第21話
足音を殺し、少女は奥の部屋に近づいていく。夥しい量の血液が靴を濡らして、足を取られないように気をつけなければいけなかった。
鼻が曲がりそうな得体の知れない匂いは、益々強くなっている。生理的嫌悪感を刺激されて、こみ上げる吐き気を抑えなければいけなかった。
奥の部屋を、そっと覗き込む。
細長い間取りのキッチンだった。床や壁には黒々とした何かがべっとりとこびりつき、岩のように固まっている。大きなバケツが無造作に置かれていて、中には大量の血と、切られたばかりの腕が突き出ている。
古ぼけたコンロには大鍋とフライパンが敷かれ、底部が赤く染まるほどに強烈に熱されていた。
火の前には老婆がいて、巨大な鉈をじっくりと研いでいる。背筋がすくみ上がったが、目の前の下ごしらえに執心のようで、少女に気づいた様子はない。
まさに今から、調理をしようというのだろう。あの狂人が『愛』とのたまう、猟奇的な殺人を。
お嬢様はキッチンの一番奥に転がされていた。猿轡を咬まされ、両手足を縛られている。呼吸はしているようだが、体に力は入っておらず、ぐったりと項垂れてる。強引に黙らされたか、それともあまりの恐怖に失神してしまったのかもしれない。
いっいっ、と老婆がえずくように笑う。研いでいた鉈を手に持ち、少女に背を向けてお嬢様と向き直る。ゆらゆらとやじろべえのように揺れる背中がとにかく不気味だった。
「愛しい、愛しいあたしの娘……さあ、一つになろうじゃないか。切って、焼いて、あたしの中においで。さあ、さあ」
老婆はゆらゆらと揺れながら、お嬢様の足を持ち上げた。右手に持った鉈を持ち上げ、少女の足に狙いを定める。
今だ。少女は飛び出し、掛け声と一緒に、老婆の右肩にナイフを突きつけた。
食事用のナイフは老婆の枯れ果てた肌を易々と貫いたものの、数センチ潜り込むと、骨と筋肉の硬い感触を少女の腕に伝導させた。腕がビリビリと痺れ、人を傷つけた実感を少女に刻みつける。
「ごっ⁉︎」
異形の呻き声を上げて、老婆が鉈を取り落とした。ガシャンと重苦しい金属音が鳴り、床に溜まった血溜まりに落ちる。
少女が鉈を遠くに蹴り飛ばすと、老婆が鬼の形相で掴み掛かってきた。首を狙って迫る両腕を、少女は咄嗟に身を屈めて避ける。前のめりの老婆の体と激突し、二人共後方に弾き飛ばされた。
顔を上げれば、お嬢様も意識を取り戻していた。体を揺すり、驚きの表情で少女を見ている。顔には殴られた青アザがある。猿轡を咬まされた姿が、あまりに痛々しかった。
「大丈夫⁉︎」
キッチンの血まみれのまな板の上には、同じく真っ赤に染まった包丁があった。少女はそれを手にとって、お嬢様の拘束を外そうとする。
腕を縛るバンドに刃をあてがった瞬間、お嬢様のくぐもった絶叫が猿轡越しに響いた。
「あああああ! くそ、くそ! なんて悪い子なんだい‼︎」
振り返ると、半狂乱になった老婆が、コンロで焚かれていたフライパンを振り上げたところだった。
赤熱したフライパンが、凄まじい勢いで振り下ろされる。お嬢様をかばい、少女は我が身を投げ打った。
背中にフライパンが激突する。じゅうっと肉が焼ける音に、焦げた匂い。未知の振動が、背中から全身に広がって震わせた。
お嬢様が悲鳴を上げ、老婆が下卑た高笑いを浮かべる。
「いっひゃははははははぁ! ………………は?」
しかし、それも一瞬。
少女が平然と振り向いた瞬間、老婆は信じられないものを見た顔で硬直した。
……痛くない。
『熱い』なんて、自分は知らない!
