の傍らに立っていた。

 何かを訴える目に、少女は脂汗を浮かべながら、笑って応じる。


「そうだよね……まだ、終わりじゃない」


 気力を振り絞り、少女は立ち上がる。自分は死者だ、肉体を持たないメアリの為の、ただの人形だ。そう言い聞かせ、痛みや怖さといった余分な『自分らしさ』を押しやる。



 少女は幽鬼のように歩いた。フラフラと揺れる少女の周りを、小さな子供達がきゃっきゃと楽しそうに回っている。

 髪を二つ結びにした女の子。野球帽を被った少年。静かに本を読む中東系の女の子。大人びた黒人の少年。ハイハイする赤ん坊。世界というベールを隔てた過去の光景が、蜃気楼のように少女を包む。

 一つのボールを取り合い、蹴りも投げるもありの何でもルールで遊んでいた。一冊の本に身を寄せ合い読んでいた。同じ歌を一生懸命に練習していた。お祭りの度に部屋を勝手気まま、彩り豊かに飾り立てた。

 子供同士の喧嘩を、年上の子が諫めていた。その一方で、泣いている小さい子をあやして、初めてお姉ちゃんになった女の子がいた。

 かつて、ここは子供達の笑顔で溢れていた。生きている事を楽しく尊く思い、未来への希望を抱いていた。

 誰もが将来を夢見ていたのだ。ここを巣立ち、一人前になる日を信じていた。もっと長く、楽しく生きるのだと疑わなかった。

 ここには未来があった。とても輝かしい、希望に溢れた将来への期待が。


「……おかあ、さん」


 不意に、母の顔が思い浮かんだ。母としての面子を気にして、自分の安全を強要した母。他人行儀で距離を置いて、決して融和することの無かった肉親。

 決して好きではなかったのに、どうして思い浮かんでしまうのだろう。

 ……やはり、それが母親というものなのだろう。


「……帰ったら、ちゃんと話そうかな……将来の事とか、私の、こととか……」


 愛してるからといって食べてしまうような最悪の母親を知ってしまったのだから、今ならもっと、ちゃんと、優しくなれるような気がした。

 壁に手を付きながら、突き当たりの部屋に辿り着く。他とは違う鉄製のドアを開けると、冷ややかなコンクリート張りの空間に出た。


 そこはどうやら物置のようで、幾つかの掃除用具にガラクタ寸前の自転車、錆びきったパイプ椅子などが置かれている。古ぼけた棚の木とホコリの匂いで噎せそうだ。

 高い場所に開けられた窓からは月明かりが差し込み、倉庫を辛うじて照らしていた。カサカサ、とネズミか何かが視界の隅を横切っていく。冷え切った石の匂いに、微かな血の乾いた匂いを感じる事ができた。

 床のコンクリートに、何かを引きずった黒い跡がレールのように伸びている。それを追いかけると、使い古されたダストシュートがあった。

 屋敷の外観を思い出すと、ちょうど入り口から湖の面に出てきた事になる。そこには更に下に一つの空間……あの排水溝が繋がる場所があるはずだった。

 更に倉庫を見回すと、コンクリートの色が異なる場所を一箇所みつけた。四角形に縁取られたコンクリートは明らかにドアを塞いだ跡だ。

 地下に通じる入り口は、このダストシュート以外にない。屋敷をくまなく探せばあるかもしれないが、それは逃げた子供に対し、老婆がトドメを刺すためのものだろう。そちらもまた、見つからないよう隠されているはずだ。

 誰も知らない廃棄場。誰も出られなかった地獄の底。



 はぁと吐いた息が白い。怪我をして、体力が落ちていたら、体はどれだけ冷えるのだろう。遅効性の毒に侵されているような錯覚を抱いてしまう。

 死にゆくような気がした。

 ……死んでたまるか。

 ……だけど、彼女たちのためにも、死は近い方がいい。

 ……地獄には丁度いいだろう。


「……今行くよ、メアリ」


 少女は、ダストシュートに体を滑り込ませる。

 ガコンという重い音がして、暗闇が少女を飲み込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

仄かに蒼い湖畔の底に brava @brava

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