老婆は表情一つ変えない少女に、ただただ狼狽している。
少女は突進し、老婆が手に持ったままのフライパンを引っ掴み、老婆の顔に押し当てた。
「っぎゃああああああああああああああああああああああああああああ⁉︎」
この世のものとは思えない絶叫と共に、老婆の顔が一瞬で焼けただれる。後ろに飛び退くも床にしたたかに体を打ち付け、顔を覆って悶え苦しむ。
これが熱いということだ。痛みに悶えるこの姿が人間だ。今は、自分がまともでないことに感謝する。
包丁でお嬢様の拘束を外し、猿轡を解く。感極まったお嬢様が、少女に抱きついてきた。よほど乱暴にされたのか、体はボロボロで、子犬のように震えている。
「ごめんね、本当にごめんね! すぐに−−っ」
抱き寄せた少女は、目の端に映ったものに気づいた瞬間、言葉を失った。
台所の奥には大きな戸棚があり、野菜や酒瓶など大量の食料が備蓄されている。
その上部に、まるで薫製肉でも干しているかのように、人間の生首が括り付けられていた。
荒々しい切断面からはピンク色の肉が覗き、今も血が滴って下の野菜を赤く染めている。
口は今でも悲鳴が聞こえてきそうな程に開け放たれ、目は飛び出さんばかりに開かれている。
苦痛と恐怖を貼り付け豹変した顔は……間違える筈もない、運転手の男性だった。
ここで強引に切り裂かれ、殺されたのだ。生きたまま、豚を解体するようにして。そして恐らくは、少女の目の前で。床に散乱する肉と血の海をみれば、それがどれほど痛ましい惨状だったか容易に想像できてしまう。
食卓に差し出されたスープの事を思い出すと、怒りとやるせなさでどうにかなってしまいそうだ。たまらずに、お嬢様の今にも壊れてしまいそうな体をかき抱く。
「ご、めっ……ごめんなさい。ごめんなさい……っ! わ、わた、動け、なくて。何も……う、ううぅぅぁぁ……!」
「っ……早く出よう。ここにいちゃいけない」
老婆は忽然と姿を消していた。どこか遠くで、地獄から響いてくるようなおぞましい絶叫が聞こえてくる。
困憊しているお嬢様の手を引いて、少女は出口へと急ぐ。
幸いにも、ドアを塞がれたりという事はなかった。関を外し鍵を開ければ、重苦しい木の音と一緒、夜の涼やかな空気が肺に飛び込んできた。
まずはお嬢様が真夜中の暗闇に踏み出した。
しかし、握られていた手がふっと放される。
お嬢様が驚いて振り返ると、少女はドアの前で佇み、視線を落としていた。
メアリが、見ていた。少女の服の裾をつまみ、何かを訴える強い眼差しで自分を見上げている。
視線には微かに敵意も覗いていた。ドアを隔てたこの境界を踏み越える事を、彼女はきっと許さない。
「っ……どうしましたの? 早く!」
メアリが見えないお嬢様は、息巻いて手を差し出す。メアリの無言の圧力に、さらに凄みが増す。
逃がすものかと、目が訴えていた。
だから少女は、逃げないよと優しく微笑んだ。
何かを察したのか、お嬢様は信じられないものを見る目を向ける。
「まさか……嘘ですよね?」
「先に行って、誰か助けを呼んできて」
「ダメです! そんなの認められません!」
頭を振って、お嬢様はもう一度手を突き出した。
「ここにいては殺されます! そんなの絶対にダメです! 早く助けを呼びましょう、二人で一緒に! お願いです! お願いだから……死のうとしないで」
必死の声は、やがてすすり泣きが混じり、弱々しく掠れていく。
目の前で繰り広げられた地獄を思い出すと、途端に心は折れてしまう。肩を震わせながら、悲壮に暮れた声で懇願する。
「あなたは、私の大切なお友達です……あんな惨いの、あんな酷いの、絶対にダメです。これ以上は、もう耐えられません」
「……ありがとう。でも……私の方が勝ちかな」
その声音で。優しく見下ろすその目で。お嬢様は少女が決して揺るがない事を悟った。
「私の友達は、たった二人だけ。知らない世界を見せてくれた人と、今の楽しさを教えてくれた人。その二人は、死人みたいだった私自身よりも、もっとずっと大切なの」
少女の言葉に、鋼のような意固地な心を感じたようだった。お嬢様は、認めたくないと思いながらも、少女の心を動かすだけの言葉を探せずにいる。
「私は死なないよ。一緒に買い物したいもん。もっと、仲良くなりたいもん……だから、助け、よろしくね」
そう言い残して、少女は扉を閉めた。最後にお嬢様がこちらに駆け寄ろうとしていたが、構わずに締め切り、閂を下ろした。
ハッキリとした決別。お嬢様はしばらく扉の前にいる気配を見せたが、ドアを叩くことも、少女に呼びかけることもしなかった。
飛び込んできた新鮮な夜の空気は、すぐに屋敷の陰鬱な空気に紛れて、肺を重苦しくさせた。
少女は、傍のメアリに視線を落とした。
「勝手に言っちゃったけど……友達って、呼んでもいいのかな?」
そんな気の抜けたことを聞いてみる。メアリはくすりと笑うと、ぱたぱたと闇の中へ走り去っていった。
暗闇の中に、一人取り残される。老婆のうめき声も止んでいた。少女は目を閉じて、心を研ぎ澄ませる。
メアリの姿を追いかけて、ここまで来た。
メアリの力になりたくて、ここに戻ってきた。
彼女たちの思いを代弁しよう。彼女たちの恨みを体現しよう。メアリという無数の無念の魂に、それを晴らすための体を与えよう。
痛かったよね。辛かったよね。悲しかったよね。
一人にはしないよ。そのままになんてしないよ。
自分は一部が死んでいるのだ。ならばいっそ、もっと深くに潜り込んでしまえ。
少女は心を極限まで沈め、おどろおどろしい暗闇の中に踏み込んだ。
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